恋隠す教え子は、仔犬に懐かれたいから家庭教師に抱擁する。
喫茶店『カヴァネス』の前で、制服を着た一人の少女と、毛の長い小さなチワワが向かい合っていた。
決闘のような殺伐とした雰囲気を醸し出しながら、少女はチワワに恐る恐る手を伸ばしていく。
息の詰まるような緊張の一瞬。
彼女の白い手がモフモフとした毛に触れそうになった瞬間、
「ワンッ!」
「うひゃぁあっ!?」
一鳴きしたチワワに驚いて、少女――
スカートを丸めるように、打ち付けたお尻を撫でる。
「いたたたっ……」
「大丈夫?」
「あ……
夜明が振り返ると、そこに居たのは絶世の美女――ではなく、生まれる性別を間違えたとしか思えない、美し過ぎる青年、
夜明は彼を見て愕然とした。
伊月が突然現れたのに驚いたわけではない。夜明の前とは打って変わり、チワワが彼のスラリと長い足に『かまってかまって』と全身を使って表現していたことに驚愕したのだ。
ドッグポールに繋がれたリードが限界までピンッと張っている。それでもなお、小さな手足を必死に伸ばして、伊月にちょっかいを掛けていた。
伊月は時が止まったかのように固まる夜明を不思議に見つめながらも、しゃがみ込んで近寄ってきたチワワの頭を撫でる。すると、甘えるように「クゥ、クゥ~」と喉を鳴らして、伊月の微笑みを引き出した。
「人懐っこくて、良い子だな」
「ど……」
「どうかしたかい?」
止まっていた時間が動き出し、夜明は俯いて震え出す。
そして、押し倒すかのような勢いで、伊月の両肩を掴んで、彼を驚かせた。
「動物に懐かれる方法を教えてください……!」
「な、懐かれる方法……?」
こくこくと必死に頷く夜明。
対して、伊月とチワワは揃って目を丸くしてキョトンと小首を傾げた。
■■
「動物に懐かれない?」
「はい……そうなんです」
喫茶店『カヴァネス』に入店した二人は、定番の席となり始めたカウンター席に移動していた。
メイド服を着たマスターが暖かい紅茶を出してくれる。
「ありがとう」
にこりと涼やかに笑い、なにも言わずに離れていく。微妙な空気を察したのだろう。プロである。
紅茶で口の中を伊月が潤すと、肩を落とす夜明が重苦しい息と共に話し出した。
「私はその……動物……特に小さい仔が好きなんです」
「そうなのか」
「……勉強ばかりの女には似合わないですよね」
「い、いや。そんなことはないよ? 女の子らしい素敵な趣味だ」
「はは……慰めていただいてありがとうございます」
(今日の水鏡さんはネガティブだなぁ)
スレたように笑う夜明を見て、伊月の頬を冷や汗が流れる。
(落ち込んだ女の子の慰め方なんて知らないんだけど)
告白されることは多々あれ、異性と距離を置いてきた伊月はこういう展開に滅法弱い。どうしたものかと内心頭を抱えつつ、夜明の話に耳を傾ける。
「とても好きで、飼いたいぐらいなんですけど、両親の許可はおりません。それで、お散歩中の飼い犬や野良猫を撫でたり、抱きしめたりしたいんですけど……」
わっと感情が溢れ出したように、両手で顔を覆う。
「どの子を相手にしても嫌われてしまうんです……!」
「あー。いるよね。好きな人ほど嫌われちゃう子」
大抵の場合、好き過ぎるが故に構い過ぎてしまい、動物に嫌われるというのはよくある聞く話だ。動物は人形やぬいぐるみではなく、生き物だ。その点を踏まえて挑めばまた違う結果になるかもしれない。
「犬や猫の飼い方の本や、好かれる方法をネットで調べたりと、できることはやっているんです」
「そっかー」
好きだからこそ、努力は欠かさない。飼えもしないのに、飼い方の本まで買うというのは余程動物が好きなのだろう。
(好感は持てるけど、結果が伴わないのは辛いなぁ)
伊月は同情を隠せなかった。
ふと、夜明の部屋に動物のぬいぐるみが沢山飾ってあったのを思い出す。
「ぬいぐるみが好きなのは、動物に触れないから?」
「そう……かもしれません。動物の形を模していても、ぬいぐるみは逃げませんから……ふふふ」
「卑屈過ぎるよ」
影の差した夜明の表情は、なんとも言えない艶があって伊月は見惚れてしまう。けれど、同時に彼女の悲しいと、伊月の心も痛む。
(どうにかしてあげたいな)
心の底からそう思う。
顔を上げた夜明は、最後の希望に縋るように伊月の手に触れる。ドキリと、彼の心臓が跳ねる。
「どうか……動物に好かれる方法を教えてはいただけませんか?」
「そう言われてもな」
触れ合う手をチラチラと気にしながら、伊月は困ったように頭をかく。
(教えてあげられるものなら教えてあげたいけれど)
困ったように伊月は言う。
「特別懐かれると思ったことはないんだよなぁ。なにかをした覚えもないし」
「そうですか……」
しょんぼりと夜明は落ち込んしまう。
彼女もその可能性は考えていたが、実際に聞かされると希望が大きかった分、ショックも大きかった。
(けれど、諦めません!)
