第68話 神条桃羽の失恋
「あれ?今日も神条さん図書当番?」
もう一人の図書当番の後輩に返本作業をお願いして、カウンターの席についていた私は思いがけない人に話しかけられ、目を丸くしました。
茶髪で優しそうな瞳の男の子が目の前に立っています。
「や、矢口くん…。」
この間は、偶然昼休みに会えたけど、理不尽に傷付けて、嫌な思いばかりさせてしまった私が、矢口くんとお話しできる機会はもうないものだと思っていました。
「え、ええ…、今日は当番の人が体調不良で早退したので、私が代わりに…。」
動揺しつつ、答えると、矢口くんは、苦笑いしました。
「そうなんだ。神条さん、ホント真面目で偉いね…。」
同じことを他の人から、「ノリが悪くて、融通が利かない。」そんなニュアンスで、
バカにされるように言われることは多かったです。余計な仕事を回されて、都合のいいように扱われることも少なくなかったです。
でも、矢口くんは、同じように割りを食ってしまいがちな者同士の共感を込めて、それでも曲がれない自分を認めてくれるようなそんな温かみのある言い方をしてくれました。
そう。彼のそんなところが、私は…。
「大変なとこすまないけど、これ、返却お願いします。」
「あっ、はい。」
一昨日借りた、青山太郎の本を差し出され、我に返った私は、慌ててバーコードリーダーで本のバーコードを読み取り、返却処理をしました。
「あ、ありがとうございました。」
「こちらこそ、ありがとう。また、ちょくちょく本借りに来ることがあると思うけど、その時はよろしくね?」
「あっ、はい。調べたい本とかあったら、何でも言ってくださいね!」
「ありがとう。」
彼は、手を振ってカウンターを離れました。
一年前、選書を通じて交流していた時のような自然な笑顔を浮かべて…。
無意識に、返却が終わった本をパラパラとめくってしまうと、小さな紙の感触を探り当ててしまい、心臓が跳ねました。
震える手でそのメモを広げると…。
「以前は選書サービスありがとう!
神条さんも、本をずっと好きでいてね。
本の仕事に就けるように応援してます。」
差出人の名前はなかったけど、少し左上がりの筆跡は見間違いようもなく、矢口くんのものでした。
男子と揉めていたところを矢口くんが助けてくれた事。
選書を通して、矢口くんとメモのやり取りをしていたときの、楽しくて、わくわくするような時間を過ごした事。
自分から告白したにも関わらず、矢口くんに勝手に失望して、傷付けてしまった事。
矢口くんとの今までの思い出がまざまざと脳裏に蘇り、胸に込み上げてくるものがありました。
「や、矢口く…!」
思わず、立ち上がって、図書室を出ようとする矢口くんを呼び止めようとしたとき…。
図書室に入ってこようとする女生徒と行き合い、矢口くんが素っ頓狂な声を上げました。
「め、芽衣子ちゃん?」
「きょ、京先輩?」
矢口くんと鉢合わせした、とても可愛い茶髪女生徒は一昨日お会いした氷川さんでした。
しかし、一昨日とは、二人の雰囲気が違います。
「き、昨日は家に来てくださってありがとうございました。」
「い、いや、こちらこそありがとう。」
そう言うなり、二人は真っ赤になり、恥ずかしそうに目を逸らしました。
まるで、二人の間に何か決定的な出来事があり、それを思い出して照れているかのように…。
返本作業をしていた後輩の子も、自習スペースにいた、4、5人の生徒も、皆二人のやり取りに興味津々で注目しています。
しかし、矢口くんと氷川さんはそんな事に全く気付く様子もなく、なんとも言えない二人だけの空間を作り出しています。
仲睦まじい二人の様子を見て、私の胸は今更ながらにズキズキ痛み、私は気付きました。
わたし、神条桃羽は、今やっと失恋したのだと…。
矢口くんへの想いは、もう薄れてしまったと思っていましたが、違いました。
ずっと胸の奥にあり、蓋をしていただけだったのだと。
取り返しのつかない事態になってやっと分かりました。
今まで足を踏み入れなかった図書室に来たのも、本にメッセージを残してくれたのも、私に自然な笑顔で笑いかけてくれたのも、
矢口くんが私との嫌な思い出を過去のものにすることができ、気持ちの整理ができたからなのだということが…。
心境の変化はおそらく氷川さんによるもの。
氷川さんが矢口くんに真摯に向き合い、彼の過去の傷を癒やしたのでしょう。
ぐるぐる自分勝手に悩みながらも何もしないでいた私に泣く資格はありません。
私は激しい胸の痛みに堪えながら、お似合いの二人の様子を見守りました。
「す、少し遅れるってメールもらったけど、図書室の用事だったんだね。」
「あ、は、はい!京先輩に教えてもらった本を返そうと…。京先輩も、図書室に用事だったんですね。え、えっと、この後すぐ屋上に向かおうと思っていたのですが、ここで少し待っていて頂いてもいい…ですか?」
「あ、ああ。いい…よ?じゃあ、ここで、本立ち読みしながら、待ってるね。」
「は、はい。ま、待ってて下さいね?」
そして氷川さんは、入口付近にあった新刊コーナーにあった一冊の本に目を留めると、
手に取り、パラパラとめくりました。
そして軽く頷くとその本を小脇に抱え、そのままカウンターの方へ向かい…。
そこで、目が合い、初めて私がここにいる事に気付いたようでした。
「か、神条先輩!こ、こんにちは。今日、当番だったんですね?」
「ふふっ。氷川さん、こんにちは。貸出ですか?」
私は精一杯の笑顔で彼女に応対しました。
「あっ、はい。あ、あと、返却もお願いします…。」
氷川さんはアワアワと、手提げ袋を探り、ハードカバーの本をカウンターに差し出しました。
返却手続きをしながら、ひそっと氷川さんに
囁きました。
「一昨日は氷川さんに余計な事をいってしまったかと、気を揉んでいたのですが、どうやら杞憂だったみたいですね?
