うた
増田朋美
うた
水穂さんと杉ちゃんが、こっちに来て何日経っているのかわからないくらい、あの二人は、大事な人になっている。あの二人がこっちに来てくれてから、モー厶家は、すごく明るくなった。一言で言えばそうだ。あの二人がパリに来てくれなかったら、一生トラーは部屋から出て来れなかったかもしれないし。もしかしたら、こちらでも、非常に大問題として報道された、利根川心中事件のようになっていたかもしれない。それくらい、トラーがずっと家にいるというのは、本当に、頭を悩ませることだったのである。
この問題は、マークさんだけではなかった。隣に住んでいたチボーくんだって、官女の事を薄々というか、親友として、家族以上にトラーのことを知っていて、本気で彼女の事を心配していたのだった。だから、彼女が水穂さんのために粉屋さんへ行って、蕎麦粉を買いに行こうといいだしたときは、本当に嬉しかった。確かに、水穂さんに彼女を盗られてしまうのではないかと思ってしまった事もあったけど。でも、嬉しいことでもある。
そのうえ、モー厶家には、手伝い人として、シズさんが来てくれていて、一生懸命やってくれるから、これでモーム家は幸せだと思うのであった。
のだが。
今日も、トラーとチボーくんは、また水穂さんのために蕎麦粉を粉屋さんに買いに行って、自宅に帰ってきた。モーム家の自宅には、シズさんがいてくれて、炊事や洗濯などをしてくれているのだが、チボーくんが家に入ると、家の中から、シューマンの君に捧ぐが聞こえてきたので、一瞬ビックリする。
「ああ、シズさんがまた歌を歌っているのかな。いいわねえ。シズさん歌がうまいから。」
と、トラーは、そうやって納得してくれているのであるが、チボーくんは、なにか嫌な予感がした。なにか、いけないことが起きてしまうのではないかと思うような、そんな気がした。
「せんぽくんどうしたの?」
杉ちゃんにいきなり言われて、チボーくんは答えに困ってしまう。
「はあ、また何かあったか。細かいことは気にしないでさ。もうちょっと、のんびりいこうぜ。」
東洋人の杉ちゃんにそう言われるのは、なんかちょっと、恥ずかしいなと思うのであった。それでも、シズさんの歌は、続いている。
「いい声だな。」
「そうですねえ。」
とりあえず、杉ちゃんにそう言っておくけれど、なにか、悪いことでも起きてしまうのではないかなと思ってしまうチボーくんであった。
一方トラーの方は、杉ちゃんにそばの打ち方を教えてくれと言って、一生懸命そばを作っている。彼女は、チボーくんが見てもわかるほど、実にいきいきとして、積極的に、水穂さんの世話をするし、普通の人が嫌がる憚りの世話もこなすようになった。そこは、いくら親友であっても、見つけられなかったところだった。杉ちゃんたちがやってきて、そういうことが、わかってくるようになって、自分が知っていた彼女とは、ちょっと違うところが見えてきたかもしれない。そうなると、親友として接していた今までの彼女とは、ちょっと違う様になって来たのかな。チボーくんは、そう考えている。
「おう、だいぶ包丁の持ち方も様になってきたな。そうやって、作ってやりたい人ができると、人間って、誰でも馬鹿力が発揮されるんだよな。」
杉ちゃんにそう言われて、以前の彼女だったら、きっと、泣いたり怒ったりして、手がつけられなくなっていたと思う。でも、今の彼女は、もういやねえとにこやかに笑って、それを見事にかわしていた。そうやって、単純なやり取りで済ませられるようになったことも、彼女にとっては絶対的な進歩なんだと思うけど、どこか、どこか寂しいな。チボーくんは、そんな事を思うのだった。
「じゃあ、そばを茹でて、盛り付けて、つゆを作ってくれ。」
「はい!」
そう言われて、トラーは、切ったそばを鍋で茹ではじめた。生そばだから、ほんの数分で、茹で終わってしまうものだ。それを、ザルにザーッと開けて、水をかけて冷やし、お皿に盛り付けて、小鉢と呼ばれる小さな器にそばのつゆを入れれば完成だ。あの古臭い百貨店に、日本食の専門のフロアを作ってくれたのが、こんなに役に立つとは、誰も思わなかっただろうが、、、。
「はい。本日の水穂の昼ごはん。」
そばは無事に完成した。不格好な切り方を卒業して、まっすぐに麺を切れるようになれば、しっかりしたそばができるかもしれない。
「じゃあ私、持ってくわ。」
