第7話

 数時間後。


 有紗が八神家から早々に抜けてから、もう三時間が経った。少し後悔したふうに顔を曇らせている。


────もう少し、話を聞いたほうがよかったかな。


 雨が降っている。

 視線はずっと、濡れた地面に。


────でも、あたしだけが悪いってわけじゃ……。


 視線を正面に上げようとした。

 けれど、その瞬間に思い出したように重みが襲いかかる。


────謝るにしても、気軽にはできないよね……。


 携帯に手を伸ばした。けれど指先は迷うばかりで、どうしても決心を固めることができない。


────このまま、自然消滅なんだろうな……。


 携帯をバッグにしまおうとした──その瞬間。携帯がバイブ音を鳴らして、震えだした。

 有紗は携帯を目の前に出して、画面を見た。

 そこには『朝子さん』と書かれている。


「朝子さん……?」


 有紗は少しためらいつつも、電話に出た。


「はい、有紗ですけど」

「ああ、私よ私、朝子」

「はい、わかってますけど──さっきは、すいません」

 有紗は言いづらそうに声を小さくして、そう言った。

「もういいのよ。まあ、私からもごめんなさいね。あの子、もう本当に不器用で」

「いえ、わかってますから」

「言ってたわよ? 本当は大大大好きだって」

「それは大げさすぎですって」

 有紗は少しうれしそうに頬を赤くする。けれど、それは嘘なんじゃないかと、一瞬思ってしまった。そんな自分がどうしようなくて、嫌になる。

「じゃあ、これであたし失礼しますね」

「あ、ちょっと待って! これから予定ってあったりする?」

 そう言われて、思い返してみる。

「いえ、もう予定ありませんけど」

「そう、よかったわ。ならこれから私と飲まない?」

「いや、あたしお酒はちょっと……」

 朝子は酒豪──というほどではないが、少なくともちょっと酒をたしなむ程度でしかない有紗にとっては、とてもついていけるような相手ではない。

「別にお酒じゃなくたっていいのよ。とりあえず、いつものお店に予約かけといたから。よろしくね」

 ちょ、ちょっと──と有紗は朝子を呼び止めた。だがそんな声はすでに届いていなかった。よろしくね、と言った直後で、即座そくざに電話を切ったのだ。

「いつもの店って……」

 たしか、モンブランというバーだ。

 たまに朝子や達也と一緒に飲みにいくことがある──つまりは馴染みの店というものだ。

 ちょうどここから距離は近い。およそ五分ほどでたどり着けるほどだ。



 五分。それぐらい経って、ちょうど店の前に着いた。

 左腕の腕時計を見ると、六時。五時ごろから暮れてきている。あと少しのところで、完全な夜になるだろう。しかしこの街のことだ。まだまだにぎわうだろう。

 有紗は周りに峰子がいないか、確認したあとで店に入った。

 内装はこじゃれた古風なバーだった。バーテンダーのほうも、壮年期を迎えようとしている男性で、絶妙に背広が似合うのだ。そこにいて初めて、ここがバーなのだと認識できるくらい、バーテンダーという者は必須なのだ。

 有紗は再び腕時計を見る。

「まだ、こないなぁ……」

 店は狭い。逆にこの狭さが心地いいのだ。とにかく狭いからこそ、誰かと待ち合わせの際に見つけやすいのだが。

「あの、ここに峰子さんから予約の電話、入ってませんか?」

 有紗はグラスをみがいているバーテンダーに話しかけてみた。

「ああ、入ってきたよ。まだ来てないみたいだけどねぇ」

 そう言われて、「そうですか」と少し不安を胸につのらせながら、案内された席に座った。

 そこで携帯を出す。暇つぶしに、と検索アプリを開いた。そこには少し気になる記事があって、有紗はタップした。


 画面に大きく、


「顔無し連続殺人事件」


 と大々的に見出しが表示されている。


 とにかく謎に包まれた、殺人事件。テンプレートだ。これは、ここ最近、この横浜の街で起こっている殺人事件で、昨日の朝、死体が発見され二人目になった。それで、連続殺人事件。

 その事件にともなう連続性──つまりは二件の共通点というのは、顔がなくなっていること。被害者の顔の皮が無くなっているというものであった。しかし、身元の隠蔽のためではないらしい。遺体にはいくつも身元が判るようなものがあって、結局、顔の皮を剥いでいることの理由は不明なのだとか。

 あとは、この記事によると『ある名家の分家筋』と書かれている。当然だが、名前は伏せられている。有紗はこの記事をさらりと読んだだけだが、あまり大ごとにはなってほしくないと思った。


「あ、有紗」

「え……」


 突然、背後から有紗という名前を呼ばれた。聞き覚えのある声だ。若干低い、男性の声。

 背広姿。黒を基調とした背広を着ている男性。その男性は大学で一緒で、今日喧嘩をして、あまり顔を見たくないと思っていた相手。


「……なんで、おまえここに」

「な、達也こそ」


 どうやらお互いに状況をのみ込めてないらしい。

 けれど、二人が理解するまでの時間はそれほど要することはなかった。

 心当たりが、あるからだ。


(朝子に……)

(朝子さんに……)


 騙された、あるいははめられた、とでも言うべきか。つまりは彼女の手のひらで踊らされてしまった、ということだった──。


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