第4話 安否

 妃沙子の住む部屋は、十二階建ての鉄骨マンションの十一階にあった。


 バルコニーから見える地上の景色は箱庭のようで、東京スカイツリーが天空に向かってそびえ立っている。


 妃沙子を部屋まで送り届け、すぐに帰ろうとしていた登美彦だが、「ここまで運んでくれた礼ぐらいするわ。お茶ぐらい飲んでいきなさいよ」と引き止められ、断り切れずにお邪魔させてもらうこととなった。


 すっかり酔いが醒めたのか、青白い顔をした妃沙子はぶるぶると小刻みに震えており、憔悴した様子が気がかりだった。のこのこ部屋まで上がったけれど、断じて下心があったわけではない、と思う。


「番茶とコーヒー、どっちがいい?」


 妃沙子の声に元気がない。彼女らしくもない低く沈んだ響きに戸惑いを覚える。


「おかまいなく」


 登美彦が恐縮しながら言った。


「どっちがいいかって聞いてんのよ」

「すみません。ではコーヒーを」


 妃沙子がキッチンでお湯を沸かしている間、登美彦は広いリビングで手持無沙汰だった。


 室内をじろじろと観察するのは失礼かとも思ったが、交際相手と死別したのでは、などという真偽不明の噂話を響谷から聞かされた後では気にしないでいる方が難しい。


 登美彦が生活する四畳間の三倍ぐらいの広さがありそうなリビングは掃除が行き届いており、異性と生活を共にしているような痕跡はどこにも見当たらない。


 玄関に男物と思しき靴の類はなかったし、衣類や私物も転がってはいない。


 マガジンラック下段に大判の写真集が数冊あり、表紙が見えるものもあった。荒れ果てた大地に硝煙が立ち込めているモノクロの写真が表紙を飾っており、なんの注釈はなくとも心にずしりと訴えかけてくる。


 ラックに収蔵されている本は、妃沙子が原画を担当した漫画原作や、デザイン関係のものばかりで、彼女らしくなさそうなものといえば、仲間外れのような一冊きりの小説ぐらいだ。


 表紙が見えるように立てかけられたハードカバー小説の帯には、妃沙子とそう歳は変わらなそうな女性作家が柔らかな笑みを浮かべている。


 やはりどう見ても、紛争地帯と思しき異国の地の光景を切り取った写真集は明らかに異彩を放っている。


「先輩、こういうのがお好きなんですか」


「べつに。貰ったものだから置いているだけよ。おいそれと捨てられないじゃない」


 コーヒーをダイニングテーブルに運んできた妃沙子が素っ気なく言った。写真集のことを言ったのか、それとも小説の方を見て言ったのか、どちらともつかぬ口調だった。


 用意されたコーヒーカップは一つだけだった。


「私、風呂に入るから。覗いたらぶっ殺すからね」


 妃沙子はそう言い放つと、その場でスウェットとジーンズを脱ぎ捨てた。


「ちょ……、先輩。なんでここで脱ぐんですか」

「なによ? 脱衣所が狭いのよ」


 きめの細かい色白の肌とすらりとした肢体に思わず目が吸い寄せられてしまった。


 見てはいけないものを見てしまったかのように、登美彦が慌てて両目を手でふさぐ。


 風呂は覗くな、と言いながら、下着姿のまま部屋をうろついているのには閉口したが、あまりにも自然な動作だったので、ついそういうものかと納得しかけてしまった。


 登美彦は両手を膝の上に置いて、やけに落ち着きなくそわそわとしている。それを見た妃沙子は面白い玩具でも見つけたかのような笑みを口元に浮かべると、下着姿のまま背後から抱きついた。


