第5話 食えない現場

 バレンタインデーの翌朝、登美彦は小鳥パンの店内でパンを物色していた。


 開店時間の午前八時前から十人近くが店先に列をなしており、イートインスペースのない店内は、客が三人も入れば交通渋滞になるぐらいに狭い。


 レジ前ですれ違うにも一苦労するほどの路地裏のごとき狭さであるため、混雑時は先客が買い物を終えて出てくるまで店外待機、というのがローカルルールである。


 サザエさんのテーマソングが延々と流れ続け、客の手の届かない高さにある陳列棚にはずらりと『ONE PIECE』のキャラクターフィギュアがずらりと並んでいる。


 オーナーの大河内の趣味がごっそりと詰め込まれた玩具箱のような店にいると、不思議と楽しい気持ちになる。店奥の厨房スペースでパートの奥様たちがせっせとパンを焼いており、オーナーの大河内自らがレジに立っていた。


 腰まで伸びた長髪をヘアゴムでちょんまげのようにまとめ、髭面にシルバーフレームのメガネという外見はとてもパン屋のオーナーには見えない。


 店の借金を返し終えるまでは髪は切らない、という断固たる決意の表れだそうだが、ともすれば不衛生にも受け取られかねない奇抜すれすれの髪型は、落ち武者のような風情である。


 小鳥パンは地元密着のお店特集などでよく取材を受けているが、いざ写真撮影になると女性スタッフたちはよそよそしく、「オーナー一人でどうぞ」と冷たくあしらわれている。厨房での楽しいガールズトークにも参加させてもらえない、と嘆いていた。


「おはよう、登美彦君。今日はいっぱい買うね。給料上がったのかい?」


 明太もんじゃからヒントを得て作ったもちタラモロールを透明のパン袋に包みながら、大河内が気さくに喋りかけてきた。


 タラモサラダの上にお餅が乗っかり、それをパンで包んだ炭水化物だらけの逸品は腹持ち抜群。それでいて一個百円と、年がら年中、心もとない懐にも優しい価格だ。


「今日は二人分なので。描くスピードが遅いので、給料は相変わらずの低空飛行です」


「ははは、そうなの。だったら今からでもうちに勤めない? 去年の暮れに製造スタッフがごっそり辞めちゃって、人手が足りないんだよね。開店時間も八時から十時にしようかと思っているんだ」


 千円札を手渡し、お釣りを受け取った登美彦が目を丸くする。


「そうなんですか?」


「何人か働きたいって人が来たんだけど、体験実習をしてもらうと、やっぱりやめときます、って言うんだよ。うちの雇用条件もハバタキさんとどっこいどっこいだから、なかなか人を雇うのは難しいんだよね」


 軽妙な話しぶりとは裏腹に大河内の目の下には黒ずんだクマが目立ち、接客業向きの愛想のよい表情もどことなく曇っているように見えた。


 定休日の月曜日を除いて、毎日朝から晩まで百種類ものパンを焼いて並べ、接客もこなし、原材料を仕入れ、スタッフを雇い、不定期に取材を受けつつ、金勘定までするとなれば、いったい一人何役をこなしているのかも分からない。色濃い疲労も当然だろう。


「過労で倒れないでくださいね。ここがなくなったら僕も生きていけません」

「ははは、それはお互い様だよ。それじゃ林田君によろしくね」


 二人分のパンが詰め込まれたビニール袋を受け取り、登美彦が店を後にする。


 清澄橋を渡り、左手に深川図書館を見ながら右に折れると、ものの三分と経たずハバタキの社屋前に到着した。お隣のリバーサイド・カフェでは豆を焙煎中らしく、店内はモクモクと煙が立ち込めている。


 まだ開店時間前であるため、さすがに林田の姿はなかった。


 小鳥パンオーナーの大河内はもともとアパレル業界に身を置いていた人物で、登美彦の通っていた美術専門学校の卒業生でもある。建築関係、アパレル関係の仕事を渡り歩き、三十代後半でパン業界に転身したユニークな経歴の持ち主だ。


 クラストがバリバリとした硬い食感のあるフランスパンやバゲットのようなハード系のパンを主力商品としていた門前仲町のパン屋に数年勤めていたそうだが、その店のパンは価格も高く、街に住む人々のニーズには合わなかったようで、閉店を余儀なくされた。


 前店での経験から「とにかく親しみやすいパン屋を作りたい」と思い立ち、毎日のようにリピートしてもらうため、毎日でも買える低価格、毎日来店しても飽きない豊富な品揃えを目指した。登美彦もそんな小鳥パンの常連客のうちの一人だが、大河内とはじめて出会ったのは、御茶ノ水にある美術専門学校に通っていた頃のことだ。


