番外編3 ナノとお兄と勉強と

 *これは本編とはあまり関係がありません。よって本編を読んでいなくともさして問題はありませんが、つい。ほんのつい、伏線を入れてしまっているかもしれません。ご了承ください

 *この物語は一話開始の話です





 ――――素直になれない妹。


 彼女のことを一言で言い表すならばこれに限るだろう。


 家族とはなかなか名状し難い存在である。辞書的な意味では埋めきることができない機微な距離感、隠しきれないほど詰め込まれた箱庭。心強い支えを感じると同時に窮屈な息苦しさもときに感じてしまう。

 そんな存在を受けとめられていない人物が一人。


 そうなると或いはこう表すこともできるかもしれない。


 ――――家族という存在に戸惑いを感じてしまう少女。





 鳩羽菜々野はとばななのの朝はどちらかと言えば早い。

 休日であってもしっかり朝6時には布団から出る。しかしその足取りは決して軽やかではない。洗面所で顔を洗っては鏡に映る自身の目ボケ眼と見つめ合う。軽い朝食を一人で済ませ、そしてため息を吐きながら勉強机に向かう。


「はあ、勉強しないと……」


 自室の壁には一枚の半紙が貼られている。紙には始筆終筆が利いていない文字でこう書かれている。



 ――――『受験』



 そう。菜々野は今、受験期なのだ。

 中学三年生。つまり高校進学には必須と言える受験を控え、志望校に受かるため日々の勉強はスマホを触る以前のルーティーンとなっている。


「今日は本気で数学やんないと。あ、その前に模試の復習しないと。でもそれって意味あるのかなあ。模試の問題ができたって本番じゃあ意味ないし。初見の問題が解けるような勉強しないと」


 そう言って菜々野は散らかった机に参考書をどっさりと積む。その中の一冊を開いては右手にシャーペンをもち、黙々と手を動かす。


 しかし一時間後。その手は完全に静止してしまう。疲れてわけでも飽きたわけでもない。


「はあ。全然分かんないよ……。さっきからその手の問題やってるけどほぼ解説見てるだけだし。意味なっ」


 菜々野はぶっきらぼうに参考書を閉じ、持っていたシャーペンを机に落とす。カシャンと響くプラスチックの衝突音が菜々野の中の劣等感をつつくようだった。

 鳩羽菜々野は勉強が嫌い、というより勉強が得意ではないのだ。


 彼女は自分の短所を一番に知っている。

 一に、身長は143cmとほぼ小学生と見間違えられてもおかしくない低さ。

 二に、あれこれを得ようとするあまりに全て空回りしてしまう要領の悪さ。

 三に、頭に血が上るとすぐ出てしまう口汚さ。


 特に二つ目は勉強という領域でいかんなく発揮される。全ての教科にあれこれ手を付けるあまり、一つに懸ける時間と集中力が相対的に短くなってしまう。これが菜々野が苦悩する原因の一つである。


「ちょ、ちょっと休憩……」


 今の自分には集中して勉強できないとかこつけて、菜々野は机の隣に立てられている本棚に手を伸ばす。

 取り出したのは一冊の文庫本。表紙には異国の恰好をした青年がファンタジー模様の風景の中で剣を振りかざしている絵が載っている。いわゆる『ライトノベル』というものだ。

 

 菜々野は創作物をよく好む。漫画、アニメ、ライトノベルはその一部に過ぎない。しかしジャンルは意外にも恋愛モノより、青年心擽る転生モノを多く選ぶ。バトルシーンが菜々野を魅了するが、ページを捲っていると出てくる言葉は、


「……いいなあ」


 羨望のこもった一言だ。いや、羨望というより憧憬に近いかもしれない。

 

