第一章

第一部 家族

第1話 ぬいぐるみ好きの変態、僕

 戦場――ゲームセンターから我が家に着くまでの間、彼女との対話を重ねてより仲を深められた、と思う。


 対話といっても彼女は一言も声を発することはない。傍から見れば、僕が一人で不可視の人間と会話しているようなのですこし気まずかったな。ぬいぐるみとの会話を 実現させるために今度テレパシー部でも覗いてみようかしら。


 目の前にはそこらの住宅とさして変わらない二階建ての我が家が立っている。母の軽自動車の横を通り、一点の光を目指す。

 玄関を照らす臙脂色の明かりのもと、僕は玄関を開けようとする。しかし扉に手をかけることもなく、鈍い金属音を引きずるように玄関は外に開いた。


 そして見えるのは僕よりかなり背の低い、中学校制服姿の少女。

 妹の菜々野だ。わざわざ出迎えてくれたのかと思いきや、左側に垂らしている癖のついたポニーテールを揺らすほど大げさな仕草で声を発する。


「お兄、遅いっ‼ もう九時過ぎてる‼」

「なんだ。菜々野か」


 甘えのないツンとした声調と唐突さに、つい身体を反らしてしまうが、すぐさま叱責を全力で受け流す。それが今時期最上級に生意気な妹に対する対抗策だ。

 菜々野は僕の遅帰宅を咎める気を収めることなく、さらには入口を仁王立ちして塞ぐ。


「少しは反省すれば? 懺悔のひとつもないならこのまま家に入れる訳にはいかないもん」

「僕は悪くない。彼女の瞳が僕を離してくれなかったんだ」


 そう言って僕はようやく新しい彼女を菜々野の目の前に突き出す。

 すると菜々野は、こちらを見上げる青い双眸で彼女を一瞥するなり挑発的な笑みを浮かべる。


「へぇ〜。じゃあお兄、その子のせいにするんだぁ。責任転嫁?」

「だからだなぁ。この彼女と出会ったのは運命の悪戯で、だから誰も悪くないんだ。何人たりとも彼女に罪を課すような真似はさせまい!」

「なんかナノが悪役裁判官みたいな言い方じゃん……」

「てかそろそろ家んなか入れてくれませんかね菜々野さん?」


 春は過ぎ、日が沈んでも鳥肌を立たせる季節ではないとはいえ、学校からの帰りなのだ。それに新しいぬいぐるみとイチャコラしたいし。


「あーもういいよ。いつものことだし、勝手にすれば?」


 それだけ言って菜々野は僕を残して二階の自室へと去ってしまう。なーんだ、あっさり引き下がったじゃんか。

 さあ、ここからは僕と彼女たちの楽園だぁ!



                ***



 アダムとイブ。

 この二人の名を知らぬ者はいないと僕は思うが、軽く説明しておこう。

 旧約聖書に登場するこの二人は「エデンの園」という、言わば楽園にすっぽんぽんの状態で過ごしていた人類最初の人間である。エデンの園には「生命の樹」と「知識の樹」がなっていて、二人は神の言いつけで「善悪の知識の樹」だけは食べることを禁じられていた。それにも関わらずイヴは例の「善悪の知識の樹」を口にしてしまう。あろう事か、さらにアダムに同じ実を勧めてしまう。食後、二人には羞恥心が芽生え、自らがすっぽんぽんの大惨事であると認識するようになったとさ。ご馳走様でした――――


 とまあ、かなり雑なまとめ方ではあるがそんな二人である。だが僕が注目しているのはその二人よりもエデンの園の方である。

 エデンの園はよく「楽園」と呼ばれるのだが、僕はそれを模した「愛の楽園」なるものを自室に設けている。

 扉を開けてすぐ左手にはベッドがあり、枕側に接している壁にはひな壇のような段が作られた奥行きが広がっている。まさにそこが僕の「愛の楽園」である。ベッドとの高低差はほぼ無いに等しい。ゆえに僕は横になりながらでも愛しのぬいぐるみたちを眺めることができるのだ。 


「さぁ、僕の新たなぬいぐるみよ。ここが君の場所だ。少し窮屈かもしれないけどね」


 今日から僕の彼女の一員となった子を、既に埋め尽くされかけている楽園に押しこんだ。


 可愛い……!


