第15話 早熟の天才

 妃沙子が用意してくれた朝食は、食パンにスライスチーズを乗せてカリカリに焼き、その上に半熟の目玉焼きを乗せたものだった。食パンにかぶりつくと、とろけたチーズが糸を引くように伸び、割れた目玉焼きから勢いよく黄身が流れ出る。


「美味しいです」


 口をもぐもぐさせながら登美彦が言うと、妃沙子は目を細めて笑った。


「沙梨ちゃん、電話出るかな。会ったのはもう四年近く前だしな」


 妃沙子はスマートフォンの画面を見ながら電話するかしまいか、決めかねているようだ。


 ダイニングテーブル上にはハードカバーの小説が置かれている。


 タイトルは『魔弾の射手』とあり、帯には『早熟の天才・高槻たかつき沙梨さり 四年ぶりの新作!』との文字が躍っている。沙梨と妃沙子、「沙」の漢字が同じだな、と思った。


 装丁はいかにも味気ないが、切れ長の目をした美しい女性がにこやかに笑っている写真が帯の右隅に添えられており、それだけで表紙が華やいで見える。


 学生時代に妃沙子がバイト先で知り合ったという二歳年下の高槻沙梨は、高校在学中に文壇にデビューした天才だそうで、その美貌も相まって小説界のアイドル的な人気を博したらしい。


「十九歳のときに文藝ナントカ賞だかをとったらしいの。それって凄いの?」

「分かりません。小説はあまり読んだことがないので」


 妃沙子も小説には疎いようだが、登美彦もほとんど小説を読まないので、予備知識にはほとんど差がなかった。妃沙子がスマートフォンで検索したところ、高槻沙梨が受賞したのは文藝功労賞で、その年に最も印象的な作品を著した文学界の「顔」に与えられる賞であるという。


 途轍もなく権威ある賞を十代で受賞したのは史上初のことで、一躍時の人となったが、そこから先は下降線を辿った、との長ったらしい解説がなされていた。


「漫画家なら十代でデビューするのはわりといますけど、十代でデビューする小説家ってあまり聞かないですよね。でもデビューは早いのに、四年も新刊が出てないんですね」


 登美彦が不思議そうに首を捻った。


「賞を貰ってからスランプになったらしくて、大学に入ってからぜんぜん書けなかったんだって。あまりにも書けないから気分転換にアルバイトでもしようと思って、百貨店で服を売ったり、ホテルで給仕係をやったり、セレクトショップで働いたりしたらしいの。けど、だんだん働くほうが楽しくなっちゃったらしくてさ」


「それで、よけいに書けなくなったと」


 登美彦は改めて小説の表紙に目をやった。四年ぶりの新作という何気ない文字が、最初に目にしたときと少し違ったものに見えた気がした。


「ホテルのレストランでホールのバイトをしていた頃に会ったの。賄い付きだから週五でがっつり働いていたんだけど、そこに沙梨ちゃんがバイトに来たのよ。普通の可愛い女の子かと思ってたら、けっこう仲良くなったときに、実は小説書いてます、みたいな告白カミングアウトされてさ。それが趣味レベルなんかじゃなくて、え、マジで? ってなったわけ」


 妃沙子が四年制の美大卒業を目前にして大慌てて就職活動をしていた頃で、高槻沙梨が二十歳になったかならないかの頃の話であるらしい。


「とにかく、なにかしら絵を描く仕事がしたいと思っていたからさ。沙梨ちゃんが新しい小説が書けたら私が本の装丁をしてあげるよ、なんて盛り上がっていたんだけど、結局それっきり。就活は全滅するし、大学院に行くつもりもなかったから、アニメーターになったの。後ろ向きでしょう」


 自嘲気味に語る妃沙子がわずかに肩を落とす。いつも真剣に、それこそ没頭するように絵を描いている姿ばかり見ていたが、ここにたどり着くまでにそんな紆余曲折があったのかと思うと、胸に熱いものが込み上げてくるようだった。