ぐっと両拳を握る。
「それならば、夢咲さんがなぜ懐かれるのか、間近で観察し、勉強させていただきます!」
「勉強って……」
「さぁ、行きましょう!」
そのまま手を取られて、伊月は引っ張られてしまう。
ぎゅっと握られた夜明の華奢な手の感触。
(水鏡さんが特別意識してないのはわかってるけど)
嬉しい。
(手を繋いでいるだけなのに、こんなにも幸せな気持ちになるのか)
繋がれた手に意識を傾けながら、伊月は気になっていたことを夜明に問い掛ける。
「ところで、今日の勉強は……?」
「動物に懐かれるのも、とても大切な勉強です!」
(いいのか、それで?)
戸惑う伊月を他所に、夜明は飼い主さんに話しかけに向かう。
■■
チワワの飼い主から許可を貰った夜明と伊月は、さっそく店の前に出てチワワの元へ向かう。
「あぁ……寝ている姿もかわいいですねぇ」
丸くなってお休み中のチワワをうっとりと夜明が見つめる。
暇だからか、疲れているのか。人間のように船を漕いで眠る姿はとても愛嬌があった。
動物が凄く好きというわけでもない伊月も可愛いと感じるのだ。夜明の感じている可愛さは、最早言葉では表現しきれないだろう。
「寝てる子を起こすわけにはいかないな」
「いいんです。幸せそうな姿を離れて見ているだけでも、私は幸せですから」
(切ないなぁ)
失恋した女の子みたいなことを言いだす夜明。
夜明の極まった反応にどう返せばいいのか。悩む伊月だけれど、動物懐き講座が流れるのは、夜明には悪いがありがたかった。
(プレッシャー凄い上に、なにをすればいいかわからないからな)
ほっと安堵する。
けれど、彼の思惑は裏切られ、スンスンと鼻を鳴らしたチワワが、パチリとつぶらな瞳を見開く。
キョロキョロと首を動かし、伊月と夜明を見て止まる。
「キャンキャン!」
「あ――」
小走りに近寄ってこようとするチワワ。
(うそ……こんなことが)
初めて自身から近寄ってくる小さな仔に、感極まったように両腕を広げた夜明は、受け止める準備をして――
「クゥン、クゥン」
「へ? あ、私?」
――当たり前のようにスルーされて、伊月に飛びついた。
嬉しそうに尻尾を振るチワワと、石のように微動だにしない夜明。
不可抗力とはいえ、地雷を踏んでしまったかのような状況に、伊月は居たたまれなくなる。
ポロリと、夜明は涙と共に言葉を零す。
「……夢咲さんと出会って、初めて恨めしいと思いました」
「わ、わざとじゃなんだよっ!?」
(嫌われた――ッ!?)
ショックを受けて今度は伊月まで固まってしまう。地獄絵図だ。
ただ一匹、渦中にいるチワワだけは、楽しそうに伊月にじゃれついている。
「うぅぅっ……どうしてそんなに懐かれるんですか?」
「どうしてって言われても……ごめん」
「謝らないでください。余計惨めになります」
二人揃って気を落とす。
「クゥ~ン」
どうしたの? そう言いたそうにチワワがコテンと首を傾げた。
(どうにかして懐かれたい)
まだ諦めきれない夜明は、一つの妙案を思い付く。
夜明の頬が桜色に染まる。実行するにはとても勇気のいる案だ。
(けど、触りたいし……その、いやというわけでも)
これから実行しようとする案を想像し、恥ずかしさで震える。
そんな夜明を伊月は不安そうに伺う。
「どうかした? 具合でも……」
「夢咲さん」
「は、はい」
急に名前を呼ばれ、伊月は背筋を伸ばす。
夜明は震える手を強く握りしめ、ぎゅっと目を閉じる。
そして、伊月に向かって倒れ込むように動いた。
「失礼致します」
「ッ!? 水鏡さん!?」
優しい優しい抱擁。
微かに触れ合うような、弱々しい力強さ。ちょっと抵抗すれば簡単に離れてしまう。
けれど、予想の埒外の現実に脳の処理が追い付かない伊月は身動き一つ取れなかった。
触れ合った所から感じる女性特有の柔らかさ。夜明の部屋に招かれた時よりも強く甘い香りが、伊月を刺激し体温を引き上げる。
(柔らかい! 良い匂い! じゃないっ!? なに、どうして抱き着いて……っ!?)
