第3話 百年の孤独

 響谷と大塚妃沙子に連れられた登美彦は、清澄白河駅のお隣の森下駅まで徒歩で向かい、交差点沿いの手打ちそばの店の暖簾をくぐった。


 一杯三百円の立ち食いそばでも、いちいちお財布の中身と相談しなければならない薄給の身である登美彦にとって、外観からして高級料亭のような佇まいにはただただ圧倒されるばかりであった。


 ほどよい暗さの店内は清潔感に溢れ、飴色に艶光りする木目のテーブルの端っこにお品書きが立てかけられている。登美彦はメニューを見るなり卒倒しそうになった。いちばん安いせいろそばでさえ、小鳥パンなら三食分に相当する値段だ。天ぷらそばともなれば、一週間分の食費だ。ありえない。ここはほんとうに庶民の住まう下町か?


 響谷から「奢りだから好きなものを頼んでいい」とは言われていたけれど、いざ選ぼうとなると、ついつい小鳥パン換算で考えてしまう根が貧乏性の登美彦は、こめかみのあたりを押さえてうんうんと唸っている。


 温かいおそばにしようか、冷たいおそばにしようか、それとも、そばと丼のセットにしようか。いちばん腹持ちのするものはなんだろうか。


 登美彦が眉間に皺を寄せて真剣に考え込んでいる隣で、いつになくごきげんな様子の響谷は四人掛けのテーブル席につくなり、メニューも見ずに言った。


「焼酎をボトルで入れようと思うけど、百年の孤独と爆弾ハナタレ、どっちがいい?」


「奢りならどっちでもいいっすよ。私、鴨南蛮で」


「あっ、そう。じゃあ百年の孤独かな。でも奢りかどうかはまだ分からないよ」


 向かい合って座っている響谷と妃沙子は互いに身を乗り出して見つめ合っている。

 そのワンシーンだけを切り取れば、仲睦まじい恋人同士のような近しい距離感にも思えるが、やけに張り詰めた不穏な空気がそこはかとなく漂っているような気もする。


 だが、それはおそらく気のせいだろう。格式の高そうなそば屋の醸し出す雰囲気に呑まれただけだ。二人はなんだかんだと言い合いながらも仲が良いからな、登美彦はそう好意的に解釈した。


「トミー、もう決まった?」頬杖をつきながら妃沙子が言った。

「いえ、まだです」


 お品書きを両手に持ったまま、登美彦が答える。


「描くのも遅けりゃ、決めるのも遅いのね」


「妃沙ちゃんに比べれば皆、どんがめだよ。トミーはカツ丼のセットにしときな」


「はい。じゃあ、それでお願いします」


 店員を呼び止めた響谷が、常連のような慣れた様子で注文をした。


「事情聴取の定番メニューっすね」と妃沙子が鼻白む。


「その通り。今日は秘密のベールに包まれたトミーの生態に迫るつもりさ」


 テーブルにお猪口が三つと、百年の孤独のボトルが運ばれてきた。三人で杯を交わし合い、登美彦は注がれた焼酎をすすめられるがままにぐいと呷ると、とたんに頭がくらくらした。


 普段から酒を飲み慣れていない登美彦の顔がほんのりと赤くなり、それを見た妃沙子がけらけらと笑いだした。ちびちびと酒を酌み交わしていると、カツ丼とせいろそばのセットが運ばれてきた。