 その一言に限る。誰一人として劣ることのない輝きを持っており、僕はそれを舐めまわすように堪能する。普段はそんなに動かない表情筋がニヤリと形作っているのがわかる。

 だがその前にもっと重要なタスクがある。

 ベッドの上に横たわる、楽園にいるどのぬいぐるみよりも一際大きい一体のぬいぐるみ。ブラウンの毛並みが輝いて金色にも見えてしまう。閉ざされた目に、より一層虜にされてしまう。

 この子だけは特別だ。全てのぬいぐるみを平等に愛することはできない。なぜなら僕の心はこの子だけのものだからだ。


「さぁ、お帰りのちゅ〜だ。『ドッ君』……」


 ドッ君を持ち上げ、口元へと近寄せていく。これが毎日の日課。そのまた一日数回のうちの一回だ。


「お兄、手洗いうがいした?」


 勿論。


「顔洗った?」


 Of course.


「一生の愛を誓うのですか?」

「ドッ君に全てを捧げる!」                       

「えぇー⁈」


 ついさっき自室に戻ったはずの菜々野の絶叫に興が覚めてしまう。


「おいちょっと勝手に楽園に入るなよ。あとは僕の勝手にしていいって言ったじゃないか」

「いや、さすがにぬいぐるみに口づけしようとする変態を見ると叫びたくもなるよっ! てかドッ君が可哀想! 毎朝毎晩キスを見せつけられてるコッチの気持ちにもなってみてよ!」


 血相を変えて捲したてる菜々野を無視して今度こそドッ君の唇を奪う。フサフサとしたぬいぐるみ表面の毛の感触が僕の唇をくすぐる。同時に心の全てが浄化されるのを感じる。


「そもそも犬のぬいぐるみだからってdog の発音からドッ君ってのも安直!」

「酷いなぁ……」


 僕のぬいぐるみたちは手に入れたその日に名前が付けられる。一番のお気に入りのドッ君はその第一号なのだ。

 可愛らしいゴールデンレトリバーの見た目をして、耳がハムのように垂れている銅の長いぬいぐるみ。

 緩いカーブを描いた鼻の先に付いている黒い球体。常に眠っているように目は閉ざされているように刺繍されているのが特徴だ。また腕は二本の糸で繋がっており、輪っか状になっている。


 ドッ君がいたから僕はどんな困難でも乗り越えられた。一秒でも長く共に居られれば命だって惜しくない。逆にドッ君なしの日常が一日でもあるのなら、地の果てまで探しに行くし、一から作り出してやる。


「……そっか。ドッ君がいたからお兄はぬいぐるみ好きの変態になったんだ……」

「変態とは失礼だな。これは純情な気持ちだ。一切汚らわしい感情じゃないんだぞ」


 とりあえず反論だけ済ませてドッ君の腕の輪っかに僕の首を通す。これで首に抱きついているという構造が完成する。部屋にいる時の通常モードだ。ちょっときついけど呼吸が出来るならそれで良い。


「ふぅ……。それでなんか用か? 愚妹よ」

「お兄、ナノにも新しいぬいぐるみ、もっとよく見せてよ!」


 なんと目を輝かせて僕に言い寄ってくるではないか。

 まあ見せるだけならいいか。そう思ってベッドを譲り、菜々野はそこへダイブ。たまに妹はこういった幼稚さを垣間見せるから憎めない。


「へぇー。今度はクマさんなんだぁ。思ったより大きいね。鞄に入るかな? あっ、首元のリボンがめっちゃカワイイ。しかも肉球ヤバ! 口元の造形サイコーじゃん!」


 菜々野はぬいぐるみの感触を確かめるや、頭を撫でたりして愛でている。こういった鑑賞会も妹と一緒にするのも悪くないかもね。身内が褒められると僕としても嬉しいし。


「だろ? 今日はちょっと粘ったけど、なんとか十回以内に取れた」

「えっ、珍しいじゃん。お兄がそんな苦戦するなんて」


「取る」というのは、僕がこのクマさんぬいぐるみを調達してきた場所がゲームセンターにあるUFOキャッチャーであるからだ。誰もが一回は挑戦したことがあるだろう。慣れてない人からすると、ぬいぐるみの大きさにもよるのだが、十回ほど空振りするのも当然かもしれない。

