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 私の父は高名な論理物理学者だ。

 同じく物理学者だった母とは、大学院の研究室で出会ったと、幼い頃に母から聞いた。

 父はとても教育熱心だった。

 両親の優秀な血を色濃く継いだ兄は、幼い頃からその才覚を発揮した。

 とくに数学に関しては驚異的な才能を誇り、小学生低学年のうちに微積分までマスターした彼は、海外へ渡り飛び級して大学へと進学し、十七歳の頃にははじめての論文を書き上げている。

 父は私に、兄と同じ水準の能力を求めた。

 とくに何か優れた才能を持つわけでもない私は、その教育についていくことが出来なかった。

 連日、酷く叱責され、ときに殴られることもあった。

 そして、しだいに父は私に期待しなくなった。

 兄だけを見るようになった。

 私が、小学校受験に失敗し、中学受験にも失敗した頃には、すでに父の眼中に私の存在はなかった。

 家にいるときも、家族で外出するときも、私の存在は無視され続けた。

 兄も愚鈍な妹には興味がないようで、露骨に無視されることはなかったものの、父から拒絶されて落ち込んでいる私を気にかける様子は見せなかった。

 そのような状況で、いつも私のことを気にかけてくれたのは母だった。

 物理学の歴史についても造詣が深かった母は、何かある度に著名な物理学者の伝記の一部を引用し、私を励ましてくれた。

 思えば、人の生き方やその人の歩んだ人生の軌跡など、人々の紡ぎ出す物語に私が興味を持ち始めたのも、これらのことがきっかけだったのかもしれない。

 私はさまざまな人物の伝記を読み漁った。

 伝記だけでは飽きたらず、ファンタジーからSF、ミステリーに至るまで、物語であれば何でも読み漁るようになった。

 やがて、本を読むだけでは満足できなくなり、私は自ら物語を書くようになった。

 それは、作品と呼ぶには程遠い、とても拙いものだったけれども、それでも母はそれをとても楽しみながら読んでくれた。

 母だけが、何の才能もない私に寄り添ってくれた。

 母だけが、私の可能性を信じ、私にあらゆる経験をさせてくれた。

 しかし、そんな母も、私が中学生の時、行方不明になってしまう。

 理由は今でも分からない。

 自分と兄のことだけで手一杯だった当時の父は、碌に母を探そうともしなかった。

 私と父の確執が深まったのは、この時からである。

 作品を読んでくれる唯一の理解者を失った私は、物語を書かなくなった。

 この時から、私の人生は常に下り坂だ。

 私は今でも理解できないでいる。

 なぜ、あの日、母は私たちの前から居なくなってしまったのか。

 あんなに優しかった母が、なぜ私たちの前から消え去ってしまったのか。

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