「お腹が減っただろう。冷めないうちに食べなさい」

「はい、ありがとうございます」


 登美彦は箸を二つに割り、響谷に軽く会釈してからカツ丼を食べ始めた。


 甘めの醤油ダレがからみ、卵でとじられた肉厚のカツは口の中で溶けそうなほどに柔らかく、こんなに美味しいカツ丼はハバタキに入社して以来、はじめて口にした気がした。


「……美味しいです」


 登美彦の目から自然と涙がこぼれ落ち、頬を伝う。


「泣くほど美味いか、そうかそうか。これが健康で文化的な生活というものだよ」


 百年の孤独のボトルをそっと撫でながら、やけにしんみりとした口調で響谷が言った。


「ほんと芸達者っすね、響谷さん。アニメーターより役者の方が向いてるんじゃないすか。ドラマの冒頭ですぐ殉職する刑事役とかで」


「そうだね、ぼくもときどき自分の才能にドキドキすることがあるよ」


「ギャグセンスは明らかに昭和っすね。決め顔でくだらねえこと言ってるとキメエっす」


「ははは、妃沙ちゃんのギャグも相当に昭和だよ」


「冗談じゃねえっすよ。私はバリバリの平成生まれっすよ」


 百年の孤独のボトルはそろそろ空になろうとしていた。響谷はトイレに行ったきり、しばらく帰ってきていない。化粧っ気のない顔をほんのりピンク色に染めた妃沙子は、小さな子供のようにひっくとしゃくりあげると、据わった視線を登美彦に向けた。


「やい、トミヒコ。あんた今日、だれからチョコ貰った」

「はい?」

「はい、じゃねえ。答えろ」


 ハイピッチで飲み、けっこうに酔っぱらっているからか、据わった目つきとは裏腹に妃沙子の語調にいつもの切れ味がない。どちらかと言えば、甘ったるい響きを帯びていた。


「チョコの類は貰っていないですけど」

「嘘つくな。ひとつぐらいは貰っただろう」

「ほんとうに貰っていないです」


 妃沙子はゆっくり立ち上がると、斜め向かいの席に座っていた登美彦の隣へと移動する。なかなか自白しない容疑者を言いくるめるベテラン刑事かのように、いかにも親密な素振りで登美彦の肩を抱く。


