第2話 ボクはドッ君です
目覚ましが鳴る。
「除夜の鐘をゼロ距離で放つ! 百八回の轟音であなたの二度寝習慣の煩悩を祓います!」の売り文句通りけたましいものだ。
しかし今日は日曜日。学校も部活もない平和な日だ。そんなものに僕とドッ君の睡眠を邪魔されてたまるものか! 目覚ましの電池を抜いて永久の眠りにつかせてやる。
(あれ? おかしいな。体が重い)
昨夜眠りにつく時たしかにドッ君を抱いたまま寝たはず。いつもその体勢のまま寝返りを打つため、ドッ君が離れることは決してないのだ。だが、腕と脚に
(これは……人!?)
まだ目覚め切れていない眼を擦り、目の前にいる重りを凝視する。晴天の日差しが強すぎてピントが合わない。
(もしかして
しかしようやく冴えてきた視界に飛び込んできたのはとんでもないものだった。
「……すぅ……すぅ…………むぅん……」
鈴音のような小さな寝息が耳をくすぐる。鼻の先一寸とも言える近さに、妹ととも知れぬ女の子の寝顔が横になっている。
頭をフル回転させてはベッドを霹靂のごとく素早さで脱出する。
「だ、誰だ……この子……」
まったく知らない女の子? が僕のベッドで寝ている。ちゃっかり掛け布団と枕も使っている。
掛け布団から出ている幸せそうな寝顔。
目が閉ざされているものの顔のパーツが絶妙なバランスで揃っていて眺めるだけで美貌と呼べた。見る限りではセミロングほどの長さの栗色の髪。全ての光を反射して
(まさか全裸なんじゃ……)
「いやいや。何考えてるんだ僕はっ。そうかこれは夢か。なるほど。でも大体そういうのって現実だったりするんだよなぁ。……チラ?」
ヤバい。鼻血出そう。決してやましい気持ちで覗いたわけではないが、胸の膨らみを確認するにあたって完全に女子ということが分かってしまった。ヒドイな僕。セルフ通報待ったナシ。
しかしどうすることも出来ない。呼びかけようか、はたまた何食わぬ顔でベッドに戻るか。
あたふたしている間に部屋の扉がゆっくりと開けられる。
「ふぁぁ……お兄、もう起きた……?」
……終わった……僕の人生。
「どういうことなのお兄!!」
というわけでパジャマ姿の妹に現場を取り押さえられて正座をさせられているお兄ちゃん。なんも言えない。
いつになく冷たい目でこちらを見る
「ぬいぐるみ好きの変態ってナノ言ったけど撤回女の子を隠してぬふぬふするヤバい兄だってことにしといてあげるよかったね」
「いえ、僕はこの子をまったく知りません。見覚えもありません……」
「『僕は早く彼女とイチャイチャしたいんだ邪魔するな』とか言ったけどそれってこういうことだったんだぁナノをここで寝かせてくれなかったのもそういうことだよね?」
「わかってるだろ!? 僕はただぬいぐるみ好きの変態だって! 人間の彼女なんて作るわけないじゃないかっ!」
「昨日あれほど反発しておいて?」
「……」
「それに彼女と言わずにセフ……友達なんてのもありえるし」
「おいちょっといまのかなり際どい発言だぞ」
「高一になってこないだちゃっかり女の子連れてきてたくせに」
「そいつはれっきとした友だちだから問題ないって」
原因の謎の美少女は幸せそうにうとうと寝ている。おかしいだろ。僕だけ責められてこの子には一切聞かないで放置なんだもん。理不尽! これぞ冤罪の生じる原因だろ!
