第25話 トークショー

 ゴールデンウィークの最終日、高槻沙梨はトークショー開始一時間前に編集者の篠原を伴ってやってきた。


 篠原と林田社長は既に顔見知りであるらしく、数年来の友人かのように親しげに挨拶を交わしている。林田は篠原に妃沙子と響谷を紹介したが、妃沙子はごく事務的に名刺交換を終えると、高槻沙梨にべったりとくっ付いて談笑しだした。


 登美彦も形ばかりは名刺交換させてもらったが、トークショー会場であるリバーサイド・カフェの店内を講演会仕様にすることに忙しく、篠原さんって背が高いな、というぐらいのぼんやりとした印象しか抱かなかった。


 午後六時に営業を終えた店内には客はおらず、登美彦はマスターに命じられるがままにテーブルをテラス側へと退かし、椅子を十席ずつ三列に並べた。カウンター横にスタジオから運んできた長机を置き、高槻沙梨の著した既刊本を並べる。


 木製カウンターの脇にあるショーケースには、上下段ともにキンクロパンが隙間なく並んでいる。林田が小鳥パンのオーナーの大河内に頼んで特別に焼いてもらったものだ。


「今日はあの子、来ないの? トイレを探してお店を飛び出していっちゃった坊や」


 営業を終えて、しばらく休憩していたマスターが言った。


「藤岡君ですか? さあ、どうでしょうか」


「店内にトイレはないって言ったけど、カフェにトイレがないはずないよね」


 マスターは悪戯っ子のような笑みを浮かべている。カウンター裏手にお手洗いがあるが、入り口近くの席から見ると死角になっている。


「僕も言おうと思ったんですけど、飛び出す方が早かったです」


「あれはちょっと面白かったね。あの後どうなったんだろう」


 登美彦が会場設営を終えると、妃沙子と高槻沙梨が連れ立ってやってきた。


「藤岡君、今日は来ないんですか?」


「誘ったんですけど、フラれちゃいました。学校の先輩たちと旅行らしいです」


 高槻沙梨がちょっとだけ寂しげだ。


 トークショー開始三十分前となり、ちらほらと参加者が店先に集まり始めた。


 テラス前を受付にして、林田が参加者名簿と照らし合わせながら対応している。参加費の二千円を支払った者から順に入店させ、前の席から詰めて座らせていく。


 登美彦はカウンター横の長机で高槻の既刊本を売る係をしながら、マスターが淹れたコーヒーとキンクロパンを前列の客から順番に配っていく。


「コーヒーのお代わりは実費精算となります」と、登美彦がアナウンスする。


 午後七時半となり、篠原と高槻が店内奥の一段高い壇上に置かれたスツールに座る。


「文藝心中社の篠原利久と申します。高槻先生の編集を担当させていただいております。本日は大型連休の最終日にも関わらずたくさんの方々にお越しいただき、どうもありがとうございます」


 ライトブルーのジャケットにポロシャツ、グレーのスウェットパンツを履いた篠原が壇上でマイクを掴み、挨拶をした。すらりとした長身で、細いシルバーメタルフレームの眼鏡をかけている。身体のラインが目立たないベージュのチュニックを着た高槻沙梨と並ぶと、小洒落たカフェでデートしている都会派カップルのようで、なんとも絵になる。


「まずは簡単にですが、高槻先生の経歴からご紹介させていただきます」


 篠原は高槻の作家デビューから現在に至るまでの経歴をさらりと紹介すると、隣に座る高槻に目で合図を送った。登美彦はカウンター横に用意した長机の後ろに控えていたが、客席側から見た篠原は、文学界のお姫様を物静かに守護する騎士のように見えなくもない。


「高槻沙梨です。本日はお忙しい中、お集まりいただきありがとうございます。デビュー以来、あまりこういったトークショーをする機会がなかったので、今日はとても緊張しております。それにしても距離が近いですね」


 スツールに浅く腰掛けた高槻は両手でマイクを持ち、緊張で強張った笑みを浮かべた。書くのは得意でも人前で喋るのはあまり得意ではないのか、声もわずかに上ずっている。ただ、高槻の表情が強張るのも無理はないように思えた。


 高槻から最前列に座る客までの距離はお互いに手を伸ばせば握手ができるぐらいに近い。それこそアーティストに触れられるぐらいに近い、小さなライブハウスのような距離感だ。緊張気味の高槻とは対照的に、篠原は場慣れしており、余裕たっぷりのにこやかな笑みが崩れることはなかった。


