第108話 嶋崎真柚の失恋

「うぐっ!」


軽い食事の後、10分もたたないうちに、胃に不快感を覚え、酸っぱいものが込み上げてきた。


「真柚!?」


心配そうなお兄ちゃんの声にも答える余裕もなく、急いでトイレに駆け込み、せっかく取り入れた栄養を、私は全部戻してしまった。


「ゲエェッ。ゴホゴホッ。」


私、なんて無駄な生き物なんだろう…。

体も心も空っぽになりながら、私はただ苦しさに涙を流していた。


魁虎に芽衣子さんを襲わせるという、卑怯な策略を立てた私だったが、計画は筒抜けで逆に返り討ちに遭う結果になった。


魁虎は、芽衣子さんによって身も心もズタボロにされた上、芽衣子さんの師である、鷹月勇夫の手によって、キックボクシングの修行の為と称して、島に送られる事になった。

期間は3年間と言う事だが、もしかしたら、一生そこで暮らす事になるかもしれない。


そして、私は、芽衣子さんに強烈な往復ビンタをもらったものの、魁虎に撮られた写真の画像を削除してもらい、結果的には被害者として、救われる事になった。


しかし、その場にいた全員の私を見る目が、言っていた。


“お前は有罪だ”と…。


「頼むからっ、彼女が必死の思いで守ってくれた君のその手を、二度と他人を傷付けることに汚さないでくれっ!!」


矢口さんの泣きそうな顔が忘れられない。


それを聞いて分かった。


矢口さんが、芽衣子さんをどんなに大事に思っているか。その彼女を危険に晒す事にどんなに葛藤があったか。


そうまでして、救ってくれようとした私自身が、彼女を傷付けようとした事が、どんなに

矢口さんを傷付けたか…。


彼に絶縁宣言をされて、泣き崩れる私をお兄ちゃんは、涙ながらにずっと宥めてくれていた。


「真柚、今までちゃんと向き合ってやらなくてごめんな。

もう、俺の為に可愛い妹を演じなくてもいいし、魁虎に合わせる為にわざと悪ぶらなくてもいい。

これからは、お前の、いいところ、悪いところ、どっちも受け止めるようにするから。

少しでもいい方向に進んでいけるよう、一緒に考えていこう。」


その言葉は嬉しかったけど、私にお兄ちゃんにそこまでしてもらう価値があるのか、私には分からなかった。


その後、すぐに学校から連絡があり、自主退学を勧められた。

学校側としては、ずっと登校していない上に、不良と付き合っているとか、カツアゲや援交をしているとか、校内で噂が流れていた為、生徒と保護者の不安を取り除く為には、私の退学は必要な措置と考えているようだった。


確かに魁虎と付き合っていたけれど、高校入学後は脅されてのものだったし、カツアゲや、援交は事実無根だったが、私にはもうそれを抗弁する気力もなかったし、噂の広まった校内でうまく高校生活をやっていく自信もなかった。

私は、ただ学校側の要求を受け入れるしかなかった。

最後の日は、友達とよく知らないツインテールの先輩が見送ってくれた。


娘が高校を自主退学したのがショックだったのか、母は、軽いうつ病になり、働きながら心療内科に通うようになった。


お兄ちゃんは、バイトと学校で忙しい中、

私とお母さんのケアまでしてくれている。


ただでさえ、大変な状況なのに、私はその辺りから、食べては吐いてしまうという事を繰り返すようになった。


トラ男に触れられた自分の体が汚くて…。


芽衣子さんを汚そうと策略を立てた醜い自分の心がおぞましくて…。


自分の顔を体を見る度に、自分のした事を省みる度にえずいてしまうのだ。


栄養不足でフラフラし、時には病院で点滴まで受ける私は、お兄ちゃんにより一層心配をかけてしまっている。


好きな人には、これ以上ないぐらい軽蔑され、嫌われ、学校にも行けず、家族に迷惑と負担しかかけない自分が生きてる意味を私はもう見出だせなかった…。


このまま、食べ物を食べずにいれば、死ねるのかなとさえ思い始めたある日、

お兄ちゃんが誰かからの電話を受けて、躊躇いがちに私に話しかけてきた。


「真柚。南さんが、キックボクシングのジムを開業したらしくて、無料の見学会に来ないかって言われてるんだが、お前、どう…する…?」


私は目をパチクリさせた。

今の体の状態で、キックボクシングやるなんて、無理なのは、お兄ちゃんも分かってる筈。なんで、そんな話を持ってきたのか、と不思議に思ったとき、お兄ちゃんは言いにくそうに続けた。