にこやかに笑って水穂さんのところにお皿を持っていく彼女は、ああ本当に変わったなと思うのであった。そして、いつもの通り、水穂さんが咳き込みながらご飯を食べるという光景が繰り広げられるんだと思う。チボーくんとしては、水穂さんが、もうちょっと良くなろうとする意思を持ってくれればと思うのだが、それは、あまり期待しないほうがいい。水穂さんは、ますます弱っていくようであるから。
それと同時に、シズさんが、洗濯物をたたみながら、また君に捧ぐを歌っているのが聞こえてきた。もうトラーもこの頃少しは安心してみていられるし、シズさんが家事を手伝ってくれるから、自分はいらないのかなとか、チボーくんは考えてしまうのであった。
「せんぽくん一体どうしたの?」
と、杉ちゃんに言われて、チボーくんは、困った顔をして杉ちゃんの顔を見た。
「いやあ、こういうことはねえ、人に話しても、意味はないかなとは思うんですが。」
とりあえずそれだけ言っておく。
「また変な心配して、おかしくなる前に、口に出して言ってしまったらどうだ?」
と杉ちゃんに言われて、
「いやあねえ。口に出してというかそのような問題じゃありませんので。」
チボーくんがそう言うと、
「ねえ、ちょっと話があるの。すぐ来てくれる?」
と、いきなり声がして、トラーの来たことがわかった。
「ああどうしたの?」
と、杉ちゃんが言うと、
「あのね。シズさんにもう一度歌ってほしいの。」
と、彼女は言った。
「はあ、そうやって、突拍子もない事を考えるんだな、お前さんは。」
と、杉ちゃんに言われてトラーは、
「あたしは、いつもと変わらないわよ。そんな事、言われたってあたしはあたしだから。」
と、ムキになっていうのだった。
「それで、お前さんの今日のひらめきと言うのは?」
杉ちゃんに言われて、
「ううん。大したことじゃない。ただ、もう一回音楽の催し物があったら、シズさんと、今度は水穂に出てもらいたいと思っただけなの。」
そう答える彼女。確かに、日本と違って、ここは音楽関係のイベントも盛んに行われているのであるが、でも、それに出るには、ちょっと場違いと言われてしまう気がする。
「水穂さんにか。でも、今のまんまじゃ無理だと思うんだよね。多分立ってるのさえ苦しいんじゃないのかな?」
杉ちゃんのほうが、すぐに答えを出してしまうのが、なんだか皮肉だった。
「まあ確かに、ピアノはうまいと思うけど、外へ出すのは厳しいよ。もうちょっと体力つけないと。今は、ご飯だって、まともに食べてくれないでしょ。それができないと、無理な話だ。」
「日本語って、よくわからないわ。だめならだめだって直接言わないのよね。なんでこんなにいっぱい、できない事を示す言葉があるんだろ。無理とか、厳しいとか、そういう変な言葉ばっかり使ってる。」
「まあそうだけどねえ。日本語とは、そういうもんだ。だめとか、直接言わないのは、それを言ったせいで、相手が傷つかないようにする考慮だ。」
杉ちゃんはそういうが、杉ちゃん流に解釈すれば、事実は事実でもある。それを善悪つけるのではなく、どうするか考えることしか、人間にはできることはない。確かにそれはそうなんだけど、それを、直接的に表現するか、そうではなく別の表現を使うかは、国によって違うような気がする。日本は特に、できないとか、無理だとか、そういう事からできるだけ遠のくような表現を使うから、それを理解するのに、ちょっと頭を使わなければならないなと思う。
「そうかあ。杉ちゃん見たいに、何でも口にだして言ってくれる人だったら、いいんだけどなあ。そういうところ、あたしまだ理解できてない。」
そういう彼女に、思わず、日本に行くつもりなのかと、チボーくんはびっくりしてしまった。それはなんだか、後頭部にボールをぶつけたような、衝撃でもあった。
「まあねえ。でも、日本では、対人関係というのはそういうもんだぞ。なんでもほじ繰り返すように聞くと、嫌われちまうんだよ。相手の言ってることはとても少ないから、それを、こっちで噛み砕いて、こっち流で解釈しなきゃならないから、日本の人付き合いってのは、疲れるんだよな。まあ、止めても無駄だけどさあ。日本ではそういうもんだぜ。」
杉ちゃんはにこやかに笑った。
「そうねえ。あたしたちは、何でも聞かないとわからないってなるけど、日本ではそうは行かないのかあ。面倒くさいなあ。」
と、彼女がそう言ってくれたおかげで、ちょっとホッとした。
「それでね、水穂のことなんだけど。」