 母校の就職説明会に勇んでやってきた大河内は、卒業後の進路を決めかねていた登美彦に「うちのパン屋で働かないか?」と誘って断られると、「絵を描く仕事に就きたい」という希望を聞くや、ご近所のアニメーション制作スタジオ『ハバタキ』の林田を紹介した。


 大河内の同窓の二年後輩である林田は、登美彦が在学中に書き上げた千ページにも及ぶ漫画作品を一週間かけて読み、わずか十五分間の面談を経て採用を決めた。


 もともと漫画家志望であった登美彦は、「在学中に漫画家デビューできなかったら、きっぱり諦めて就職する」と両親と約束を交わし、上京していた。アニメーション業界は未知の世界であったが、絵を描いてお金を貰えるならば、それ以上に求めることはなかった。


 小鳥パンオーナーの大河内は、就職を斡旋してくれた恩人であると同時に、胃袋を満たしてくれる貴重な台所でもあった。


 ハバタキに縁を繋いでくれた恩人が大河内であるとすれば、林田は漫画家失格の烙印を押されて絶望の海に沈んでいた登美彦を拾ってくれた恩人だ。


 在学期間の三年間をほぼ丸々費やして書き上げた原稿を少年誌数社に持ち込んでみたものの、応対した編集者の反応はどれも芳しくなく、原稿を読み終えた後の指摘も判を押したように同じであった。


 曰く、独白モノローグばかりで会話とストーリーが致命的に面白くない。美術専門学校の出身だけあって画力はそこそこだが、絵だけで購買を促すような魅力も独創性もない。人物造詣がペラペラで、キャラクターの魅力が乏しい。


 結論として、「プロの漫画家になるのは到底無理」と一蹴された。


 つまらない原稿を突っ返すのに独創的な反応などはないようで、出版業界には、お断り文句のひな形テンプレートでもあるのか、と邪推したくなるほどに一様な反応であった。


 無用の長物と化した漫画原稿だが、さすがに捨てるには惜しく、実家の押し入れに封印するつもりだった。だが林田はその没原稿を読みたい、と言った。採用の参考にするからハバタキ宛てに送れ、という。


 漫画家になる夢をとうに諦めていた登美彦は、林田に言われるがまま原稿を送りつけた。期待など、なにひとつしていなかった。自宅の押し入れに封印するのも、出版社の編集者ですらない見ず知らずの男に託すのも、結論としては同じだと思ったからだ。


 期待は、良い意味で裏切られた。


 登美彦がハバタキに入社してから程なくして開かれたささやかな歓迎会の席で林田から貰った言葉は、今も心の奥の宝石箱に大切に仕舞ってある。


「俺も編集者の立場だったら、きっと同じことを言ったと思うけどさ」


 そう前置きした上で、林田は酒盃を傾けながらこう言った。


「三ページも読んだら、どっと疲れて気が滅入るような壮大な純文学を読まされたような気分だったよ。登場人物に主人公以外の人間がほとんど出てこないし、信号が青から赤に変わったとか、電線の上でカラスが餌場を偵察しているとか、コンビニに新製品のスイーツが並んだとか、ほんとそんなようなことばっかりでさ。それがだらだらと千ページ以上あって、もう偏執的というか、ちょっとこの子、危ないかもってレベルだったけど」


 林田は手酌で酒を注ぎ足しながら、さも独り言のように話し続けた。


「でも背景は、これは御茶ノ水の聖橋だ、こっちは明神男坂だとか、土地勘のある人が見ればすぐ分かるぐらいびっしり書き込まれていて、スクリーントーンも丁寧に貼られていて、あっさり描き流したようなページはどこにもない。これ、三十ページ描くのに一ヵ月はかかるだろうな。それが千ページだから、専門学校の三年間はこの作品にすべて捧げたんだなと思ったら、ちょっと感動しちゃってさ。この子は絵を描くのがほんとうに好きなんだなっていうのがびしびし伝わってきた。ストーリーもキャラクターもぐだぐだだけど、愚直なまでの粘り強さがいつか花開くといいなって思ったわけ。俺は君を漫画家にしてやれないけど、細々でいいなら絵で食えるぐらいにならしてあげられる。そう思って採用したんだ」


 林田は小洒落たウェリントン型サングラスをかけ、打ち合わせと称してコーヒーを愛飲するだけの業界人ぶっている薄っぺらな人物ではなかった。登美彦は採用面接の場から歓迎会の日に至るまでに勝手に築き上げてきた林田像を180度、くるりと回転させた。