 誰かに手を差し伸ばして救うことができるだけの力があれば、と彼女は思ってしまう。それは幼少期からそうであった。


               ○ ○ 〇


 ”シュージ”の怒りはもはや自制心で抑えられないほどにまで達していた。

 傍らに横たわったままの少女を左手で抱える。華奢な体躯はピクリともせず、青ざめた肌、絶え絶えな弱い呼吸を繰り返す様子が、”シュージ”の堪忍袋を刺激する。右手に握っているバスタードソードの刀身は小刻みに震え、目の前に立ちはだかる”ニラマーナ”を睨みつける視線には殺意がこもる。

「ふざけるな! あんたにこの子を好き勝手する権利はない。こんなか弱い年端も行かない少女がこれまでどれほどの痛みに耐えてきたか、あんたには分からないだろ。……だから、俺がお前に教えてやる。この子の痛みを知れ、ニラマーナ‼」

「ハハハ! やってみたまえよ、シュージ君。誰が君に剣術魔術を一から教えたと思っているんだい? 禁術を行使してまで君をこの世界に転生させ、前世で悔いた様を更生する機会を与えたのがこの私なのだよ。まさか師に牙を向ける弟子に育つとは、私としてはとても遺憾だなぁ」

「青は藍より出でて藍より青し、ってことだ。本気でいくぞ!」

 ”シュージ”は少女をそっと地面に下ろすと、固い表情のまま剣を中段に構える。切っ先は、高等魔術の詠唱を始める”ニラマーナ”の喉元に重なる。

 目を閉じ、全ての神経を刀身に注ぐ。そのなかで込めるものは自身の怒りだけではない。”ニラマーナ”に蹂躙された少女の幸せな時間。それゆえに幸福を願う強い想い。

 ここで戦っているのは一人だけではないと自覚し、”シュージ”は師にも知られていない必殺の一撃を放とうとする。体から溢れ出る赤色の光の粒子を刀身に集め、鍔から切っ先へと血色に染まっていく。ただ赤く発光しているのではない。想いが力となり、それが顕現された重みが剣に乗せられたのだ。

 想いの奔流が鋭利な刃と化し、それから放出される熱が”シュージ”の肉体を鼓舞する。

「これが、彼女の痛みだ! 喰らえ‼ ――――《想い憑依せし閃刃トワイライト・フラグメント》‼」

                             

                                    了

              ○ ○ 〇


「……強いなぁシューj……なんでお兄とおんなじ名前なのかはわけわかんないんだけど。でもこういう誰かのために奮闘する主人公がいろんな人を救うんだよねー」


 菜々野は感嘆の声を漏らしながら、最後のあとがきを見ずに本を閉じてしまう。好きな筆者の作品を好んで読んでいるのではなく、完全に中身を重視している読み方だ。

 それほど彼女は『力』に飢えていた。助けられるヒロインではなく、正義を貫く主人公に憧れるのもこれが原因であったりする。


 するとふと、菜々野は何かを思い出したかの如く立ち上がる。

 棚に置かれているアルトリコーダーを剣のように右手で掴み、無地の壁に向かって腰から抜刀する構えをとる。今の彼女には客観視という概念がない。故にこの厨二病の輩がする遊戯はとっても恥ずかしいことなので、あまり真似しないことを推奨する。


「……喰らえ‼ ――《想い憑依せし閃刃トワイライト・フラグメント》‼」


 痛々しい台詞を羞恥心もなく飛ばし、左腰に溜めていたリコーダーを全力で横一閃に薙ぎ払う。


 すると予想外なことに、振り払われた勢いのままリコーダーの頭部菅が遠心力によって分解してしまう。それは壁に対して一直線に飛んでいき、ガツンと大きな音を響かせながら衝突した。

 一瞬の出来事に菜々野は出来事の判別ができなかったが、当たった壁が兄の部屋のに面していることに気付き、刹那に顔が青ざめてしまう。どうやらようやく客観を取り戻したようだ。