「その…。京太郎と、芽衣子さんが受付の仕事をしているんだって。」


「!!」


絶縁宣言をされた身で、普通ならもう矢口さんと芽衣子さんに会う機会はない。


体験会のイベントなら、最後にもう一度だけ、会うことができるかも…。


「い、行く!行きます!!私もぜひ参加させて欲しいって南さんに伝えて?」


私はお兄ちゃんに勢い込んで言った。


短期間だけ、生きたいという欲求が生じた。


流動食のような、普通の食事とは程遠いようなものであれば、えずきにくいと分かったので、なるべくそれで栄養をとるようにした。


長くて、しばらく手入れも碌にしていなかった髪もバッサリ切った。


お兄ちゃんも驚くぐらいの回復ぶりを見せた私は、お兄ちゃんに付き添われ、体験会に出かけていった。

         *

         *



「ふぅ…。」


準備体操を始めて、パンチや、キックの型を教わり、サンドバッグを使ったトレーニングに入ったところで、私は早々にバテてしまい、トレーニング場の隅っこで休ませてもらってた。


お兄ちゃんは、心配して付き添ってくれていて、バイト先からかかってきた電話も無視しようとしていたが、私は大丈夫だから出てと頼むと、通信環境のよい場所から電話をしながら、こちらを心配そうにチラチラ見ている。


私は、トレーニング場の壁に寄りかかって座り込むと、南さんや、他のトレーナーさん達が、体験会に来たお客さんに、パンチや、キックの見本を見せているところを見学していた。


やっぱり、トレーナーさん達は繰り出す鋭いパンチやパンチやキックは型がとてもキレイだ。

しかし、あの時に芽衣子さんが、魁虎に打ち込もうとしたキックは、それとは比べ物にならないぐらい破格の強さと美しさがあった。


やっぱり特別な人なんだなぁと思う。

私なんかが逆立ちしたって叶う相手じゃない。


受付の矢口さんと、芽衣子さんに目を遣ると、二人は何やら睦まじく話しながら、パソコンをいじっている。


さっき私が現れた時、矢口さんは芽衣子さんを守る為に、芽衣子さんは矢口さんを守る為に、警戒してた。

でも、お互いに相手を想い、守るのに必死過ぎて、相手が自分の事を想っている事に気付いてないの。


あんなの、凄すぎて誰も入り込めるワケない。


色々画策したけど、結局私のした事は、二人の絆を深めるだけだった。


ホント、バカだったな…。


私は、首に掛けたタオルで汗を拭く振りをして、涙を拭った。


許される事はないと思うけど、最後に矢口さんと芽衣子さんに謝る事ができてよかった…。


挑発的な態度とっちゃったけど、私が元気でやってるように思ってくれたかな?


今の私の状態を、絶対に二人には知られたくなかった。


今日の目的を達成して、今まで無理した分の疲れが一気にやってきて、脱力していると…。


「あらら。へばってるわね。大丈夫?」


南さんが、タオルで汗を拭きながら、こちらにかがみ込み、話しかけてきた。


「あっ、はい。すみません。せっかく誘って頂いたのに、脱落しちゃって…。」


「ふっ。いいのよ。あんた、さっき、頑張って強がってたもんね?」


「えっ。」


「お兄さんから、聞いたわ。本当は、あんた、食べ物を受け付けなくて、立ってるのがやっとなんでしょ?無茶するわね?」


「…!!」


お兄ちゃん、言わないで欲しいって言ったのに…!

電話をしている兄の方を思わず睨み付けた。


「坊やと芽衣子には知られたくないんでしょ?言ってないから、安心して?」


「……!なんで…。」


さっきから、なんで、南さんは、私の事を理解してくれて、配慮してくれるんだろう?