見ましたよ?さっきの矢口くんとラブラブなやり取り。」
「え、ええっ?」
いたずらっぽい笑みを浮かべてそう言うと、氷川さんの顔は一気に真っ赤になりました。
「いや、その…、一昨日はお話聞かせて頂いてありがとうございました…。矢口先輩の、その…、思春期な部分ですが、私、嫌じゃないことが分かりました。」
氷川さんは茹でダコのようになりながら、
ゴニョゴニョ呟き、そう教えてくれます。
ああ、やはり…。
二人は男女の仲になられたんですね。
私が乗り越えられなかった大きな山に果敢に挑み、乗り越えた彼女は、とても晴れやかな笑顔を浮かべていて、それをとても眩しく感じました。
そして、自分に何が足りなかったものが分かりました。
私は、あの時、私が抱きつかなかったら、今でも矢口くんと仲良くできていたのではないかと思ってしまい、今まで後悔していたのですが、それは違いました。
性的な事じゃないにしろ、矢口くんに理想と違う点を見付けてしまったら、私はどちらにしろ、勝手に失望して離れて行っていたような気がします。
私がいけなかったのは、目の前の相手を理解して歩み寄りをするという事をしなかった事だったんです。
自分と違うところを持った相手と、ちゃんと向き合い、受け入れる事、それが何より大事な事でした。
氷川さんも一昨日の時点では、性的な事に免疫がなく、私の話に戸惑っているようでした。
だからこそ、この事で、もし氷川さんが矢口くんから離れてしまうことがあれば、私は矢口くんを間接的にまた、傷つけてしまうのではないかと危惧していました。
でも、氷川さんは、戸惑い、悩みながらも
彼と向き合う覚悟をし、二人で今の関係を作り上げたのでしょう。
打ちのめされ、胸は切り裂かれるように傷んでいましたが、幸せそうな二人に水は差せません。
泣きたい気持ちを堪えて、
私は目の前で恥ずかしそうに微笑んでいる勇者に、にっこりと笑いかけました。
「それは、よかったですね。私は氷川さんと矢口くんを尊敬しています。お幸せになって下さいね。」
いつか、この痛みがなくなって、また、大事にしたいと思える人が現れたら、今度は間違えないでこの二人みたいな素敵な関係を築きたい…。
噛み締めるようにそう思いました。
「あ、ありがとうございます。あと、これを…。」
「ああ、貸出でしたね?」
そう言って、カウンターに置かれた大型本のタイトルを見て絶句しました。
『図解!人体の急所』
表紙には急所を蹴られ苦悶の表情を浮かべる人の生々しいイラストが描かれています。
震える手で、氷川さんの図書カードと本のバーコードをスキャンします。
「ひ、氷川さん、このような本も借りられるのですね。意外です。」
「あ、ええ…。最近使う事が増えましたので。」
氷川さんはチラッと矢口くんの方を見ると、照れたように頬を赤らめました。
な、何故そこで矢口くんを見て顔を赤らめるんですか…!?
まま、まさか、そういう方面でご使用を?
お、お二人で、一体どんなSMプレイを…!!
上級者過ぎます!!!
すいません、前言撤回です!!ダメです。やっぱり私ごとき小娘には一生恋愛なんて出来そうもありません!!!
「神条先輩。色々とありがとうございました。」
「ここ、こちらこそ。ま、また図書室に遊びにきき、来て下さい…ね?」
私はガタガタと震えながら、お互いに顔を赤らめて寄り添い、図書室を出て行く矢口くんと氷川さんの二人を見送ったのでした。
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