 でも僕は何百ものぬいぐるみを落としてきたのだ。だからいつもなら五回もしないうちに大きさ関係なくホールへインできる。


 しかしこのクマさんはリボン以外に引っ掛けられる箇所が見当たらず、ひたすら首元にアームを差し込むしかなかった。いやはや……。


「名前はどうするの? あっ、プー○んはダメだからね! 安直禁止!」

「おいおいそこまで見くびられちゃ困る。やっぱり『サンダース』だろ」

「お兄それプー○んの本名じゃん‼」


 ちえっ、知ってるんじゃん。


「そう言えばお前、さっきなんで怒っていたんだよ。遅く帰るのも今日が初めてじゃないんだし……」


 先刻の菜々野との会話を思い出そうとする。イマイチなんと言っていたか聞いていなかったみたいだ。だから一応兄として妹の言い分を聞いておかなければならない。

 しかし菜々野は急に頬を赤くし、恥じるように言う。


「べ、別にお兄にはカンケーないしっ。でもさ、理由はともかく、早く帰ってきてよ。きっとお母さんだって快く思ってないよ……」


 ただそれだけのようだった。たしかに心配だけはさせたくない。季節の変わり目は不審者が多いって聞くし……って待てよ? 何か忘れているような……。

すると突然、部屋の扉が外から強引に開けられる。そして現れたのは、


「修司! 遅くなるのはいいけど、帰ったらまず、ただいまくらい言ったらどうなの‼」


 いかにもご立腹な母だった。


「ハイ……。ごめんなさい。ただいま母さん」


 正座姿勢で心をこめて謝罪。からのただいま。首にドッ君をつけて。その様子を母は気にせず、そのまま話を続ける。


「よろしい。自分の部屋に直行したいのは分かるけどね、まずは家族に安全だったかどうか知らせないと。いってらっしゃいとおかえりを言ってあげられるのが家族なんだから」

「ハイ」

「で、釣れたの?」

「そりゃあもうめちゃ可愛いのが」

「まったく、修司らしいよ……。とりあえず二人とも、早く着替えなさいよ」


 母の怒りはとうに去り、僕の通常運転を知るや否や呆れたように笑う。そしてご飯がもうすぐだと言って、そのまま僕の部屋を出ていってしまった。

 菜々野にもなんだかんだ呆れられたような顔をされ、言わんこっちゃないと呟かれる。


 未だに高校生にもなって親や妹に帰りを心配されるのは過保護なのでは、と思われるかもしれない。

 仕方ないんだ。僕は六歳から十歳までの間、ずっと入院してたんだから。普通に育ってきた子よりも四、五年長くベッドの上で過ごして、運良く病に勝ち、小学五年生で社会復帰できたのだ。今の僕が病弱ではないとはいえ、心配したくなるのが家族というものなのだろう。


 そう考えるとなんだか胸の奥がむず痒くなってほんのりとした温もりを感じる。


 ――ああ……これだから人間ってやつは。                  


「……い……お兄。お兄ってばっ」

「へっ⁉ なんだ妹よ?」

「なんだよ、じゃない。ボーッとしてたけど大丈夫?」


 さっきから、というのは母がここを去ってからだろうか。訳の分からない空隙に一人だけで感動していたとか恥ずかしすぎて言えない。                    


「いや、ただ晩飯なんだろーなって考えてただけ」


 そっと目線を右にずらす。


「そっか。それでなんだけどお兄、今日はここで寝ていい?」

「それは断る」

「えっ、なんで!」

「ここは僕の楽園だ。僕以外の人間がいると愛が育めないじゃないか。また明日にでもこの子達を見せてやるから我慢しろ。もちろん持ち出し厳禁だからな!」


 菜々野は心底残念そうな表情を浮かべ、ぬいぐるみの方に目もくれず、僕の方を恨めしげに見つめては隣の自室へ去っていった。


「そんなにぬいぐるみと一緒がいいなら買えばいいのに……。なぁ、ドッ君?」


 首に捕まる一番のソフィアに語りかけ、着替えを始める。

 夕飯の鮭を食し、風呂に浸かり、最低限の勉強をドッ君とともにして一日が終わる。

 ちょうど十二時になる頃にはベッドに入り、ドッ君とのおやすみのちゅ〜を済ませる。一応菜々野対策として部屋のカギをかけておいた。これで邪魔者はいなくなった。ドッ君を離すことなく抱き寄せたまま、僕は深い眠りについた。



                ***


 