「ハバタキという社名に、なにか特別な意味でもあるのですか」


 登美彦が問うと、林田は苦笑しながら答えた。


「世の中では、三年三割って言われるだろう。入社して三年以内に三割辞める、という意味だけど、アニメ業界はそんな比じゃない。自虐も込めてだけど、三週間三割とか、三日三割みたいなレベルなんだよ。うちみたいな弱小スタジオはあっさり辞められちゃうから、せめてここで力をつけてから独立してね、という意味を込めて社名をハバタキにしたんだ。半ばやけくそみたいなネーミングだよ」


「そんなにすぐ辞めてしまうのですか?」


「今はアニメ業界も出版業界も映像業界もオールドメディアはどこもお金がなくて、クリエイターを一から育てる体力がほとんどない。一生懸命お金をかけてスタークリエイターに育てても、育ったところで余所にポンと持っていかれちゃう。だからますますクリエイターにお金を使って育てようなんていう人はいなくなるし、業界の人たちがアニメーターは食えない、食えない、って言い過ぎるものだから若い人たちがビビって敬遠するようになる。そういう負のフィードバックのサイクルだから若い人材が定着しないのも無理はないんだ。いわばアニメの制作現場は余命宣告されているようなもので、このまま無策で突っ走ってしまったらあとはもう死を待つだけ。でも特効薬なんてどこにもなくてね。奥野君はどうしたらいいと思う?」


「分かりません。どうしたらいいんでしょうか」


 しんみりとした口調で語る林田に対して、登美彦はごくごく凡庸にオウム返しした。


 入社間もない登美彦が回天の秘策など持ち合わせているはずもなく、林田との会話はそこで終わった。


 登美彦が朝八時に出社すると、何人かの先輩アニメーターがパーテーションで仕切られたデスクに突っ伏して眠っていた。終電に間に合わなかったのか、それともたんに家に帰るのが面倒だったのかは不明だが、朝はたいてい詰所のような雰囲気が漂っている。


 ハバタキの受注した作画業務をこなすアニメーターは全部で十二名だが、スタジオ内に机を借りているだけのフリーランスと、個人事務所である自宅で作業している掛け持ちのクリエイターも含めての人数だ。


 掛け持ちではなく、純粋にハバタキに所属するアニメーターは、響谷と妃沙子、登美彦の三人と動画部門のチーフだけ。社内に専属の監督、脚本家、美術系の人間はおらず、部署もないため、ハバタキが請け負う仕事は完全に作画オンリーである。


「おはようございます。遅くまでお疲れさまです」


 登美彦は先輩アニメーターたちを起こさぬよう小さな声で呟くと、天板が斜めに傾いた動画机に向かった。紙をほぼ真上から眺めることができるように、との目的で机が傾いているアニメ制作用の特注品で、学童用の学習机のように机に棚がセットになっている。


 棚は細かく分かれていて、上がりカットや動画用紙や資料を置くことができる。パーテーションと本棚によって三面を囲まれた作業環境は、ちょっとしたコックピットのようだ。


 登美彦はトレース台に明かりを灯すと、妃沙子の描いた原画のクリンナップ作業を始めた。原画の上に動画用紙を重ねて透かし、原画のラフな線を整った線で敷き写しすることをクリンナップと呼ぶ。アニメーターに必須の基本能力であり、登美彦が入社して、いちばん最初に叩き込まれた技術だ。


 原画を下絵にしてなぞり、綺麗に清書するだけの単純な作業とはいえ、これがどうして奥が深い。同じ作品、同じキャラクターを描いていても描き手によってさまざまな違いがある。


 線の太さ、濃さは言うに及ばず、かすれた弱々しい線、筆を大胆に払ったような豪快な線、継ぎ目の粗さが目立つかくかくした線、思わず惚れ惚れするぐらい柔らかで滑らかな線、といった風に線質ひとつとっても個性がある。


 登美彦は妃沙子以外の原画マンが描いた原画をトレースすることも多いが、妃沙子の絵をなぞるときはことさら緊張を覚えた。


 妃沙子が今回描いた原画は決意に満ちた表情を浮かべる少女のアップの絵で、動画マンの登美彦が動かすのは口元だけだから、難易度としてはそう難しいものではない。


 だが、いざ原画をトレースしてみると途端に難しさを感じた。


 あまり書き込みの多くない、あっさりとしたシンプルな線で表現された妃沙子の絵はじつに滑らかで、美しくさえあった。あまりに綺麗で迷いのない線なので、登美彦が下絵をなぞって描くと、かえってクリンナップにならず、原画よりも汚い線に見えてしまう。


