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「人格を……書き換え……」

 想像を絶する答えに、今度は私の方が言葉に詰まってしまう。

「……そうだ。それを説明するには、まずシャンがどのような生き物なのか、というところから話をしなければならない」

 放心する私をよそに、遊間は部屋の奥からホワイトボードを取り出してきて、そこに線を引き始めた。

 数分後、そこには異様なまでに緻密な線で描かれた、あの怪物のイラストができ上がっていた。

 まるで、本物がすぐ目の前にいると見まがうばかりの精密さに、私は思わず見とれてしまう。

「いいか。シャッガイの昆虫、通称シャンとは、クトゥルフ神話に登場する地球外生命体の一種だ」

 遊間は持っていた杖で、ボードのイラストをぴしゃりと叩いた。

「きみ、クトゥルフ神話は知っているかい?」

 ――クトゥルフ神話。

 それは、オカルト話に疎い私でも一度は耳にしたことのある単語だった。

「はい、名前だけは聞いたことがあります。たしか、小説やゲームなどの題材としても良く取り上げられる……」

 タコやイカなどの頭足類に似た不気味な姿をした邪悪な神々、いわゆる邪神たちが、さまざまな形で人々の平和な日常を脅かし、ときとして狂気に陥れる。そういった共通の世界観のもと、ラヴクラフトというアメリカ人の作家が、友人の作家たちと共同で創り上げた架空の神話大系。それが、クトゥルフ神話だ。

「でも、それって、あくまで創作の物語ですよね」

「あくまで創作……か」

 遊間は意味ありげな微笑を浮かべた。

「え、では違うんですか?」

「いや。クトゥルフ神話自体は、間違いなくラヴクラフトらによる創作物だよ」

 遊間は大きくかぶりを振った。

「だが、それらの内容すべてが単なる空想に過ぎないと断じるのは、少々気が早い」

 遊間はそういうと、テーブルの上に一冊の本を置いた。

 表紙には、クトゥルフ神話全集と書かれている。

「物語を綴るとき、人は自身の経験やその経験から生まれた感情、思想、あるいは願いといったものをその物語に注ぎ込む」

 遊間は、その本の背表紙を優しくなでながら言った。

「ゆえに、その物語のなかに作者自身が見聞きした情報、たとえば執筆当時流行していた噂話や言い伝えが形を変えて含まれている、ということも珍しくない」

 作者がそれを意図していようと、いなかろうとな、と遊間は付け加えた。

「そして、そのような噂には、時として真実が含まれていることもある」

 遊間はそういうと、本をぱらぱらとめくり、「奇生虫」とタイトルがつけられた短編の一ページ目を開いた。

「つまり、クトゥルフ神話に登場するシャンという怪物は、実在する生物をモデルとしたキャラクターだったということですか?」

「ほう、きみにしては察しが良いな。その通りだ」

 きみにしては、は余計な一言だが、ここは誉め言葉として素直に受け取っておくことにした。

「話を戻そう」

 遊間は小さく咳ばらいをした。

「現実に存在するシャンには、主に次のような特徴がある」

 遊間はホワイトボードに一、二と数字を並べていった。

「まず第一に、奴らは人の脳に寄生し、寄生した人間の恐怖や快楽などの感情を栄養源として摂取する生物であるということ」

「感情を摂取?」

 およそ既知の生物からは想像もつかないその在り方に、脳が直感的な理解を拒絶する。

「ああ、正確には寄生された者、すなわち宿主が強い感情を発したときにその脳内で生成される神経伝達物質をエネルギーとして摂取しているらしいのだが……その摂食行動の副作用として、寄生されている人間たちの間で記憶の共有が発生すると言われている」

 ――記憶の共有。

 それは、まさに私と殺人犯の身に起こっていた現象そのものであった。

 遊間はまた別の本を取り出して、それを私に手渡した。

 本の表紙には、寄生虫学、と書かれてある。

「そして第二に……これこそが僕の危惧していたもっとも厄介な性質なのだが……」

 遊間が私の顔から目を逸らす。

「奴らはときとして、宿主の性格をゆがめてしまうことがある。それも、異常なほど暴力的な性格に」

「……っ!」

 そう。この性質こそが、遊間の言っていたシャンによる人格の書き換えそのものであった。

「ときとして、だ。すべての宿主にその症状が現れるわけではない」

 遊間は言い訳がましく、ときとして、という言葉を強調した。

「その本の七八ページを見ろ」

 遊間は先ほど私に手渡した本を指さして言った。

「宿主の行動に影響を与える寄生虫の例として、身近なものにトキソプラズマがある」

 遊間の指示通りに本の七八ページ目を開くと、そこにはトキソプラズマと呼ばれる寄生虫に関する説明が事細かく書かれていた。

「トキソプラズマは終宿主……即ち、有性生殖するための最後の宿主を猫とする寄生虫で、猫の糞や加熱の十分でない食肉などを経由して人間に寄生することもある厄介な生物だ」

 遊間はそういうと、床に散らばっていた紙の資料を何枚か拾い集めて私に手渡した。

「そして近年の研究から、トキソプラズマは寄生された人間の白血球を乗っ取り、その白血球に恐怖や不安を軽減させる神経物質を強制的に生産させることにより、宿主となった人間の人格や行動に影響を及ぼすことが明らかになっている」

 遊間が資料の内容を噛み砕いて説明する。

「そのトキソプラズマ同様、恐怖や快楽などの感情をより多く生み出させるために、シャンは宿主となった人間の人格や行動を変容させることがあると言われている」

 自らの生存にとって都合の良いように宿主の人格や行動を操る寄生生物。

 そのような恐ろしい生物が身近に存在して、しかも、つい先ほどまで、私と殺人犯の脳を行き来していたという事実に私は身を震わせる。

「そんな危険があることを知っていながら、どうしてすぐに私の頭からシャンを取り除いてくれなかったんですか」

 私は率直な怒りを遊間にぶつけた。

「当然、きみに少しでも異変が現れたなら、すぐに駆除するつもりだった」

 遊間はばつの悪そうな顔をして答えた。

「ただ、他の宿主、つまりきみと記憶を共有している連続殺人犯をあぶり出すためには、シャンをそのままにしておくよりほかなかった。その点については、本当に申し訳ないと思っている」

 彼は深く頭を下げた。

「……分かりました」

 あの遊間が珍しく自らの非を認めて頭を下げている。

 それだけで、私の怒りはどこかへ吹き飛んでしまっていた。

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