「電話してみましょうよ。きっと向こうも覚えていますよ」


「……無理。今さら私のことなんて覚えてないよ。だってもう四年近く前だよ」


 妃沙子が連絡を躊躇うのもよく分かる。四年近くも連絡を取っていないということであれば、忘れられていたとしても仕方がない年月だ。


 新刊が出たのは半年前だそうだが、まだ全部は読めていないようで、ましてや向こうは忙しいプロの小説家だ。四年ぶりに新刊が出てスランプを抜けた今となっては旧交を温める意味もないし、書けなかった頃を知る人間なんぞに会いたくもないかもしれない。


 妃沙子は電話をかけようかかけまいか、いまだに逡巡しているようだが、こんなに迷っている姿を見るのはある意味新鮮だった。


 絵なら一分や二分でさっさと描くのに、電話の通話ボタンが押せないなんて、まるで初心な女子中学生みたいだ。


 日常ではいろいろ豪快なのに、変なところだけ極めて繊細にできているらしい。


「電話が無理なら、メールでもいいじゃないですか」


「……なんて書くの?」


「お久しぶりです。ちょっと相談に乗ってもらいたいことがあるのですが、よかったらお茶でもいかがですか。とか、そんな当たり障りない感じでいいじゃないですか」


「……返事が返ってこなかったら?」


「それはそれでいいじゃないですか。大抵の約束はすっぽかされるものです」


「……私、沙梨ちゃんに相談したいことなんてないし」


「いや、それはまあ、そうですけど」


 妃沙子はスマートフォンを掴むと、「んっ」と登美彦に向かって突き出した。


「なんですか?」


「あんたがかけて。相談したいのはあんただもん」


「はい?」


 妃沙子はスマートフォンを登美彦に押し付けると、無理やりに通話ボタンを押させようとした。


「あんたがかけなさいよ! 命令だから! かかんなかったら殺すから!」


「分かりましたよ。かけますから。かかったら代わってくださいよ」


 登美彦が渋々、通話ボタンを押す。


 四コール、五コールと呼び出し音が鳴るが、電話が繋がる気配がない。


「……繋がりませんね」


 登美彦がちらりと妃沙子を見ると、妃沙子は捨てられた子犬のように今にも泣き出しそうな顔をしている。なぜ電話が繋がらないだけで、ここまで盛大に落ち込めるのだろうか。 


 女性という生き物がすべからく複雑すぎるせいなのか、たんに大塚妃沙子という生き物だけが不可思議なのかはいまだ理解できずにいる。


「はい、高槻です。妃沙子さんですか?」


 電話口から涼やかな声が聞こえた。


「あ、はい。いえ、ひ、妃沙子先輩の後輩の奥野と申します。突然にお電話すみません」


 電話が繋がるとは思っていなかった登美彦が途端に慌てた。


 声が震え、自分でもなにを言っているのか、ほとんど分からずに話していた。


「どういったご用件でしょうか。執筆のご依頼かなにかでしょうか」


「あ、えと、ちょっとご相談したいことがありまして。あ、いえ、執筆の依頼とかそういうのではなく……」


 あたふたしている登美彦を見るなり、妃沙子がスマートフォンをひったくった。


「貸して! 登美彦、邪魔。どっか行ってて」


 叫ぶなり、いきなり声色が変わった。


「沙梨ちゃん! いきなりごめんね。四年ぐらい前にバイト先のホテルでいっしょだった大塚妃沙子です。覚えてる? 覚えてないよね?」


 妃沙子がしきりにうんうんと頷き、電話口を耳に当てたままリビング中をぐるぐると歩き回り、終いにはぴょんぴょんと飛び跳ね始めた。


 会話が弾んでいるらしい。妃沙子自身もゴム毬のように弾んでいる。


 登美彦は食器を片付け、テーブルを拭き、出掛ける支度をしてからソファに座っていたが、何年かぶりの会話は中断される気配が微塵もなく、妃沙子はひたすらに喋り続けていた。


 アニメーターは明確な出社時間というものが存在しない労働形態であるからか、妃沙子は時間を気にする素振りもなく、ただただ話し続け、相槌を打ち続けている。


 十五分経ち、三十分経ち、通話が一時間に迫ろうとしたところで、登美彦はようやく重い腰をあげた。


「先に行きます。朝ご飯、ごちそうさまでした」

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