46

 夜の病院の静けさは、生者の存在を希薄にさせる。

 月と電子機器の放つ冷たい光だけが、生者に寄り添ってくれる唯一の光だ。

 宿直室の前に辿り着いた私は、一度、大きく息を吸って、呼吸を整えた。

 扉のすりガラス越しに見える、一切の光も漏らさぬ暗闇に、私の意識は吸い込まれそうになる。

 この先にシャンの女王が潜んでいるかもしれない。

 その見えざる恐怖がもたらす重圧に、私の心は押し潰されそうになる。

 ――大丈夫、きみならできる。

 そうだ。こんなところで弱気になってはいけない。

 遊間のかけてくれた言葉を思い出し、私は覚悟を決めて扉のドアノブに手を伸ばした。

 ――ガチャリ。

 丁寧にドアノブを回したつもりだったが、人のいない病院の静寂のなかでは、思った以上にその開閉音が鳴り響いてしまう。

 心臓が激しく鼓動する。

 私はそれが治まるのを待ってから、今度は音を立てないよう、さらにゆっくりと扉を開いた。

 扉が半分ほど開く。

 室内からは何も反応がない。

 隙間から室内を覗き見るも、そこには、ただただ暗闇が広がるばかり。

 何が飛び出してくるか分からない不安に駆られながらも、私は手探りで、照明のスイッチを探し始めた。

 ……。

 …………。

 ………………。

 ――ぬめり。

 内側の壁を探っていると、突如として嫌な感触が指先を襲う。

 スマートフォンを取り出して、ライトで恐る恐る指先を確認すると、何か液体のようなものが付着している。

 私は、慌ててその液体をスカートの裾で拭うと、そのままライトを使って、部屋のスイッチを見つけ出した。

 照明をつけると、シャンの女王の姿はそこにはなかった。

 代わりに、壁や床などの、室内のいたるところに何かが這いずり回った跡のような黄色い粘液が付着している。

 先ほど触れた液体の正体はこれだ。

 私は持っていたウェットティッシュで念入りに指先を拭うと、室内の探索を始めた。

 ――この黄色い液体は何だろう。何か、生物の排泄物のようにも見えるが……。

 ――まさか、シャンの幼虫が這いずり回った跡だろうか。いや、そもそもシャンに幼虫などというものが存在するのかどうか……。

 そんな、取り留めのないことを考えながら室内の探索を続けていると、あちこちに付着している黄色い粘液の線が、床のある一点に集中していることに気付いた。

 その一点に近づいて、目を凝らして見てみると、そこに貼られたタイルだけが他のタイルよりも僅かに浮き出ていることに気付く。

 そのタイルにそっと触れてみる。

 するとタイルは、ゴトリ、と音を立てて僅かに横へずれ動いた。

 ビンゴだ。

 そのタイルは取り外しができるようになっており、中には人ひとりが通れるほどの小さな穴と、その穴には地下へ降りるための梯がかかっていた。

 シャンの女王はこの先にいる。

 確信が強くなるにつれ、その重圧も一層強くなる。

「……よし、行くぞ」

 私は自分にだけ聞こえる程度の小さな声で呟いて気持ちを奮い立たせ、梯の格にゆっくりとつま先をかけた。

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