南さんは、芽衣子さんの先輩弟子で、芽衣子さんを傷付けようとした私の事を心底怒っていたはずなのに…。


不思議そうな顔をする私に、南さんは苦笑いを向けた。


「アタシ思うのよね。“真っ直ぐでいる“ことも、ある種の才能なんじゃないかって。


あんたの気持ちも分からないではないのよ。芽衣子と初めて会ったとき、才能に恵まれて、鷹月師匠に可愛がられているあの子に嫉妬して、意地悪した事もあったから…。

でもねぇ、あの子のあんまり真っ直ぐさに、

いつの間にか絆されちゃって…。

あの子が大事なものは、今も昔もたった一つだけ。ブレないから周りも応援したくなっちゃうのよね。」


「やっぱり…、芽衣子さんは、矢口さんの幼馴染みの『めーこ』さんなんだね…。」


「…!!あんた、薄々気付いてたの…。」


私の言葉に南さんは目を丸くした。


「だって、芽衣子さんの矢口さんへの想いは、高校入ってから数ヶ月の付き合いにしては、深すぎるもの。

それに気付かないなんて、矢口さん、鈍感過ぎる。」


「あんた、ソレ、坊やに伝えるつもり?」


「まさか!いくら私がバカだからって、それを伝えたら、どうなるかぐらい想像つくよ。今でさえ、深い二人の絆が更に強固に結ばれるところを目の前で見せつけられるだけ。

余計惨めになる…だけ…。」


私は抱えた膝に、顔を突っ伏した。


あの人達の綺麗な優しい空間には立ち入れない。

薄汚れた私は弾き飛ばされるだけ…。


南さんは、私の考えなど全てお見通しというような意味ありげな微笑をうかべて、優しい口調で語りかけてきた。


「あんたは、確かに芽衣子にはなれないかもしれない。坊やのパートナーにはなれないかもしれない。でも、それで全て終わりなワケじゃない。

今まで食べ物を受け付けず、衰弱していたのに、今日、芽衣子と坊やに会って謝るために、少しずつでも栄養をとり、ここまで回復したこと。心配をかけないように、

強がって元気に見せかけていたこと。

それはあんた自身の頑張りで、強さじゃなかったかしら?

あんたは自分自身の道を歩いて行けばいいと思うわよ?」


思いがけず、温かい言葉をかけられたせいか、今の率直な疑問を投げかけてしまっていた。


「汚れて醜くなってしまった私でも、まだ生きていることに価値があるの…?」


「さぁ…。その答えは、もしかしたら、今は

会えない誰かが持っているかもね…。

あんたは、一度道を踏み外してしまったけど

同じように、道を誤ってしまった誰かの気持ちを分かって、寄り添ってあげることはできるんじゃないかしら?」

    

どん引きしてしまうような私の問いに、南さんは深い哀しみを秘めた眼差しで、答えてくれた。


「きちんとごはんが食べられるようになって、フラフラせずに、自分の足で立てるようになったら、強くなる方法を教えてあげるわよ?」


南さんは、ファイティングポーズをとり、魅惑的にウインクをした。


「ふふっ…。」


私はそんな南さんに笑いかけようとして…、失敗した。


「うっ。ううっ…。ふぐっ…。」


芽衣子さんみたいに強く綺麗な人にはなれない。

純粋に一途に矢口さんを思えたあの頃にも戻れない。

それでも、生きていれば、いつかはそんな私でも、誰かの役に立てる時が来るのだろうか…。


私はタオルで泣き顔を隠しながら、矢口さんと過ごしたかけがえのない時間を思い出していた。


いつかは、私もそんな思い出を誰かに渡してあげれる人になれたらいい…。


心の底から祈るように…、そう思った…。














*あとがき*


真柚ちゃん、これから、しばらくは地獄です。想い人の京太郎に、失恋、絶縁された上、(実質的な)退学、厳しい家庭環境という状況に、

正気に返ってから、自分のやってきた事を思えば、自己嫌悪や罪悪感に苛まれ、苦しいでしょうね。


芽衣子ちゃんのようには気高くあれなかった彼女ですが、だからといって、一度道を誤ってしまったから、死ねばいいのかというと…。


真っ直ぐな芽衣子ちゃんと京太郎くんとは別に、あーちゃんという、男女にとらわれない清濁併せ呑む価値観のキャラの存在が、彼女にとって蜘蛛の糸的な救済措置になればと思いました。


自分をどれだけ大切にしてくれるかで人の

価値を推し測って、京太郎を傷付けてしまった彼女ですが、自分自身の価値を見失ってしまい、今度は自分が人を大切にすることで

それを取り戻してくれたらと切に願います。


彼女についてはざまぁというより、

自業自得の結果で物足りなさや、モヤモヤを感じてしまう方がいらっしゃったら、本当に申し訳ないです。m(_ _;)m💦


次話は、嘘コク5人目最終話、京太郎くん視点のお話になります。

どうかよろしくお願いいたしますm(__)m

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