「私が義理であげたじゃん。だからゼロのはずないじゃん」


 拗ねたような口ぶりで妃沙子が言った。


「はい。義理柿ピーをいただきました。でもチョコではないですから」


 真面目くさった表情を崩すことなく、登美彦が淡々と答えた。


「わはは、義理柿ピー。なんじゃそりゃ。はじめて聞いたわ」


 登美彦にしなだれかかったまま、妃沙子は楽しそうに手を叩いて笑っている。


 ハンカチで手を拭きながらトイレから戻ってきた響谷は、やけに親密な素振りで隣り合って座っている登美彦と妃沙子を見て、にわかに震えはじめた。


「これ、どういう状況? まさか百年の孤独のせい? ガルシア・マルケスもびっくりだよ」


 濡れた手を拭いていた紺色のハンカチがぽろりと地面に落ち、響谷は呆然としたまま突っ立っている。


「あ、響谷さん。なげートイレでしたね。もしかして大きいほうっすか」


 性質の悪い酔客まっしぐらの妃沙子の下品な言動は、上品にそばをすする音だけが聞こえる落ち着いた雰囲気の店内には明らかにそぐわないものであった。


「ちょっ、妃沙ちゃん。声大きいって」

「あはは、デカいっすか。デカいほうっすか」


 妃沙子は登美彦の背中をばしばしと叩きながら笑っている。


「聞いたかトミヒコ。響谷さん、デカいんだってさ」


 響谷は肩をすくめると、登美彦に向かって言った。


「妃沙ちゃんがこれ以上の醜態を晒す前に出ようか、トミー」

「はい」

「こんなに悪酔いしたところ見たことないのに、今日に限ってどうしたんだろうね」


 響谷は心配そうな表情を浮かべると、テーブルの端に置かれた手書きの勘定書に手を伸ばす。登美彦はゆっくり立ち上がると、もたれかかる妃沙子の華奢な肩を抱いて支えた。


「響谷さんが席を立たれている間に、妃沙子先輩がぽつりと漏らしたんです。本命チョコをあげる相手が生きているだけで十分よね、って」


 響谷がしばらくの間、絶句した。


「なにそれ、どういうこと?」

「さあ、分かりません」


 登美彦は力なく首を左右に振った。


「もしかして彼氏さん、死んじゃったの?」


 響谷は自身の口からついぽろりとこぼれた当て推量の重さに、口に出してからようやく気付いたのか、沈痛な面持ちを浮かべて押し黙っている。


「それも分かりません。先輩は親しくお付き合いされている方がいらしたんですか?」


「すごく年上らしくてね。もうすぐ還暦近い戦場カメラマンだって聞いたことがある。話に聞いただけで、ぼくも会ったことはないんだけどさ」


「そうですか……」


 好いた惚れたの色恋沙汰とは縁遠い世界に生きてきた登美彦が同僚の恋愛事情を把握しているはずもなかったが、よりによってバレンタインデー当夜に大塚妃沙子のいつになく乱れた態度を見せつけられれば、ある程度の察しはつこうというものだ。


「知らなかったとはいえ、悪いことしたな。調子に乗って百年の孤独なんて頼むんじゃなかったよ。こんなことなら爆弾ハナタレにしておけばよかった」


 響谷は手書きの勘定書を持って、とぼとぼと歩いていく。芥子色の作務衣を着た女性店員が勘定書を見ながらレジスターに金額を打ち込んでいる。焼酎をボトルで頼んだこともあって会計金額が三万円近くになるのを見て、登美彦がわずかに及び腰になった。


「あの、僕はいくらお支払いすれば……」


 消え入りそうな声で登美彦が訊ねた。悪酔いした妃沙子も心配であったが、自身の懐具合はもっと心配であった。響谷はカツ丼を奢ってくれるとは言ったが、お酒まで奢ってくれるとは言っていない。


 登美彦は清澄白河駅から歩いて十分足らずの閑静な住宅街に立つ築五十二年の古アパートに部屋を借りているが、そこの月々の家賃が管理費・共益費込みでぽっきり三万円である。


 一ヵ月の家賃相当の贅沢をしたと思うと、気が気ではなかった。仮に三人で割り勘にしたとしても、ゆうに家賃一週間分は吹き飛ぶ計算になるだろう。


「いいよ、ここはぼくが払うから。その代わり出世払いだよ」


 響谷は大人の包容力を見せつけるがごとく、分厚い財布から一万円札三枚を抜き取ると、合皮のカルトンに乗せた。


「ありがとうございます。出世したら必ずお返しします。今日はごちそうさまでした」


「アニメーターに出世なんて期待できないから、奢りだと思ってくれていいよ」


 登美彦が深々と頭を下げて礼をすると、響谷は狸のように膨らんだお腹をさすりながら苦笑いしている。


「響谷さん、太っ腹。まあ賭けは私の勝ちっすから、ゴチになって当然なんすけど」


 登美彦にもたれかかって、眠そうな目をしていた妃沙子が陽気な声で言った。


 作務衣の店員に見送られ、店先の暖簾をくぐった響谷が振り返る。


「妃沙ちゃん、家まで送るよ。タクシー呼ぶから住所だけ言って」

「いいっすよお。歩いて帰れるからあ」


 そば屋を出るなり登美彦から離れた妃沙子は、手に持った小振りのハンドバッグをぶん回し、清澄白河駅の方へふらつきながら歩いていく。前から歩いてくる白髪の老人に正面からぶつかりそうになって、よろけながら避けた。


