43
「え、ここって……」
地図が示すシャンの居場所へ到着した私は、自分の目を疑った。
第四病棟、一階、精神科フロア。
長い廊下の突き当りに位置する、他の部屋より少し広めに間取りされた一室。
その一室に、私は見覚えがあった。
それは、悪夢のような記憶の原因を探るために、一年近く通い続けた、私にとっては馴染みの深い部屋。
そう、八木山医師の診察室である。
診察室の壁や扉には、小窓のようなものは一切ついておらず、扉を開けずに外部から室内の様子を窺うことは出来そうにない。
遊間は、その部屋を一睨みすると、壁に耳を押し当てた。
私も、遊間に続く。
――ガサ。
突然、誰もいないはずの室内から紙の擦れる音が聞こえてきて、遊間と私は咄嗟に身構えた。
やはり、この部屋の中にシャンが隠れ潜んでいるのだろうか。
「……よし、開けるぞ」
遊間は覚悟を決めたように低い声でそういうと、物音を立てぬよう、ドアノブをゆっくりと回しながら扉を開いた。
扉の隙間から、蛍光灯の白い灯りが廊下へと漏れ出す。
そして、扉が開ききった次の瞬間、何か重たいものを床に落としてしまったかのような、鈍い音が部屋の奥から鳴り響いた。
遊間と私は、恐る恐る、物音がした方向を覗き込んだ。
「こら、きみたち。この部屋へ勝手に入って来てはいけないよ」
そこには、この部屋の主である八木山医師の姿があった。
「なんだ。八木山先生じゃないですか」
私は、肩の力が一気に抜けていくのを感じた。
「おや。そういうあなたは魔門さんじゃないですか。てっきり、入院病棟を抜け出した悪ガキどもが勝手に入ってきたのかと……」
八木山医師はそういうと、床に落ちていた黒い表紙の分厚い本を拾い上げて、それを診察机の上に置いた。
「しかし、あなたたちもどうしてこんなところに? この時間、この病棟は関係者以外立ち入り禁止のはずですが……」
八木山医師は怪訝そうな表情を浮かべた。
「すみません、事情は後で説明します」
私は、とりあえず頭を下げることにした。
「それより、今この部屋のなかには危険な生物が隠れ潜んでいるかもしれないんです。八木山先生は、ひとまず病院の外へ避難していてください」
そう。シャンとの危険な追いかけっこに、無関係な彼を巻き込むわけにはいかない。
私は早口でまくし立てた。
「ほう。危険な生物……ですか?」
私の警告を聞いて、八木山医師は興味深そうに目を細めた。
「はい。とても危険な生物なんです。今、この場でその生物について説明することは難しいのですが……とにかく今は一刻も早く、この場を離れて……」
「待て!」
私が八木山医師の元へ近づいていこうとすると、遊間は持っていた杖を私の前方へと突き出して、それを制止した。
「貴様の方こそ、どうしてこんなところにいる」
遊間は八木山医師を指さして言った。
「どうしてって、それはここが八木山先生の診察室だから……あっ」
そこまで言いかけて漸く、私は遊間が言わんとしていることに気付いて、間の抜けた声を上げた。
「そうだ。世界の位相をずらしたことにより、今この空間には我々と怪異しか存在していないはず。その世界に、なぜ貴様が存在している」
私は唾をごくりと飲み込みながら、八木山医師の方へ向き直った。
「ふふ。ふふふふふふ」
遊間の追及を受け、八木山医師は俯き、肩を震わせながら笑い出した。
「そうか。たしか悪魔探偵、とか言ったな? 貴様もやはり、こちら側の人間だったか」
医師はそういうと、ゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでの穏やかな表情はどこへやら、八木山医師は薄気味悪い笑みを浮かべていた。
「いや、僕は貴様らとは違う」
遊間は毅然とした態度で否定した。
「しかし、使えるのだろう? 魔術を」
八木山医師はそういうと、パチリと指を鳴らした。
その音を合図に、今まで何処に隠れていたのか、群れを成したおびただしい数のシャンが物陰から姿を表し、私たちめがけて一斉に飛びかかってきた。
「ちぃっ、ここはいったん引くぞ」
遊間はそう叫ぶと、私の手を強く引いて、廊下へと飛び出した。
シャンの群れは、不気味な羽音を鳴らしながら、まるで統率の取れた軍隊のように、一糸乱れず私たちを追いかけてくる。
その動きの規則正しさは、まるで群れそのものがひとつの意思を持った巨大な生物であるかのように思わせる。
「このままだと……はぁ、はぁ……追いつかれてしまいますよ」
私は息を切らしながら遊間に訴えた。
「分かっている」
遊間はそう答えると、曲がり角の先で立ち止まり、持っていた杖で廊下の壁を軽く一突きした。
すると、杖で突いたところに人ひとりが屈んで通れるくらいの小さな丸穴が開く。
「入れ!」
遊間はその穴に私を押し込めると、続いて自らもその穴に飛び込んだ。
そして、遊間の身体が完全に通過すると、穴は音もたてずにすっと小さくなって、跡形もなく消えてしまった。
「いたた……」
転んでひざをついた私の目の前には、灰色の空間が無限に広がっていた。
文字通りどこまでも広がるその世界には、壁はおろか床すらも存在していない。
にもかかわらず、私たちは二本足でしっかりとその場に立つことができる。
まるで足元に見えない床でもあるかのような、不思議な感覚だ。
「ひとまず、実世界から干渉を受けない虚数空間を創り出した」
「虚数空間?」
「詳しい説明は後だ。とりあえず、この空間にいる限り、奴らは我々の存在を探知できない、ということだ」
遊間はそういうと、内ポケットから手帳と万年筆を取り出し、それを何もない空間の上に広げた。
「さて、作戦会議の時間だ」
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