「沙梨ちゃん、緊張してるね。これだけ近けりゃ、そりゃ緊張するよね」


 長机の後ろで登美彦と並んで立っている妃沙子が心配そうな声で言った。トークショー開始時刻である午後七時半までの間、長机の上には高槻がこれまでに出版した既刊本四冊を並べて即売会を開き、登美彦と妃沙子が売り子を担当した。


「イベント終了後に高槻先生のサイン会をいたします。お持ちになった書籍、もしくはこちらで販売しております書籍にのみサインさせていただきます。数に限りがございますので、お求めはお早めにお願いいたします」


 登美彦が宣伝すると、篠原が用意した各十冊ずつ、合計四十冊の既刊本は即座に売り切れた。手持ちの一冊につきサイン一回であったので、憧れの高槻と長く触れ合うため、同じ本を五冊まとめて購入する者もいた。


 壇上では篠原がインタビュアー役となって最新刊の読みどころや執筆時に苦労した点などを聞き出しているが、高槻はガチガチに緊張しており、回答は見ている側が心配になってくるほどぎこちなく、対話は盛り上がりに欠けた。


 二人が話し始めてまだ十分足らずだ。一時間のうち三十分ぐらいは質疑応答でお茶を濁すとしても、果たしてこのままで間が持つのだろうか。客席で見ている登美彦でさえ不安になってくるぐらいの停滞した空気がカフェの中を覆っている。


「高槻先生のお話を伺うと執筆に苦労される様子がたいへんよく分かります。興味深いお話は尽きませんが、本日は高槻先生と親交のある特別ゲストにお越しいただいております。それでは壇上の方へどうぞ」


 篠原はすっと立ち上がると、テラス席の方へとマイクを向けた。リングサイドからタオルを投げ込むセコンドのようでもあったが、ともあれ篠原の動きにつられて観客たちも首を後ろに捻った。いったいなにごとかと思い、登美彦もつられてテラス席の方を見た。


 胸に等身大のハジロー人形を抱えた艦長ルックの響谷がのしのしと歩いてくると、観客席から「おおっ」という野太いざわめきの声があがった。


「おいで、妃沙ちゃん。出番だよ」


「……は?」


 響谷は長机の後ろに突っ立っていた妃沙子の手をとると、無理やり壇上の方へと誘った。


「なんすか? なんなんすか? なにも聞いてないんですけど」


 唐突な展開にパニック状態の妃沙子は、公衆の面前にも関わらず金切り声で叫んでいる。


 篠原と高槻の二人を文学界のお姫様と護衛の騎士だとすれば、響谷と妃沙子はさしずめ、おてんばお嬢様をダンスフロアに誘う野獣のようであった。


 高槻沙梨の隣に背もたれ付きの椅子が置かれ、その横に二つスツールが並んでいる。響谷は椅子に等身大ハジロー人形を置くと、妃沙子をその隣に座るよう促し、自身は篠原と最も遠い位置にある末席に座った。中央のハジロー人形を挟んで高槻と妃沙子が座り、その両脇を篠原と響谷が固める、という布陣だ。


「ただいま篠原氏よりご紹介に預かりました響谷一生でございます。リバーサイド・カフェの隣にあるアニメーションスタジオ『ハバタキ』で作画監督をしております。そして、こちらが監督の大塚妃沙子です。高槻先生のトークショーの最中ではございますが、突然に乱入させていただく格好となってしまった点、深くお詫び申し上げます」


 客席の大半は高槻沙梨目当てであろうが、あまりにもインパクトのある装いで登場した響谷に拍手を送った。いまだ状況が呑み込めていない妃沙子は、響谷からマイクを渡されてもそれを受け取ることなく取り落とし、スツールに腰掛けたまま硬直している。


「うちの監督はアドリブが利かなくて困っちゃいますね。憧れの高槻先生の隣で舞い上がっているみたいです。我々、アニメーターというのは軍隊アリのようなものでして、どんな天才でも他人の手を借りないと一人では作品を作り出せません。その点、作品を一人で丸ごと作ってしまう小説家は魔法使いのようです。うちの大塚が高槻先生を尊敬しているのは、おそらくそういったところなんじゃなかろうかと思います」


