第12話 現状肯定

 登美彦は自販機でホットの缶コーヒーを二本買い、八重洲の商工中金横の大型駐車場に停めてあった社用車に乗り込んだ。


 運転席でなにやら電話をかけていた林田に釣り銭とコーヒーを渡す。


 通話を終えた林田はコーヒーを受け取ると、プルタブを開けた。


「おっ、サンキュー」


 一服してから運転するつもりなのか、林田はエンジンをかけようとはしない。


 金気かなけ臭いコーヒーをたいして美味くもなさそうに飲んでいる。


「奥野君って冷静そうに見えてけっこう感情が顔に出るよね。鴨志田さんがエビの名前を赤門だと言ったとき、ものすごい顔をしていたよ。ああいうのはちょっと控えた方がいい」


 林田はごくりと喉を鳴らすと、コーヒーを手に持ったまま言った。


 説教するわけでもなく、やんわりと諭すような物言いだった。


「すみません、つい……」


 登美彦が平謝りすると、林田が片手をひらひらとさせた。


「俺もああいうタイプは虫が好かないけどさ。奥野君も自分が頑張って描いた絵なり、漫画なりの制作物を鼻で笑われたらムカッとくるでしょう」


「はい……」


 林田の目から見てそんなに自分の態度は悪かったかと猛省し、登美彦がしょぼくれる。


「ああいう人種にとって学歴は制作物なんだよ。クリエイターには学歴なんて無価値かもしれないけど、作品にせよ学歴にせよ、時間をかけて積み上げてきたものであることに違いはない。場合によっては命よりも大切なものかもしれないしさ」


 林田の言葉は重く響いた。


 それこそ命の危険を顧みずに紛争地帯まで取材に出掛けるカメラマンがいれば、飼っているエビの名前に母校の名を付けて自慢する弁理士がいて、薄給にも関わらずひたすら絵を描き続けるアニメーターがいる。


 誰も彼も他人から見れば、「なんで?」と言われかねないズレた価値観だろう。


「それにしても鴨志田さんの提案は面白味がなかったね。蜂にせよ蟻にせよアニメーター職は辛い、苦しいっていうお先真っ暗なイメージを助長するだけだし、蝶だとやけにふわっとしていて、どこかに理想郷ユートピアがあるんだっていう地に足ついていない感じがする」


 林田はサングラスをかけると、キーシリンダーに鍵を挿した。


「仕事って楽しいだけでもダメだし、苦しいだけでもダメ。作品を作るっていうことは基本的に現状肯定だもの。現実はこうなっちゃってるんだから、もうしょうがないじゃん、というところからスタートするわけだから」


 駐車場を出た車はすぐ赤信号に引っかかった。


「奥野君はどう思った?」


 林田の言わんとすることは、なんとなく理解できる。


 辛い、苦しいというばかりでは現実はなにひとつ変わらないけれど、かといってどこかにユートピアがあるわけでもないし、特別ななにかが職場に転がっているわけでもない。


 それがおそらく現状肯定ということだ。


「ナンヨウハギでもカクレクマノミでもアニメの題材になるぐらいですから、素材としてキンクロハジロは悪くないと思います。ただなぜ蝶でも蟻でも蜂でもなく、キンクロハジロなのかという物語がない。問題はそこだと思います」


 信号が赤から青に変わる。林田がアクセルを踏み込んだ。


「そうだね。キャラクターに愛着が湧くような物語ストーリーが欲しいよね」


 日本橋蠣殻町と水天宮前を通り過ぎ、隅田川に架かる清洲橋のたもとに差し掛かった。


 キノコの頭のようなデコボコのリベットが目立つ青く塗られた大きな吊橋は、遠くから見ると優美な曲線を描いているが、近くから見上げると想像以上に武骨だ。


「奥野君、なにか考えつかない? 漫画を描いていたんだし、ストーリーを考えるのはお手の物でしょう。響谷君も納得するようなやつを考えてよ」


「戦艦の要素も込みで、ということですよね」


 林田は会社名義で借りている駐車場に車を停めた。ここからスタジオまでは少し距離がある。車から降りた林田と登美彦は連れ立って歩いた。


「波動砲を撃てなきゃ認めないとか言っていたよね。響谷君の意見も一応は尊重しないと、またふて腐れちゃうからさ」


「キンクロハジロだけならまだしも、戦艦どうのこうのとなると僕の手には負えません」


「だよね。プロの脚本家でも手に余るよ。脚本家に頼んでどうなるようなものでもないだろうし、せっかくだけどお蔵入りかな」


「響谷さんに戦艦要素を諦めてもらうしかないと思います」


 登美彦が進言すると、林田が歩を止めた。


「それを響谷君に直接言える?」


「……無理です」


「そうでしょう。だから二つに一つだ。キンクロハジロと戦艦をくっ付けるか、両方とも諦めるか。個人的には、捨てるには惜しいと思うんだけどね」

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