「ああ、もう。言わんこっちゃない。トミー、タクシー呼んで」

「はい」


 登美彦は甲子園球場で選手宣誓をする高校球児のように手をぴんと高く上げ、タクシーを呼んだ。ウインカーを点滅させ、交差点を左に折れたタクシーが歩道脇に停車する。


「だからあ。歩いて帰れるって言ってるじゃないすかあ」


「ほら妃沙ちゃん、さっさと住所言って。トミーもぼーっとしてないで助手席に乗りな」


 響谷は駄々っ子のようにごねている妃沙子を無理やりタクシーに詰め込むと、後輩二人にてきぱきと指示を出した。


「響谷さんにだけは自宅の場所、知られるのいやっす。ストーカーされそう」


 黒塗りのタクシーの後部座席に詰め込まれた妃沙子は小声でぶつぶつ言っている。


「僕も乗るんですか?」


 タクシーが出発するのを見送ろうと、歩道で突っ立っていた登美彦が目を丸くする。


「ああ、もう。ほんとうに面倒だな、君たちは」


 響谷は妃沙子が持っていたこげ茶色のハンドバックのがま口を開けると、クリーム色の財布を取り出し、レシートとクーポン券だらけの中から運転免許証を探り当てた。


 運転手に住所を告げると、夜の道をタクシーがのろのろと走り出した。


 妃沙子の住むマンションは、清澄白川駅と森下駅の中間あたりに位置する商店街である高橋たかばしのらくろードを突っ切って、小名木川沿いの住宅街をぐねぐねと曲がった先にあった。


 良く言えば下町情緒があり、悪く言えばうらぶれた感じのする高橋商店街のあちこちに、口の周りと手足以外が真っ黒の犬のイラストが描かれている。店のシャッターやのぼり旗、立て看板のどこもかしこにも描かれており、黒目がちの大きな目と脱力気味の愛嬌ある表情は遠目にも可愛らしかった。


「のらくろードの近くに住んでるなんてマニアックだね。良い趣味してるよ」


 築浅の高層マンションのエントランス前でタクシーが停車した。うたた寝している妃沙子を横目にタクシー料金を支払うと、響谷が言った。年配の運転手が釣り銭を用意している間に、「着いたよ、起きな」と呼びかけながら妃沙子の肩を揺さぶっている。


「あの犬のキャラクターが商店街のマスコットなんですか」


「そう、のらくろは漫画家の田河水泡先生が戦前に発表した戦争風刺の漫画でね。この近辺は作者ゆかりの地で、森下文化センター内にはのらくろ館もあるんだ。ちなみにサザエさんの長谷川町子先生も田河先生の弟子だよ」


「はじめて知りました。勉強になります」


「先人へのリスペクトは基本だよ、基本。田河先生は一九八九年にお亡くなりになったけど、生み出されたキャラクターは初出から八十年以上経った今もいまだに生き続けているんだ。二〇一四年にドラえもんは出版四五周年、ハローキティは誕生四〇周年、ムーミンは二〇一五年で出版七〇周年だ。比べてみるとその長寿さがよく分かるね。凄いことだよ」


 助手席に座ったまま登美彦がいかにも感心したようにうなずくと、釣り銭を受け取った響谷が薄く笑う。


「高橋商店街の近くには、錦糸町や上野みたいな大きな繁華街があるから、戦前派ののらくろだけでどこまで集客効果があるのかは分からないけれどさ」


 すっかり暗くなった歩道に人けはなかったためか、路肩側の後部ドアは歩行者の進路を遮るように目いっぱい開いており、響谷は片足を道に投げ出してぶらぶらさせている。


「さあトミー、降りて降りて。妃沙ちゃんを部屋まで運ばなきゃ」

「はい」


 促されるがまま登美彦が助手席から降りると、小名木川の方から湿った空気が流れてくるのを感じた。街はしんと静まり、エントランスに続くタイル張りのアプローチに等間隔に置かれたボールスタンドライトが白々とした光を投げかけている。


 響谷はうたた寝していた妃沙子をタクシーから降ろすと、意味深な笑みを浮かべながら手を振り、自身は再びタクシーに乗り込んだ。


 妃沙子はすっかり電池の切れた様子で、登美彦に身体を預けたままぐったりしている。


「トミー、あとはよろしくね。あとは若い二人にお任せするよ」

「ちょっ……、響谷さん」


 大いに狼狽する登美彦をよそに、タクシーの後部ドアがばたりと閉じられた。


「いっぺん言ってみたかったんだよね、このセリフ。それじゃアデュー。ボヌよい ソワレ夜を


 半開きになった透明な窓ガラス越しに響谷がにやにやと笑っている。お見合いの世話を焼きたがるおばちゃんのようなベタな台詞を残して、タクシーは走り去っていった。

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