トラーは、また話題を変えてしまった。チボーくんのほうが、話題を変えられて頭を切り替えるのに、非常に苦労した。
「薬変えてもらって、もっと元気が出てきたら、少しづつピアノにも向き合わせて上げたいって思ってるの。だから、チボーのところにピアノあったでしょ。少し貸してあげてよ。ついでにシズさんも一緒に。また二人で、君に捧ぐを歌ってほしいわ。「
「そうは行かないよ。薬は、医者の出したとおりに、飲まなきゃいけないもんだろうが。」
杉ちゃんに言われても、意思を曲げないのがトラーであった。
「そうだけど、いつまで経っても良くならないって言うんだったら、変更してくれって主張してもいいと思うんだけど。日本人は、そういうところが弱いわねえ。なんで医者とか、政治家とか、そういう人の前で、頭下げてしまうんだろ。」
「日本人はどうしても、学歴とか、職歴に弱いからねえ。普通のやつと偉いやつの区別はしっかりしなきゃいけないっていう気持ちがあるからね。」
「嘘よ!」
杉ちゃんがいうと、トラーは強く言った。
「そんな事絶対にないわ。偉い人って言うけれど、本当に実力ある人は、評価されないでしょうが!」
「うんまあ、それはそうだねえ。それでどうするの?」
杉ちゃんがそうきくと、
「そういう人のそばにいてあげる人が、必要なんじゃないかって思うのよ。あたしは、そういう役割になっても、いいわ。一生、誰かのそばにいて、その手伝い人みたいな生き方をしてもいい。人になんて言われたってあたしが好きなら構わない。」
トラーがそう言うので、チボーくんは、本当にトラーは水穂さんに取られてしまうのではないか、と、思ってしまうのだった。
「そういう考えはとても西洋的だ。東洋では間違いなく嫌われるだろうし、可哀想に思われるかもしれない。」
そういう西洋と東洋の違いが分かる人が、もっとたくさんいてくれたら、すれ違いとか、そういうものも減ってくれるんだろうなと思われるが、残念ながら、そういう人はなかなかいないのであった。
「つまるところ、日本では、人からどう見られるかをまず第一に考えて、自分がどう思うかは、二の次だ。それは、覚えておかないと生活できないよ。きっとそれは、お前さんが思っている以上に辛いことだと思うんだけどねえ。一人で、お前さんが耐えて行けるかなと思うかな。それは、無理なんじゃないの?」
「そうかあ。でも、あたしが、そういう人間であることは、誰かが決めることじゃないわよね。それは、日本でも、こっちでもおんなじことだと思うんだけどね。」
杉ちゃんにそう言われて、トラーは、そういうのであるが、チボーくんは、もうハラハラして仕方なかった。もしかしたら、彼女が本当に水穂さんと一緒に、いってしまうのではないか、と、本当に、思ってしまう。
「まあねえ。確かに、どこの国でも自分次第といえばそれまでだが、日本は、自己主張の強いやつはどっかで折れるということを覚えないと、目が出ないのが常だから。それは、誰かが口で教えてくれるわけじゃないのも、日本では、当たり前のことだからさあ。」
「杉ちゃんがそう言ってくれてよかった。」
チボーくんは、思わず言ってしまった。
「杉ちゃんみたいに、何でも口に出して言ってくれる人がいてくれると、いいんですけどね。」
とりあえず、言いたいことは山ほどあっても、それだけにしておきたいところなのであるが、、、。
「杉ちゃんがくちにだして言ってくれて良かったですよ。そうじゃなきゃ、日本では生活なんてとてもできませんよ。日本の映画とかテレビドラマとか見ても、みんなそうなっているじゃないですか。」
それと同時に、さあ、お洗濯物が片付いたわ、とシズさんが洗濯物のかごを持ってやってきた。もう歌は歌っていなかったけど、シズさんって、もうおばあさんだけど、きれいだなって思われるところがある。それはきっと、ロマ特有の色っぽいところなんだと思う。
「今シズさんの話ししてたの。シズさんが歌うとすごくきれいだから、もう一回、水穂と一緒に、歌ってよって。」
トラーは、シズさんにそういう事を言った。
「まあありがとう。でも、あたしは、もうこんな年だし、歌なんてどうかなと思うけど?」
シズさんはさらりと年長者らしく答えた。
「それに、あのときに歌った君に捧ぐだって、ちゃんと楽譜を読んで覚えたわけでも無いんだし。」
「それにしては、いい声だったよな。そこは確かだぜ。」
と、杉ちゃんが言った。