 酒の席でもべたべたとくっつかれていたが、それが布地越しではなくなると、柔肌の生々しい感触が直接に伝わってくる。


 机に向かって絵を描いているだけの職場では女性らしさを感じることは滅多になかったが、今はいやでも意識してしまう。


「妃沙子先輩、からかわないでください」

「もしかして欲情しちゃった?」


 登美彦の心底狼狽した様子に、妃沙子はまんざらでもなさそうな笑みを浮かべる。


「男って単純よね」

「否定はしませんが、女性は複雑すぎます」

「そう? 意外と単純よ」


 妃沙子は胸を登美彦の背中に押し付けたまま、なかなか離れようとはしない。


「先輩がなにを考えているのか、さっぱり分かりません」

「せっかくだから、お風呂いっしょに入る?」


 妃沙子はズボンのベルトに手を伸ばすと、さすがの登美彦もやんわりと拒否した。


「それは駄目です。先輩にはお付き合いされている方がいるのですよね」


 ベルトのバックルを弄っていた妃沙子の手が一瞬、ぴたりと止まる。


「あんた、どこまで知ってるの?」


 あらゆる感情が抜け落ちたような抑揚のない声に気圧されたが、登美彦は妃沙子の小さな手に己の手を重ねると、諭すような口調で言った。


「すごく年上の戦場カメラマンの方と交際されていると伺いました」

「べつに付き合ってないもん……」


 妃沙子の目は人間を模して精巧に作られた人形のように虚ろで、語尾もかすかに震えている。なにか触れてはいけない部分を刺激してしまったらしい。妃沙子は思い切り登美彦を突き飛ばすと、いじけた子供のように膝を抱えて丸くなった。


「……先輩?」


 登美彦がおそるおそる問いかけるが、妃沙子は顔を膝の間に埋めたままなにも答えようとはしない。剥き出しの背中はいかにも寒そうで、寄る辺ない流木のように頼りなかった。


 登美彦は畳んで置いていたジャンパーを妃沙子の背中にそっとかけた。水中でずっと息を潜めていたかのように無言であった妃沙子が、ぽつぽつと喋りはじめた。


「あの人はね、一年経っても連絡がなかったらどこかで野垂れ死んだと思ってくれ。俺を待つな。忘れてくれ。うまく写真が撮れたら東京まで持っていく。もしうまく地雷を踏んだら“サヨウナラ”だ。そう言って旅立ったの」


 戦場カメラマンの彼と知り合ったのは今からおよそ三年前で、連絡が途絶えたのがちょうど二年前の今日だったという。


 付き合い始めてからまもなくして、妃沙子はある疑問を口にした。


「なぜ、そんなに戦場にこだわるのか」と。


 彼は少し考えてから、こう答えた。


 世界には紛争があり、飢餓があり、道端には地雷が埋まっている。


 それは周知の事実だが、その事実を「知りたい」「知らねばならない」と考えるか、「べつに知らなくても困らない」と考えるかによって人間の生き方は二つに分かれている。


 ジャーナリストと呼ばれる人種は、「知りたい」と思って生きている人間なんだ、と。


 銃弾飛び交う戦場に好んで赴くのは、危険を求めてのことではない。人跡未踏の危険地帯になど興味はない。その中で生きる「人」を知り、「人」の声を伝えたいからだ。


「私、待ったよ。もう二年も待ったんだよ。もういいよね。もう帰ってきてくれないよね」


 長年にわたって堰き止めていた涙腺が脆くも崩壊したためだろう。妃沙子はわんわんと大声をあげて子供のように泣きじゃくった。


 職場では常に明るく振る舞っていた妃沙子が笑顔の裏にそんな重荷を背負っていたなんて想像だにしなかった。


 狂ったようなスピードで絵を描き、作業に没頭し続けていたのも、その時だけでも彼の安否を気にかけなくて済むからだったのかもしれない。


 男っぽい雑な喋り方をしていたのも、身体の線を露わにしない服装を好んでいたのも、化粧っ気のなかったことも、すべて自分を「女」と意識させないがための予防線だったとしたら、戦場に赴いた彼をただひたすらに待つためとはいえ、徹底的に過ぎる。


 それはもう一種の呪いと呼んでも間違ってはいないぐらいに、彼女の生き方を雁字搦めにしている。そういえば妃沙子は口癖のように、アニメーターを「使い捨ての軍隊アリ」だと卑下していた。


