第5話

 有紗は朝のおよそ三時ごろに八神家へ訪問していた。

 訪問、というよりも、殴り込みという表現が正しいだろう。もしかしたらそれは表現ですらないのかもしれない。

 有紗はひどく怒っている。それこそ耳を赤くさせながら、少し苛立いらだちを感じ、拳を強く握りしめてもいた。

 これまでに有紗はあまり誰かに対して怒ったことはなかった。それは有紗が優しいから、という単純な理由ではない。いや、これこそ単純明快な理由なのかもしれない。

 ただ単に有紗は『誰かのために怒るなんて、ただめんどうくさい』と思っていただけ。そこに優しさなど少ししかなかった。有紗はもともと冷めていた。昔は誰かと関わる、なんてことはしなかった。

 でも。そんな有紗のなかに建つ頑丈な壁を壊した者が一人いた。その一人によって、水川有紗という人間の人生は派手に路線を変えた。

 有紗はバスから降りて、八神家の門の前に立った。そこでしばらくしていると、


「あら、有紗ちゃん」

「どうも、朝子さん」

「ごめんね。達っちゃん、あまり大学行ってなくて」


 達也のいない場所では朝子は『達っちゃん』と呼んでいる。そうやって略称でちゃん付けをするあたりは、やはり近所のおばさんと似た気質なのかもしれない。

 それでも、朝子にとっては愛称である。


「いいえ、大丈夫です。今からちゃんと話し合いをするので」

「……なるほどね。わかったわ、さあ、どうぞ」


 朝子は門を開けて有紗を通した。有紗は遠慮なく敷地に入り、本家ではなく離れのほうへとつま先を向けた。

 それで五分ほど経ったあとで、離れのほうに着き、いつも通りに不用心に開けてある扉を開けて、中に入った。

 有紗は本丸──つまり八神達也の自室の前に立った。

「ごめん達也、ちょっと入るね」

 と、感情をあらわにしないスタンスで達也の前に現れた。

「────」

 そして有紗は、たった数秒のうち、言葉を発することができなかった。自分のうちにある言語を鈍器で壊されたかのような、そんな衝撃を受けたためだ。


 その姿──いや、その光景は有紗にとってどれほど美しいものだっただろう。


 八神達也という人間の繊細な美しさ、とでもいうべきか。たとえ有紗が男であれ女であれ、この光景を美しいと、尊いと思うことだろう。

 少々、おおげさかもしれない。でも、有紗にとっては脚色きゃくしょくなどされていない、新鮮な事実だった。


 八神達也の異常なまでの肌の白さ。長年、ずっとその流麗な髪を保っているという事実。その髪が少し伸びているせいか、どうしても女性に見えてしまうという幻覚。

 誰かが思うよりずっと繊細せんさいな、ガラス細工でできた黒い瞳。


 その横顔が有紗にとっては魅力の財としか思えない。


 まるで人形。有名な人形師が自身の生涯しょうがいをかけてでも作り上げた、史上最高傑作。


 とにかく有紗にとってみれば、それは男、女などの性別関係なく、感動できる数少ない代物なのだということだ。


「どうしたんだ、有紗」

「……いや、なんでもない」有紗は少し弱々しいような声をあげて、「それよりね、なんで今日来なかったのよ!」調子を取り戻したふうに声を荒げた。

「今日は少し、気分が悪いんだ」達也は言った。

「気分が悪いって……」

 有紗がこうやって理由を問いつめるとき、達也がお決まりで言うセリフだ。

 その言葉にさらに苛立って、有紗は眉を真ん中に寄せた。

「いつもいつもいつも……気分が悪い調子が悪いって……」有紗はとうに自分を制御できずにいた。「そんなにからかって面白いの? ねえ」

「……面白くはないぜ」

 達也はなんてことはないと言わんばかりに緑茶をすすったあとで、言った。

 しかしそれがとどめ──つまり、有紗の逆鱗げきりんにふれたということだったのか──有紗は鬼のような形相ぎょうそうで達也を見つめて言った。

「もういい。好きにして」

 

 ──だが、それまでだった。


 結局のところ、有紗は諦めた。実際は諦めていないけれど、この場で自分が暴れだしても仕方ないうえ、迷惑をかける。それならば早々に立ち去ったほうが賢明けんめいだろうと判断した。

 有紗は離れをあとにし、門を抜けた。そこにはちょうど朝子がいて、「どうだった?」と訊いてみた。が、有紗は、


「すみません……ご迷惑おかけして」


 涙いっぱいにためた瞳を隠すため、顔をうつむかせてそう言った。その動作に朝子は不穏を感じ、眉をひそめ、顔をうつむかせる。

 そして有紗は八神家から立ち去った。


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