「いやあねえ。こんなばあさんの歌を褒めて、なんの役に立つのかしら。こんなばあさんを褒めてもしょうがないわ。」
シズさんは、杉ちゃんに言った。
「日本語には褒めることを、本当に褒めているのと、そうではないのに、褒めているのをおだてると言って使い分けているけれど、今の言葉は、おだてていっているわけじゃないぜ。僕らは、シズさんの歌はきれいだと思っている。それは間違いはないよ。歌というのも、2つ言葉がある。声に節を付けて歌う言葉を表す唄と、その行為そのものを表す歌だ。日本人でも、違いがわからなくて苦労することもあるが。シズさんにも、聞いてみたいな。明日はどんな唄を歌おう?」
「もう唄える歌も無いわよ。」
シズさんは静かに言った。
「私達は、ロマだもの。いくら努力したって、ロマであることがわかってしまったら、皆おしまいよ。」
「そうかしら。あたしは、まだまだ可能性というか、シズさんにやってほしいと思っているんだけどなあ。」
シズさんの答えにトラーはそう反発するが、
「それは若い人だから思えることなの。私みたいな年寄になっちゃうと、もう、一日明るく過ごせればそれで幸せだと思うようになっちゃうのよ。水穂さんもおなじ事なんじゃないかしらね。」
シズさんは、にこやかに笑った。
「年寄は、いつもそれよね。なんか、一日終わればそれでいいとか、そういう事になっちゃう。あたしは、シズさんの君に捧ぐはすごいと思ったし、水穂のピアノだって、すごいことだと思うのに。なんで、そうなっちゃうんだろ。」
トラーは、若い女性らしいことを言うのであるが、
「ある意味それがわからないのは若い人の素晴らしいところだと思うわよ。」
と、シズさんは言った。トラーはまだ不満そうであったが、
「まあ、そういうことだよな。」
と、杉ちゃんも納得してくれている。チボーくんはそれを聞きながら、杉ちゃんやシズさんがそういう事を言ってくれて本当に良かったなと思うのであった。おかげで、彼女が遠くへ行ってしまうのではないかという不安も少し解消されるかな?
遠くで、水穂さんが咳き込む音がしている。すぐ行かなきゃ、とシズさんはそれを聞きつけて、すぐに水穂さんの方へ走っていった。年寄りなのに、耳が良いのは、ロマ族故だろうか。
「あれ、あたし、当たる食品なんて何も使った覚えは無いんだけどな。」
と、トラーはそう言っているが、
「いや、こういうときこそ、事実は事実であると考えて、何も考えずに、どうすればいいか、行動に移さなくちゃ。それは、どこの国でも同じだぜ。」
と、杉ちゃんに言われて、彼女はすぐ泣いてしまうのではないかとチボーくんは思ったが、トラーは、意外なことに泣かなかったのであった。その反応が意外だったので、チボーくんは驚いた。
「あたし、薬取ってくるわ。」
と、彼女が言った。
「そうしなきゃ、水穂、止められないし。」
トラーは、そう言って、シズさんに続いて、水穂さんの部屋へ戻っていった。すぐに方向を変えられない杉ちゃんと、チボーくんが居間に残った。
「杉ちゃんありがとうございます。」
とだけ、チボーくんは言っておく。杉ちゃんも、チボーくんが何を考えているのかわかってしまったようで、
「いいんだよ。ただ、お前さんも、黙っているのではなくてさ、男らしく告白しろ。」
と、にこやかに言った。
「まだ、言ってないんだろ?彼女に。お前さんも小さいことで、本当に気を病むよな。まあ、そういうところを日本語では繊細と表現するんだろうが。悪いけど、そっちには、そういう人間を表す言葉はあるか?」
「そうだねえ。すぐには思いつかないなあ。」
チボーくんは、申し訳無さそうに言った。
「それなら、余計に、前向きになってさ、あんまり細かいことは気にしないことだねえ。」
杉ちゃんはカラカラと笑った。確かに、それができたら苦労はしないのだ。だけど、自分でそういうのはすごく勇気がいる。
チボーくんは、杉ちゃんにそう言われて、やっぱり自分ってアレヤコレヤと考えすぎてしまうのかなと思いながら、大きなため息を着いた。もう少し、自分も楽に生きたいなと思うことはあるのだが、、、。それは、無理そうだった。
もう、昼食時刻はとっくに過ぎてしまって、三時のおやつかな、と思われる時刻になっていた。
うた 増田朋美 @masubuchi4996
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