「どうしてこんなに違うんだろう……」


 トレース台に固定した下絵と、それをなぞって描いた自身の絵を見比べると、どこがどう違うのか分からないが、明らかに違うということだけは分かる。熟練と言うほどの長いキャリアがあるわけでもないのに、妃沙子の描く絵はフリーランスのアニメーターと比べても抜きん出ているように思えた。


「違って当然だよ。妃沙ちゃんは三ヶ月で原画マンに昇格した異例の天才だからね」


 キャスター付きの椅子にふんぞり返った響谷は、電動マッサージ器を腰に当てている。


「三ヶ月って早いんですか?」


「どんなに描ける子でも、たいてい一年ぐらいは動画マンをやるもんだよ。三年経っても原画に上がれないと、アニメーターに見切りをつけて辞めちゃう若い子は多いけどね。一昔前は動画八年なんて言われていたから、三年でもじつは早い方なんだけどさ」


 アニメの映像は「原画」と「動画」の二つから成る。


 監督や演出が描き起こした絵コンテをもとにそのカットの絵を描くのが原画で、一つの原画から、その次の原画までの間が滑らかに動くよう繋ぐのが動画だ。


「この業界に入って間もないアニメーターは、まず動画の仕事を任される。動画マンを経て、原画マンになり、経験を積んでゆくゆくは作画監督になる、というのが一般的な出世コースだね。まあ、ぼくは作監さっかんなんてもうこりごりだけど。もう絶対やらない」


 響谷は電動マッサージ器を机の下に置くと、マッサージローラーでたるんだフェイスラインをゴロゴロと揉みほぐしている。


「原画マンと作画監督は、具体的にどう違うんですか?」


「アニメーターの主な役割は、動画、動画チェッカー、原画、作画監督の四つだけど、作画監督は複数のアニメーターからあがってきた原画のクオリティのバラつきを統一する役目を負う。動画マンはあくまでも原画マンのアシスタントだし、動画チェッカーは動画マンの尻拭いに過ぎない。絵に命を吹き込む、アニメーター本来の職務に徹することができるのは原画マンだけさ。クオリティの高いメカとか描けたときは最高だよね」


 うっとりと恍惚の表情を浮かべ、響谷が言った。


 雑然とした響谷の机の上には、『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの一〇〇〇分の一スケールのプラモデルが所狭しとディスプレイされている。いつぞやこれがガミラス艦で、これがユキカゼ、こっちがキリシマ、ムラサメ、シュデルグ、ガルント、これはコスモファルコンと延々と自慢されたが、登美彦にはどれも同じに見え、さっぱり区別がつかなかった。


 響谷はプラモデルの台座を掴んで、空中で八の字に旋回させている。


「昔は作監になれるのはスーパーアニメーターだけだったけど、今はテレビだけでも週に五〇タイトル以上のアニメが大量生産されている時代だからね。ちょっと上手い原画マンがいるとすぐ作監に引き上げられるし、エンディングクレジットのスタッフロールの作画監督欄に十人ぐらい名前がずらっと並ぶこともザラだ。作監に名を連ねるのは作品の出来によっては名誉だけど、作画崩壊なんか起こした日には公開処刑に等しい立場だよ」


 作画監督の役職に苦い思い出でもあるのか、響谷の口調に恨み節の色が混じる。


「たいへんなんですね、作画監督って」と登美彦は曖昧に頷く。


「トミーが作監になって吊るし上げされる日がくるのは当分先だろうから、心配しなくて平気だよ。繊細なぼくと違ってメンタルも強いしね」


 いまだ仕事をする気にならないのか、響谷は電話帳のような分厚さのカット袋を苦々しげに見つめるだけで、棚の上に手を伸ばそうとする気配はない。


「動画から原画に昇格すると給料も上がるんですか?」


「うちの給与規定では動画マンは一枚百五十円から二百円ほどの枚数単価の収入だけど、原画マンの収入はカット数単価でね。カメラが写し出してから写し終わるまでのひとつの映像をカットって言うんだけど、一カット三千円から四千円程度が相場だよ」


「一カットって何枚ぐらい絵を描くんですか?」


 登美彦が問うと、「それはカットの内容によるね」と響谷が言った。


「背景だけの止めのカットなら一枚だけど、そんな美味しいシーンは滅多にない。なんてことないカットでも五枚から十枚、場合によっては何十枚も描かなきゃならないこともある。演出と作監のチェックを受けてリテイクになると描き直しだしね。一カット四千円でも、リテイク続きで四十枚、五十枚も描いたら一枚百円以下だ」


