第4話

    十月二十二日



 朝。およそ十時ごろ。

 八神達也こと俺は大学の講義を気まぐれでさぼり、こうやって自宅の狭い畳の部屋で、ゆっくりと今川焼と緑茶をたしなんでいる。

 もちろん、こんなことをしているとそのうちに有紗がやってくる。だが言い訳をするつもりもない。そもそも言い訳などしても、有紗に通じるわけがない。


「達也さま。本家の前に男性が立っています」


 男性……?

 有紗が来るにしても早い時間だし、たとえ女性が来ても首をかしげてしまいものだが、男性が来るとは予想外だ。

 男性で、家に招き入れるほどの知り合いはいない。

「追っ払っておけ」

「すでにそういたしましたが──なかなかにしつこい方でして」

「……わかった。入れておいてくれ」

「承知しました」

 俺が子供のころからの世話役──朝子あさこはその場から立ち去った。

 朝子は今年で四十代を迎える。彼女が二十代後半のころから達也に世話をしていた。今ではもう結婚していて、子供はもう高校生になろうとしている。子育てのため、朝子は仕事を休むことがあったが、三十代後半になってくると、子供が自立したためか、休むことはあまりなくなった。

 俺も朝子には深く感謝している。なにせ俺にとっては育ての母親、ともいえる。

 俺の母──八神奈美やがみなみはそれほど俺に干渉かんしょうすることはなかったのだ。しかし、母は俺に家族としての愛情がなかったわけではない。むしろ、誰よりも愛していただろう。だがその想いは俺に伝わること機会はなかった。簡単に言えば母が不器用だからだ。そのため伝わりにくい愛情表現だった──たとえば深く心配しているのを隠すため怒るなど──。

 俺にとっては、惜しいことをしたと思っている。母が亡くなって、やっと母の不器用な愛情表現の意味に気づいたのだ。そのとき俺は胸中きょうちゅうで、深く感謝していた。


「失礼しますねー。いや、にしても本家じゃなくてわざわざ離れに住んでいるなんてね」


 気のいい若い男性らしき黒い物体が部屋に入ってきた。


「知らないな。なんて名前だ?」

「ああ失礼。僕は京極了きょうごくりょう。気軽に了さんでいいですよ」


 その京極了という黒い影は人当たりの良さそうな、優しい笑顔を浮かべてそうだった。


「じゃあ京極さん」

「……はあ。はい?」

 一旦、畳の上に座ったあとで、落胆らくたんするように人型の黒い物体は肩を落とした。

「俺に何の用だ?」

「いえ、浮気調査に」

「──なあ、あんたアホなのか、それともただの天然なのか」

「いえ、どちらでもありませんけど」影は不思議そうに目を大きく開ける。「僕は完璧頭脳派っていう感じなんで」

 それを聞いて、ため息を大きく吐いた。

「浮気調査ってことは、有紗が頼んだのか」

「げ。なんで」

「げ、じゃないぜ。あのな、普通は浮気調査のときは尾行なりなんなりして、秘密裏に調査をして、そして依頼人に証拠写真だのを見せる。そういうもんだろ」

 ははあ、と何やらペンとメモ帳に手を伸ばして、書いている。

「ま、いいじゃないですか。僕は君の真理を聞きたいんです」

「真理?」

「ええ。あなたは本当に浮気しているんですか」

「……」

 俺は少し黙りこんだ。結果として浮気はしてない。だが、そう言ったとしても無駄だと判断した。

 言ったとしてもきっと、この影はその裏付けをするために、もっと聞き込んでくるに違いない。

「どうなんです?」

「──してない。するわけ、ないだろ」

「……それはまた、どうして?」

「言わなきゃいけないか?」

「言わないといけないんです」

 影は俺に強く念を押した。俺は小さくため息をついて、

「ほっとけないんだ。あいつはどっか危なっかしい。いつか、どこかで事故に遭うんじゃないかって。だから、あいつを放っておいて、そんなことできるわけがない」

 そう、はっきりと俺は口にした。頬が熱くなるのを感じる。やはり恥ずかしい、と俺は後悔する。しかしそんな姿を見て影は嬉しそうに笑っていそうだった。

「よかった。ならあとはもう一回、達也くんが彼女さんにそう言えばいい。それで問題解決だよ」

 それから俺は緑茶をぐいっと飲み干した。それで影は立ち上がって、

「あと達也くん」

「ん?」

「君、彼女さんの言うとおり、可愛い顔してるね」

「はあ?」

「鏡で見てみたらどうですか? マジで女の子っぽい顔してますよ」

「……知らね」

 影は俺に笑いかけていそうだった。

 けれど俺にその笑顔は届くことはない。

 俺の視界に映る彼は、〝影〟以外の何者でもないのだから。

「鏡、ねえ」

 鏡ならタンスのそばに置いてある。もともとここは世話役である朝子の部屋だ。それでなぜ俺はここにいるのか、というと、俺は家族を失い、ありえないものが見え、絶望に浸っていた。だから本家である洋館のほうには戻りたくなかった。そこで、家族の残骸ざんがいを思い出してしまう。いや、残骸とは言えないのかもしれない。──化け物、とでも言えばいいだろうか。

 だから俺は本家の離れ──つまりは和風の屋敷に住み着くようになった。

「えっと、鏡鏡」

 俺は立ち上がって、化粧台に張ってある鏡を見た。

「……だよな」

 そう簡単に変わるわけない、と俺は強く自分に言い聞かせた。どうしようもない事実を、そんな簡単に改変することはできない。俺はちゃんとそれを理解している。

 影。どうあがいていても、自分という姿がそこにはない。見えているのは、自分の姿とは異なる異次元の自分。黒くにじんだ全身は、まるで大量の虫がうごめいているかのように思えた。

 突然、俺の喉もとに汚物がせりあがってきた。その激しい嘔吐感おうとかんをおさえようと必死になり、口元をおさえた。その、あまりに理不尽な衝動と戦うこと二、三分。全身から脂汗あぶらあせが噴き出すが、それは鏡には映らない。

「……可愛い、なんてものじゃない」俺は少し枯れかけている声でそうつぶやいた。「──こんなの、化け物に他ならないだろうが」



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