21

 ――一九九七年、夏。神府町。

 ――****の記憶。


 自分が異常だと気付いたのは、いつからだろうか。

 初めは、行き場のない苛立ちの発散のつもりだった。

 私が中学へ上がると間もなく、高名な学者であった父は、学のない母に愛想を尽かし、研究室の女学生と駆け落ちし行方をくらました。

 前触れのない、唐突な裏切り。

 取り残された母は父を恨み、相手の女を呪った。

 その日を境に、母にとって私は、自らのお腹を痛めて産んだ愛すべき子供から、この世で一番憎い男を嫌でも想起させる悍ましいナニカへと変わった。

 元々共働きの家庭で、母は自宅近くの食料品店にパートとして働いていたが、その事件が起きてからは、しだいにその帰りも遅くなっていった。

 丸一日帰らない日もあった。

 私は、それでも何ひとつ文句を言わずに母の帰りを待った。

 それは、寂しかったからではない。

 母への同情の気持ちからだった。

 ここで、私までもが彼女を裏切ったら、彼女はどれだけ傷つき、自身に失望するだろう。

 ただ、それだけの想いだった。

 しかし、本当は、子供心にも薄々気付いていた。

 母にとって、もはや私が心の拠り所ではなくなっていることに。

 この母の帰りを待つという行為に、もはや何の価値もなくなっていることに。

 ある日、学校へ行くと、飼育小屋の前に人垣ができていた。

 学校で飼育していたうさぎが、死体となって発見されたのだ。

 私は、飼育小屋の前で泣いていた女生徒に詳しく事情を聞いた。

 犯人は、学校の裏山に住み着く野生動物だろうとのことだった。

 飼育小屋の金網の下に、うさぎ一羽分通れる穴が掘られており、そこから外に逃げ出したうさぎが、野生動物に襲われたのだという。

 実のところ、彼女に話を聞いたのは、ちょっとした好奇心からだった。

 しかし、自分の身を自分で守ることもできないか弱い生物が、身の程も知らずに檻の外へ飛び出してしまったばかりに、理不尽な野生の力によって蹂躙され息絶える。

 その光景を想像しただけで、私は胸の奥で何かが熱くなるのを感じた。

 私の邪悪な退屈しのぎは、その翌日から始まった。

 最初の玩具おもちゃは、自室で飼っていたハムスターだった。

 小学六年生の誕生日に、母に買ってもらったハムスターだ。

 それなりに愛情を持って育てていたハムスターだったので、殺すときには多少の躊躇いもあった。

 しかし、じたばたと足掻くハムスターを絞め続けるうちに、それ以上の快楽が背筋を伝って上ってくるのを感じた。

 そして、ハムスターからすっと力が抜けていくまさにその瞬間。

 私は、無意識のうちに生まれてはじめての絶頂を感じていた。

 それは、砂糖水のように甘く、はちみつのようにねっとりとした快楽。

 その一瞬だけ、時間が永遠に引き延ばされたような感覚。

 私は暫くの間、はじめて味わう死の至福に耽溺していた。

 次の標的は、いつも決まった時間に自宅の庭先へ現れる野良猫だった。

 今度は、何の思い入れもない。

 最初にハムスターを殺したときと比べ、自分でもびっくりするほど簡単に、何の抵抗もなく、その猫を手にかけることができた。

 迫りくる死の恐怖から逃れようと、必死に抗う野良猫。

 その小さな身体から、すっと力が抜けていくあの瞬間。

 「……っ」

 私は完全に、その快楽の虜になっていた。

 それから、私の行為はしだいにエスカレートしていった。

 ゴミ捨て場を漁る鴉、餌を探しに人里まで降りてきた狸、空地に集まる野良猫たち、近所の庭で飼われている頭の悪い大型犬。

 それらを次々と、殺していく。

 弱者の命を弄び、蹂躙し、奪う。

 その背徳的な行為に、どんどんと魅了されていく。

 そして、あるとき、私は思ってしまった。

 思ってはいけなかった。

 動物を殺すだけで、これだけの快楽が得られるのであれば、人を殺したときの快楽は、どれほどのものになるのだろうか。

 一度、それを想像してしまった後は、それ以外のことは考えられなくなっていた。

 通学路ですれ違う人々、行きつけの商店街の店員、学校の教師、そして同級生たち。

 彼らとすれ違うたびに、彼らを殺したときの光景が、脳内にありありと浮かぶ。

 そのたびに、私はその衝動を堪えて、罪のない動物たちへとぶつけていった。

 しかし、動物たちを殺せば殺すほどに、決して満たされることのない心の穴が、くっきりと輪郭を帯びてくる。

 こうして、人を殺したいという歪んだ願望は、私の心の中で日に日に増していった。

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