 菜々野には一つ上の兄がいる。年頃の彼女が最も気にしてしまう相手だが、その理由の一つが、兄がであることにある。そんな彼を怒らせた日には説教の豪雨が我が身に降り注ぐことを、菜々野は経験則から知っている。


 菜々野はその場で慌てふためくが、どうすることもできずにその場に蹲る。ずかずかと廊下を歩く足音がこちらに接近して来るのを察し、大人しく正座をしてご立腹であろう人物の登場を待つことにしたのだった。


「菜々野ぉぉ‼ 今何時だと思ってんだ! 僕とドッ君の朝の戯れを邪魔するなっていつも言ってるじゃないか!」

「う、うぅ……。ゴメンなさいお兄」


 菜々野の部屋の扉を蹴破って怒鳴り声とともに姿を見せたのは、菜々野の兄、鳩羽修司はとばしゅうじだ。寝起きとばかりに派手な寝癖がついている。

 そして彼が左腕で抱えているのは全長一メートルもある犬のぬいぐるみ。名前は『ドッ君』と言い、修司の最愛の存在だ。


「今日は土曜日! 僕がドッ君といつもより長くヌフヌフできる貴重な日なんだ! 10時まではうるさくするなよ、いいな?」

「もう9時だし……」

「なんか言った?」

「いえなんでもありませんっ」


 修司は叱り終えたのか、あくびをしながら部屋から出ようとする。すると振り向き際の一瞬だけ、修司の目線が菜々野の散乱した机に向けられたようだった。

 ドアノブに手をかけるも、ドアを開けずに何かを思考している様子の修司。ついその様子に菜々野は怪訝そうに首を傾げてしまう。


「勉強、難しいか?」


 唐突に投げかけられた一言に、菜々野はすぐに反応できなかった。つい先刻まで、修司から理不尽なクレームを投げつけられてこちらを心配する素振りすら見せなかったのだが、その掌返しというかのような気の遣われように追い付けていないのだ。

 

「そんなにたくさん参考書積んだって全部いっぺんにできるわけないじゃないか。もっと反復して、効率重視でやんないと。特にお前は基礎ができてないんだから」

「ちょっ、急になんなの⁉ 説教?」

「なにって、まあなんだろうな、菜々野が苦戦してそうだなって思ったから、なんというかその手助け、かな」


 あまりに歯切れの悪い応答に、菜々野の神経は逆撫でされる一方だった。迂遠な表現ではなく直接モノを言わなければ誰も理解できない、という考えが菜々野には強く根付いていたからだ。

 加えてこれは菜々野自身の問題であり、勉強を指導してもらうこともなかった兄からうるさい指摘をされる必要はない。むしろ今更口出しするな、と言い返すのを必死に堪えていたくらいだ。


「なんなのそれ。まるでナノが一人じゃ何もできないみたいじゃん。お兄とはやり方が違ってもそれがナノのやり方なの。ほっといてくれる?」

「……そうか。それじゃあ悪かったよ」


 諦めたように修司は今度こそドアを開けてぬいぐるみを抱えたまま退室してしまう。


 ――三時間後


 菜々野は重い溜息を定期的に吐いてはひたすらペンを動かしていた。最初に取り組んでいた数学は横に除けられており、今は英語の参考書と単語帳を並行させている。当然、正しい勉強の仕方が身についていない菜々野には得意教科などはない。どれも定期試験では赤点ほどではないが、いずれも平均点を下回る結果なのだ。そんなものを無理やり頭に詰め込むことが、彼女にとって苦痛でしかない。

 それでも菜々野はこれが主人公になるための受験なのだ、と自分に言い聞かせて必死に机にかじりつく。


 ――こんこん


 そんな時、ドアの外からノックが聞こえた。それも二回。



「なーに?」

「おいそこは『入ってます~』だろ! ノック二回なんだからさ!」


 ツッコミの激しい兄の登場に無反応を貫く菜々野。振り向いて修司と面と向かおうとせず、話を聞き流しながら手を動かし続ける。

 