 響谷は客席の方へと転がったマイクを拾うと、のそりと立ち上がり、ハジロー人形の頭をぽんぽんと撫でた。


「ほんとうはここにもう一人、藤岡春斗君という子を呼ぶつもりだったんですが、逃げられました。藤岡君は高槻先生の秘蔵っ子で、いわば魔法使いの弟子です。うちの大塚が高槻先生とたいへん親しくさせていただいている縁で、アニメ原案と脚本を書いていただく機会に恵まれました。藤岡君との共作ということもありますが、高槻先生が普段ご活躍されている小説のフィールドとはまた違った毛並みの作品となっています。現在アニメ公開に向けて着々と準備を進めている段階ですが、非常に残念なことに制作資金が不足しております。一口百円からの出資を受けつけておりますので、高槻先生初のアニメ脚本をお蔵入りさせないためにも、なにとぞご協力よろしくお願いいたします」


 マイクを持った響谷の口は滑らかで、壇上にずかずかと上がってきてすぐにハバタキと高槻との関係を語り終えてしまった。


 原案・脚本に名を連ねる藤岡春斗の存在にまで言及しており、出資を募らざるを得ない、苦しい台所事情にまでさらりと触れている。アニメーターよりもよほど適正があるのでは、と思うぐらいにパーフェクトな自己紹介であった。


「編集者として信頼されていないのか、お恥ずかしい話ですが、高槻先生がアニメ脚本に関わっているという件はつい最近までまったくの初耳でした。響谷さん、分かりやすいご説明、どうもありがとうございました。ちなみに制作資金はいくらほど必要で、どれぐらい不足しているのでしょうか」


「制作資金として二千万円が必要なところ、現在三分の一ほどが集まっております。アニメの舞台はまさしく我々の職場であるハバタキのスタジオ内で、高槻先生と藤岡君も本人役で登場する予定です。うちの大塚も、ぜひアニメの中で高槻先生を思いきり動かしたいと意気込んでおります。ちなみにこちらがキャラクターデザイン案です」


 まるで事前に打ち合わせでもしていたのかと思うぐらいに、篠原と響谷の息はぴったりであった。響谷は林田から大判サイズのポスターを受け取ると、観客に向かって見せた。


 高槻の清楚な印象そのままにデフォルメされたイラストが描かれていた。


 妃沙子が描いていたラフのデザイン案を大判に引き伸ばして着色したものだ。ポスター右隅に作画・大塚妃沙子と書かれている。ハバタキのオフィシャルサイトにも高槻のキャラクターデザイン画は登場しておらず、今日が初お披露目だ。


 ポスターに描かれているのは高槻だけで、藤岡春斗のデザイン画はなかった。情報は極力、小出しにするつもりらしい。


「これは可愛らしいですね。ご本人としてはどう思いますか?」


 篠原が高槻沙梨にマイクを向けた。


「ほんとうに可愛いですね。小説の著者近影に使いたいぐらいです」


 自分一人に視線が集中していないからか、ようやく肩の力も抜けたらしく、コメントも気負ったものではなかった。


「ところで篠原さんにひとつお聞きしたいことが」と響谷が手をあげた。


「なんでしょうか」と篠原が答える。


「藤岡君は新人賞を受賞できそうですか? 私は小説の世界には詳しくはありませんが、高槻先生の秘蔵っ子がなかなかデビューできない、というのも可笑しな話に思えます」


 響谷は何気なく質問したが、篠原は強い口調で言った。


「新人賞を受賞するかどうかを最終的に決めるのは編集者ではなく、選考委員を務めるベテラン作家たちです。根回しはできませんし、選考委員の好みもあります。私も藤岡さんに期待している一人ですが、こればかりは運の要素が強い。応募作を書き上げたあとは作品の強さを信じるのみです」


「高校在学中に若くしてデビューされた高槻先生は紛れもなく天才であったわけですね」


 響谷が持ち上げると、高槻はとんでもないとばかりに両手を振って否定した。


「私はほんとうに運が良かっただけです。才能なんてないし、毎日書きながら悩んでいます。私が藤岡君に望むのは、デビューできてもできなくてもずっと書き続けてほしいな、ということです」


 高槻の言葉には温かいスープのような優しさが滲んでいた。愛弟子である春斗に向けて言っているのは明白だが、その言葉は登美彦の胸にもじんわりと染み渡ってきた。


「あ、ハルちゃん……」


 壇上の妃沙子が呆けた声を出した。登美彦がテラス席の方に振り向くと、重そうなボストンバッグを担いだ春斗が肩で息をしながら突っ立っていた。春斗はばつの悪そうな表情を浮かべたまま登美彦に近寄り、バッグを肩から降ろした。


「すいません、トイレ借りたいんですけど。空港で行きそびれちゃって」


 カウンターの後ろでマスターが親指を裏手に向けた。


「そこにあるよ。自由に使いな」

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