(男の人なのにどうしてこんなに華奢なんでしょうか!? 腰も細いし、あぁ……それに爽やかな香りが)
夜明は夜明で、異性とは思えない伊月の体を肌で感じ取り、心臓を高鳴らせていた。
(変な女と思われていないでしょうか?)
(一秒でも長くこのままでいたいけど、離れないと!)
このまま抱きしめ合っていたい。
想いは同じ二人は、まるで時間が止まったかのように身動き一つ取れない。
「キャン!」
止まってしまった時計の針を推し進めたのは、一匹のチワワだった。
尻尾をふりふり。機嫌良く鳴くチワワは、抱擁する二人の周囲をトテトテ歩き回ると、ぴょんと前足を上げて夜明の足に触れた。
顔を紅潮させたままの伊月と夜明が、揃って目を見開く。
「キャンキャン!」
「や、や……やりました!」
無意識に伊月から離れた夜明は、飛びついてくるチワワに手を伸ばす。
長くふわふわの毛並みに、恐る恐る触れる。
「クゥン、クゥ~ン」
「なで、撫でられました……!」
「よかった!」
「はい……!」
夜明が触れてもチワワは離れていかない。むしろ、もっと撫でてというように自分から頭を差し出してくる。それが夜明にはとても嬉しく、感極まって声にならない声を漏らす。
そんな一人と一匹を見つめる伊月は、少しばかりの名残惜しさを抱いていた。
(ほんとによかったし、安心もしたけど……)
あのままでは伊月の心臓は持たなかった。体に残った夜明の感触ですら、恥ずかしさが沸き立つのだ。大学生にもなって情けない話だが、伊月は強い安堵も覚えていた。
蕩けるような甘い表情でチワワを可愛がる夜明を、伊月が呼ぶ。
「あ~、あの……み、水鏡さん?」
「はわ~」
「水鏡さん?」
「はわ~……は、はいっ!? し、失礼致しました! どうかしましたか!?」
幸福の接種し過ぎでトリップしていた夜明が現実世界に帰還する。
伊月は手で口元を隠し、恥じ入るように問う。
「えぇっと、ど、どうして抱き着いてきたのかなって」
「――」
途端、ボシュンと音を立てて夜明は顔を真っ赤にする。
チワワに触りたい一心だったとはいえ、自身のしでかした大胆過ぎる行動を、今更になって恥じたのだ。
しゃがんでいた体勢から膝を付き、土下座せんばかりに夜明は頭を下げて謝罪した。
「申し訳ありませんでした――!」
「い、いや! 大丈夫だから! 頭を上げて! その、周りが……」
「……――っ!?!」
伊月は大いに慌てた。
実のところ……なんて前置きも必要ないかもしれないが、彼らのいる場所は喫茶店の前。外である。しかも、店内からも窓越しに様子が伺える。
美人美少女が抱き合ったり謝ったりしているのは、当然周囲の人達に見られている。
集まる好奇の視線や微笑ましいモノを見る目。
それにようやく気が付いた二人は、俯いたまま静かに立ち上がった。耳まで真っ赤である。
手遊びをして羞恥に震える夜明が、申し訳なさそうに抱擁の理由を説明する。
「い、犬は匂いに敏感ですので、もしかすると、夢咲さんの香りを付ければ触らせてもらうのではないかと思い付いてしまったもので……」
「そ、そう」
「は、はい」
「う、まくいってよかったね」
「そ、うですね」
「……」
「……」
それきり言葉を失う二人は、暫くの間、赤面したまま羞恥の海に溺れて浮上してくることはなかった。
「クゥ~ン、クゥ~ン」
甘えるように鳴く仔犬の声だけが、二人の沈黙を上書きする。
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