 がしかし、その手は兄によって物理的に止められてしまう。自分より大きな手でペンを持っている方の手首を抑えられたことに菜々野は驚くも、表情に出したのは若干の怒り。

 背後から手首をつかむ兄に対して、妹は尚も振り向くことはなく口を開く。


「なんなの? 今勉強中なんですけど。邪魔するんだったら……」

「そんな勉強、ためにならんだろ。お前が受験だ受験だって言い始めた時期からため息しかつかなくなったじゃんか」

 

 いつの間にか修司の声音は菜々野の様子を窺っているように低い。今朝、苦情を言いに来た時から勉強に対して神経質になっている姿が気になったのだろう。


「べつに僕は菜々野のことを勉強できないバカって思ってるわけないじゃないし、邪魔する気もさらさらない。ただ気になっただけだよ」

「手、離さないのはなんで? お兄の言ってることがよく分かんないんだけど」


 その質問に修司は多少言葉に悩んだ様子を見せ、少し間を置いて答える。


「まあ……心配、なんだよ。単純にさ」

「……」


 何気ない一言に、菜々野はつい兄の方を向く。今まで無視して見ようとしなかったその表情は、眉がいつもより下がり気味であったことに菜々野は一目で気付いた。ようやく修司の真意が伝わったのだろう。いつもぬいぐるみとイチャイチャしているだけの頭の悪い兄などでない、妹を思う兄として気にかけていたのだ、と。


「だからさ、わかんないことあったら僕に直接聞けばいいじゃないか。去年までお前と同じ状況だったんだから。うんうん唸って壁に八つ当たりされるより、勉強でこきつかわれた方が百倍良いね」

「べつにナノ、八つ当たりで壁に物ぶつけたわけじゃないんだけど。でも…………まあ助かる。ありがと」


 俯き気味に感謝を伝える菜々野。その裏では名状し難い感情がこみ上げてくるのを表面に出さないように堪えていた。それは兄の方も同じであった。 

 どこか歯切れの悪いやり取りも、両者のそういった躊躇いから生じているのだろう。本音を言えない兄妹、何度も言葉を交わさなければ通じ合うこともできない


 とりあえず修司は菜々野の返答に満足のいく結果を得られたようにいつもの表情で立ち去ろうとする。


「ちょちょちょ! お兄どこ行くの?」

「え、そりゃあ部屋に戻ろうかなって」

「なんで? 勉強教えてよ」

「……今っすか?」

「教えてくれるって言ったじゃん。でさ、色々聞きたいことあるんだけど」


 どっさりと積まれている参考書や教科書をポンポンと叩き、口約束だけして帰ろうとした修司に笑みを見せる。対してそれを見た修司は予想される労働の重さに顔が引きつる。

 もちろん修司の言葉はただ慰めのために言った建前などではない。さすがに頼られても自分の想像の域を逸しない程度であろうと勝手に思っていたため、いざ目の前に出された紙束に燃やしたくなるほどの衝動を覚えたのだ。

 それでも修司はなんとか表面上を取り繕って、胸を叩いてみせる。


「いいよ。時間はあるから順番に教えてやる」




 お互いが家族でありながら、お互いの存在にどうしても素直になれない鳩羽兄妹。    

 こうして今日も下手な会話を繰り広げては感情を伝え、時に感じる家族への温もりに戸惑ってしまう。それはまるで一種の障壁のように彼らのコミュニケーションを妨げてしまう。


 しかしその壁が、ある一人の少女によって取り払われることになるとは、まだ誰も知らない――――





『ああ、さっきは相談に乗ってくれてありがとう。おかげで妹の機嫌が直ったよ。え? 頼られるのは嬉しいけどそのくらい自分の言葉で言えばいい? ………それができたら苦労してないよ。まったく、これだから人間ってやつは』


                                     


                                     了

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