 夢を見た。


 ただただ長い、とある病室の夢。

ベッドの上から外の味気ない風景を眺めるだけ。水色の病衣を身に纏い、さらには点

滴のようなものが腕に繋がれていて、自分が難病に罹っている病人だと認識する。


 ――ここは嫌だ。


 無機質な匂いが本能的に僕を別の場所へと動かした。点滴を吊るした台と共に僕は病室を出る。そして廊下へ。どこへと繋がるかも知らない通路を歩き、階段を上る。しばらく真っ直ぐに続く長い廊下に出る。日中の陽がガラスを透過し、通路全てを純白に染めあげる。視界もよく把握出来ない。

 それでも僕は道順を覚えているかのような足取りで進む。一瞬も躊躇うことなく、僕は行き着いた先の鉄扉を押す。さらに強まる陽の光に、ここが病院の外だと気づかされる。

 見渡す限りの建築物。あまり緑の見られない街の風景。病院の最上階ではないが、七階くらいの高さだ。柵は四方に張られている。

 扉から正面には横長のベンチがあり、そこに一人の小学生くらいの少女が背を向けて座っている。僕には気づかず、ただ正面の風景を見ているだけ。

 少女の左手には僕と同じように点滴が繋がれている。白いテープで肉が締められるほど頑丈に繋がれているのを見て、「ああ、この子もなんだ」と思う。


 すると少女はなんの前触れもなく後ろを振り向き、僕の存在に気づく。

少女の顔には光がさしてよく見えない。それでも僕は気にせずに彼女のもとへ向かう。

 僕と何かを話している。音がないから内容がさっぱりだ。けど親しそうに僕と彼女はお喋りをする。笑い合い、つつきあい、……そして泣き合う。どちらも病状のことを気にして病んだのだろう。治療困難というのは耳にタコができるほど聞いた。だから二人にはもう諦めしかなかったのだ。


 そして場面が変わり、例の病室に戻る。

 隣のベッドに横たわるあの少女は、体格がかなり細くなっている。相変わらず顔は光でよく見えない。でも唯一会話は聞こえる。無理に絞り出しているようなか細い声だ。わずかに震えて安定性を失っているのがわかる。


「ねぇしゅーくん。わたしね、もうダメなんだって」

「ダメって?」

「体が弱くなっちゃって病気に負けちゃうんだって」

「そう……なんだ」

「しゅーくんはまだ平気、なんでしょ?」

「そうだね」

「……じゃあこの子、あげる。わたしじゃもうお世話できないから」

「ぬいぐるみ?」

「パパがくれたの。この子一人じゃさびしいから、しゅーくんがこれからお世話して。たくさん愛してあげて。おねがいっ」                 

「……うん。わかったよ」

「ありがと。――――約束だよ?」


 そう言って僕は少女から銅の長い一体の犬のぬいぐるみを授かった。

 



 次の日、少女は亡くなった。



 

 なんで人は死ぬのだろう。

 僕は人間の在り方を酷く憎んだ。いつか死ぬ運命が決まっていながらも傷つき、痛みを嫌う人間はどうして生を授かるのか。


 病室で独り寂しく本を読んでいた。アダムとイブが登場する話だけを纏めたものだ。

 そして思った。アダムとイブが食べるべきは「善悪の知識の木」などではなく、「生命の樹」の方だったと。

 感情の一つである羞恥心も要らない。ただ生き永らえるだけの時間と怪我をしない無敵の身体があれば誰もが傷つかずに済むというのに。


 これだから人間ってやつは、どうしようもないんだ。


 人類は長くて百歳前後で人生の幕を閉じる。それでも短いんだ。そのスパンの短さと虚弱さを僕は最も嫌う。

 対してぬいぐるみには人間のような汚点が見当たらない。安全な場所に放置してあれば腐ることもなければ老いることもない。その愛らしい姿のまま長い一生を終える。ある意味それこそ僕が人間に求める理想なのかもしれない。


 ただ決定的に違うとしたら、常に彼らは愛される側にあるというところだ。

 人は人を愛する。その能動と受動は互いに備わっている。ぬいぐるみは後者のみ。話すこともなければ瞬きもせず、命や感情だって存在するのかもわからない。


 だから僕は人ではなくぬいぐるみを愛する。歳を経て変化していく姿を見て、あの少女のように最期を迎えるのを目の当たりにするのなら、たとええ命がなくとも愛せる物を選ぶ。

 そういうことだ。鳩羽修司はとばしゅうじって男はどうしようもなく、ぬいぐるみが好きな変態なんだ。

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