玄月

黒い曇天を映せば傘。

 いつの間にか、空気がどんより重たくて。今にも雨が降りだしそうだった。

 静まり返った暗い夜の森の中。

 周りの木々ほどある大きな身体。じっとり湿った緑の肌には暗褐色のまだら模様。そんな頭のとっぺんには夢見心地な丸い瞳。ムッと閉じられた口は人を軽く丸呑みにできるくらいに大きくて……。その下では白いのどがピクピクと波打っている。そんな大ガエルの背に腰かけて、黒の魔女は差した傘を肩越しにくるくる回す。


「ヨウコねぇ……」

「こんなところまで追いかけてくるなんて。意外と情熱的だったのね、タツキ。

 ……ふふふ。もう少し大人だったなら、キスくらいはしてあげたのに♡」

 足をぶらぶら揺らす彼女は、口元を押さえてクスクスわらった。そして、

「……でも、もうそろそろおしまいにしちゃわない?」

 つまらなさそうにそう吐き捨てた。


 彼女がパチンと指を鳴らすと、それを合図に大ガエルが僕たちに向かって飛びかかる。

 その巨体からは予想できない俊敏さ。あっという間に僕らの目と鼻の先まで迫り、大きな口をガバッと開いた。慌てて後ろに飛び退くと、タライくらいほどある丸いピンクの舌がベロンっと飛び出して、さっきまで足元にあった僕らの荷物とたき火の跡は大きな口に呑み込まれてしまった。


 ……そうだ。

 あの日、メルさんたちもこうして呑み込まれたんだ。机や椅子ごとペロッと丸呑みにされた。……たまたまタツキの側にいた僕だけが助かったんだ。メルさんも、お客さんも。たまたまそこにいただけなのに。ただそれだけで死んでしまった。


「……ショウっ!!!ぼんやりすんな!!!」


 タツキの声にハッと我に返ると、視界いっぱいに迫った炎の渦。間一髪のところで後ろに避けた。顔全体にほんのり熱い。焦げた臭いが鼻を刺す。


「……あらら♡

 レアに焼いてから、ツノポンに食べさせてあげようと思ったのに。前髪くらいしか焼けなかったみたいね」

 いつの間にか、樹の枝に移ったヨウコ。気だるげに微笑み、ふぅっと息を吹きかけた。手のひらの上の何かを吹き飛ばすように。


「……また来るよっ!!!」

 タツキがバッと斧を構える。

 彼女の吐息は周囲の木の葉も巻き込み、炎の渦へ、いや、大きなほむらの竜へと姿を化して、僕らにめがけて襲いかかる。

「……っん!!!」

 タツキがそれを受け止めるも、続いてカエルが飛びかかってくる。

「ショウっ!手袋はした?」

「うんっ!」

 僕が返事をするや否や、タツキは斧の柄で地面を強くつく。


「じゃあ、行くよ!」

 パキパキパキと耳に心地よい軽い音ともに僕の手の中に現れたのは氷の槍。青い手袋をした僕はそれをぎゅっと握りしめて、カエルに向かって突き出す。こちらに飛びかかろうとしていた彼――…もしメスだったら、ごめんね。ツノポンカエルさん...…――は、それをかわそうとして、体勢を崩した。すかさず、僕は追い打ちをかける。が、ブヨブヨとした皮膚はゴムのように固くって、氷の刃じゃ通らない。それでも、僕は手を休めない。貼りつくような冷たい柄を握りしめて。右に左に、前へ前へと槍を奮う。


「ふぅーん……年下タツキの影にいつまでも隠れてばかりいるのは、もうやめたんだ」


 耳元でふぅっと息をかけられた。

 ひぃっと息が止まりそうになる。カエルはそんな僕の隙を逃さず、突き出した槍先を前足で下に払い落とす。今度は僕が体勢を崩し、前のめりに突っ伏した。


「あっははっ!

 驚かせちゃったね、ごっめぇーん♡

 お兄さん、強くなったのかと勘違いしちゃったのよぉ☆」


 傘でふわふわと、カエルの背に降りるヨウコ。振り向くと、タツキはボロボロになってひざまずいていた。

「……ぐっ。ごめん、ショウ」

 服はあちこち焼け焦げていて、麦わら帽子も被ってなかった。

「うふふふふ……随分、セクシーな格好になっちゃったね、タツキ♡

 でも、やっぱりこの辺で終わりにしなぁーい?

 まだまだもの足りないっていうのなら、その手足を焼き落として、もっとえっちな姿 ダルマさん にしてもいいんだけどねぇ……」


 ……。手足がすぅーっと冷えたみたいに力が抜けて、僕はその場に座り込んでしまった。……もうここから逃げ出したかった。


「……どうして」


「……え?」


「どうして、こんなことするんだよっ!」

 顔をあげると、タツキは斧を杖代わりにすがるようにして立っていた。服は破れてほとんど裸で。今にも倒れそうなくらいにふらふらだった。なのに、これまでになく怒ってた。

 カエルの背にいるヨウコも、さっきまで嘲笑をピタッと引っ込め、タツキのことをじっと見ていた。


「魔法使いになって、すぐは一緒に街のヒーローをしてたじゃんか!『みんなの役に立てるのが嬉しい』って、ヨウコ姉だって言ってたじゃんか!

 ……確かにさぁ、ちょっとは嫌なこともあったけどさぁ。『そんなの何処に行ってもあること』だって。そう言ってたのはヨウコ姉だろ!」

 もうまっすぐ立てなくて、地面に向かって叫ぶようにして話すタツキ。傘の柄を両手でぎゅっと握りしめて聞いていたヨウコは、ふっと小さく笑うと、しゅーっと宙を滑るようにタツキの前まで降りてきた。そして、ずっと差していた傘をゆっくり閉じた。


 雲の隙間から射したのか、彼女の白い顔を月光が照らした。彼女の顔を初めて見た気がした。

……とっても優しい顔だった。


 彼女は黙ってタツキの前に立っていた。少し呼吸が荒くなっていた彼は、息を切らしながら、ゆっくり顔をあげた。


「……ヨウコ……姉……?」


 何だか僕はホッとして、二人が目を合わせるのを横で見ていた。いや、二人が見つめ合うのだと、和解するのだと思ってた。


「……うっせぇ」


 ヨウコはそう言って乱暴にタツキの斧の柄を蹴った。タツキが杖代わりにもたれていた斧を。

 当然のように、斧は傾いてヨウコに向かって落ちていく。鈍く輝く純白の刃。それは綺麗な放物線を描いて、ヨウコの身体を二つに裂いた。


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