 登美彦は唖然とした表情を浮かべる。


「妃沙ちゃんみたいな速筆で、作監に文句つけさせないようなクオリティの絵をばんばん描ければ、原画マンは引く手あまただし高収入だよ」


「一ヵ月で三百枚描くのでも大変なんですけど……」


「新人アニメーターは月産三百五十枚、二年目は五百枚を目指すってのが最低のラインとされている。動画の単価を二百円として三百枚だと月収六万円でしょう。さすがにそれじゃ暮らせないものねえ。トミーも早く原画マンに昇格できるといいね」


 響谷は椅子からのそりと立ち上がると、トイレの方へと歩いていった。


 午前中いっぱいをかけて四枚の動画を仕上げた登美彦はパラパラ漫画の要領で紙を送り、滑らかに動いているかどうかを確認する。いちおう動いてはいるが、なんとなくぎこちなく、妃沙子が原画に描いたような瑞々しさも失われているような気がした。


 これだけやっても八百円程度の仕事かと思うと気が滅入るし、動画検査ではねられれば、描き直しだ。念のためにもう少しだけ手を加えようと、再度パラパラと紙を送る。


「登美彦、お昼ご飯いこうよ」


 十一時頃に出社してき妃沙子が、登美彦の肩越しににゅっと顔を出した。


「すいません。もう少しかかりそうです」


 登美彦は動画用紙をパラパラと送っては動きのぎこちない箇所を微調整したり、キャラクターの輪郭線を修正した。消しゴムをかけるたび、クリンナップしたはずの線がどんどんと毛羽立っていく。直せば直すほどおかしくなる気がした。


「どんくさいわね、ちょい見せてみ」


 妃沙子は慣れた手つきで動画用紙をパラパラと送るなり、「目が死んでる」と言った。


「あと線が硬すぎ。もうちょっと柔らかく描かないと可愛く見えないわ。女の子は特にね」


 妃沙子からあっさりと指摘されたことはあまりにも的を射ていて、それがゆえに心がちくりと痛んだ。


 専門学校時代に漫画の持ち込みをしていた頃、編集者から散々に言われたことだ。


「人間が描けていない」

「線が多くて画面も暗い」

「これじゃパッと見で、読む気にならない」


 そう言われても画風をがらりと変えられるほどの器用さはなくて、ストーリーで食い付かせるほどの物語を紡ぐ能力はそもそもあるはずもない。それでも毎月三十ページ前後の読み切り作品をひたすらに描き続けたのは、もはや意地以外の何ものでもなかった。


 アニメーターになってからはいろいろな画風の原画をなぞったが、ちょっとしたところに自分の描き癖みたいなものが滲み出てしまう。


 気をつけていないと、線が硬質になるのだ。


「アニメーターってすごいですよね。どんなタイプの絵でも描けて」


 うなだれた登美彦がぽつりと言った。


「なに落ち込んでるのよ。べつに私だってオールジャンル描けないわよ。どこかのおっさんみたいにメカとかロボットとか描けないし、描きたくもないし」


「でも、それ以外ならなんでも描けますよね。人間でも動物でも植物でも」


「あー、暗い。とりあえずメシ!」


 妃沙子はポニーテールを両手でほどくと、アッシュブラウンの長い髪を後ろにはらった。小鳥パンの店名とマークの入ったビニール袋を持ち、登美彦が席から立ち上がる。


「なになに妃沙ちゃん、メシ行くの? ぼくも行くからちょっと待って」


 ようやく作画に集中しだした響谷が妃沙子の声を聞きつけ、椅子ごと振り向いた。


「あ、いいですいいです。せっかくノッてるんですから響谷さんは付いてこないでください。ていうか、ぜってえ付いてくんな。仕事しとけ」


 にこやかに笑いながらも妃沙子の声には地獄の底から響くような険があった。


「またまたあ。妃沙ちゃんは照れ屋さんなんだから」


 仲間内の冗談と受け取ったらしい響谷が机の上をいそいそと片付け始めたが、妃沙子はこれ見よがしに登美彦の腕に自身の細腕を絡ませ、べーと舌を出した。


「あとは若い二人で大丈夫なんで、おかまいなく」


 登美彦がちらりと振り向くと、呆気にとられた響谷が椅子からずり落ち、口をパクパクとさせていた。餌をねだる鯉のような間抜けな表情だった。

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