 それはおそらく本心ではなく、願望なのだろう。


 いっそアリになってなにも考えず、流れゆく日々に忙殺されてさえいれば、彼の安否に心煩わされることもなくなるから。


「先輩は、その人を忘れたいんですか。忘れたくないんですか」


 登美彦はぎりりと奥の歯を噛んだ。我ながら残酷な質問だと思う。


 一年経っても連絡がなかったら俺を忘れてくれ、と優しいけれど随分と身勝手なことを言う相手をひたすら二年間も待ち続けるような健気な人が「はい、そうですか」と割り切り、きれいさっぱり忘れられるはずがない。


「忘れたいけど、忘れられないの。あんなこと言われて忘れられるわけないじゃない」


 妃沙子は両手で涙をごしごしと拭う。


 泣き腫らした目は真っ赤で、頬には涙の跡がくっきりと残っている。


 こんなときに男としてどう振る舞うべきかの確たる答えを持ち合わせていない登美彦は、おそらくそうすべきなのだろうという予測と推定の元、そっと、そうっと妃沙子の頭の上に右手を置くと、触れるでもないぐらいの微妙な強さで肩を抱いた。


「そこで微妙に躊躇するところがキモいけど、まあ、あんがと。私もキモかったよね。いきなり取り乱しちゃったりしてさ」


 登美彦のさして鍛えられていない薄い胸板に鼻面をくっつけながら、妃沙子は泣き笑いのような声で言った。


「女性を慰めるのは響谷さんの方が適任でしたよね。僕なんかでごめんなさい」


「はあ? そこでなんであのタヌキ親父の名前を出すかなあ」


 妃沙子が明らかに嫌悪感たっぷりの表情を浮かべ、登美彦をじろりと睨む。


「いえ、妃沙子先輩は年上の方が好きなのかなと」


「べつに私はファザコンじゃねーし。年上とか年下とか関係ねーし。あんな胡散臭い蘊蓄だらけのタヌキだけはお断りだし」


 機関銃のように毒を吐く様は、いつものよく知る妃沙子のようでちょっと安心した。登美彦はぎこちない笑みを浮かべながら、妃沙子の頭に置いたままだった手に力を込めた。


「いつもの横暴な先輩に戻ったみたいで安心しました」

「登美彦、寒い。寒い。あっ、やばっ、くしゃみでそう……」


 鼻をぐずらせた妃沙子は、へっくしゅんと大きなくしゃみをした。両手は塞がっており、咄嗟にガードできなかったせいで、妃沙子が飛ばした唾が登美彦の顔じゅうにかかる。


「わ、ごめん。今の不可抗力。あ、でもこれぜんぶ登美彦のせいだわ。私が下着だけなのに、なかなか風呂に入らせないから。なんかエロい目で見られるしさ」


 妙な言いがかりをつけられて閉口していると、妃沙子は借り物のジャンパーを羽織ったまま立ち上がり、登美彦の手を引いた。


「お風呂、行こ。あんたも顔じゅう汚れているから綺麗にしな。特別に洗ってあげる」


 その意味が分からないほど、さすがに初心うぶではない。


「え、でも……」


 登美彦は「僕の方が年収が低いし、年下だし」とうじうじ言っているが、強引に手を引かれ、脱衣所に連れ込まれた。妃沙子が言うほど脱衣所は狭くはなく、お互いに見つめ合いながら服を脱ぐぐらいの余裕はあった。


「僕でいいんですか?」


 登美彦は洋服を脱ぐのを躊躇いながら、内股気味でもじもじしている。


 妃沙子は、はあ、とひとつため息をついてから力強く断言した。


「生きてさえいてくれれば、それでいいから」


 迷いのないまっすぐな声を聞いて登美彦がおずおずと顔を上げる。目元にわずかに光るものがあったが、頬にくっきりと残っていた涙の跡はもう渇いているように見えた。

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