すると僕と
目をうっすらと開け、こちらと目が合う。エメラルドに似た色の瞳に吸い込まれたかのように視線を離せない。
すると突然微笑み、
「おはようございます。ご主人様」
僕と
「えっ……なんで……ボクっ」
「『ご主人様』ってことはお兄このボクっ娘とそういうプレイしてたんだ」
「断じてない! てかなんで君は動揺してるんだ?」
女の子は明らかに動揺している。
寝たままの状態から急に身体を起こし、
尚、驚愕は消えない。
「えっと……大丈夫? 君、名前は?」
落ち着きを取り戻すよう、名前だけでも伺ってみる。
しかし返ってきた答えは信じ難いものだった。
「ボク……ドッ君……」
「「…………んん?」」
「あっ、そう言えば朝からドッ君がいないんだった!!」
ようやく気がつくまさかの事態。今度は僕が取り乱す。
それを制するように
「待ってお兄! もしかしてだけど、この子本当にドッ君なんじゃないの?」
「はぁ? 何言ってんだ。そんなわけないだろ」
ありえないことを抜かす妹に全力で呆れるが
「いえ。ボクはご主人様のぬいぐるみ、ドッ君です」
すぐに首肯する。
自らをドッ君と名乗る女の子の頬には止めどなく涙が流れ落ちている。ベッドのシーツに浸透していき、彼女の周りの色を塗り替えていく。
その様子に彼女は首を傾げる。
「これはもしかして……涙?」
「そうだよ」
彼女と同じ目線で向き合う。それが菜々野にできる最大限の死力だったのだろう。
「ボクっ……ボクはようやく……人間になることが出来たのですね!! ご主人様!」
解放されずにただ貯められていたダムは決壊したように、感極まった感動の声を高らかにあげる。
赤くなった目を見開いて僕を一直線に見つめる。その濡れた目に写る僕はもはや原型を留めていない。
「ねぇ……君の言う『ご主人様』って、まさか僕のこと?」
「はい! ボクは長きに渡り、あなたからの多大な愛を授かってきました。改めて名乗ります。ボクは、ドッ君です!」
「マジか…………」
まさに驚愕。本当にぬいぐるみが人間になってしまったとは。
にわかに信じ難いことだ。もしかしたら本物のドッ君をどこかへ葬り、その変わり身となったのなら話は別だが、それを確かめる術もない。
なおも自称ドッ君を
「ねぇ、お兄。この子たしかにドッ君の匂いがするよ?」
「な、なんだって!?」
あった! ただ一つ、この子が本当にドッ君だと言うのなら、その体はもともとぬいぐるみだったはず。僕はドッ君をドライヤーをかけてはいるが、一度も洗ったことがないんだ。
そして染みに染み込んだ僕とぬいぐるみ本来の匂いが、現状この疑念における何よりの証拠になる、はずだ。
「ちょ、ちょっと失礼……」
僕は正座から立ち上がり、彼女に近づいていく。その事実を確かめるために。しかし彼女の目を一秒たりとも離さなかった。そこに浮かぶ真意を探り、僕の期待に見込みがあるのか、表面の奥の網膜さえも見透かそうとした。
気づいたら彼女の目の前まで寄っていた。瞳から読み取れるものは一切なかった。だから今度は確証となるものを見定める。
彼女の髪を手に乗せ、流れる美しさに魅入られながらも、嗅覚に神経を集中させる。
お日様に干したようなサンサンとした匂い。そしてどこか曇った重みがある。決して悪臭などではない。何度も嗅いできた郷愁を誘うそれに、僕も涙腺が潤うのを感じる。
「ホントに……ドッ君、なんだな……」
間違いようがない。その確信が僕を裏切った。
「はい! ボクっ! ボクです! ご理解頂けてとても嬉しいです」
「そうか……」
僕は酷く打ちのめされた。微笑む彼女の笑顔と嬉し涙を見せられて、希望は
僕の心中を察することもなく彼女は言葉の節々を跳させて喋る。
「ボク、人間になるのが夢だったんです。いつもご主人様に愛される側でいて、それでも幸せでしたが、でもやはりボクからも愛したいのです! 言葉も体の自由もない中でそんなことを常々願っていました」
「……んでだよ」
「「?」」
「なんでだよ! なんで人間になんかになるんだよ! いいじゃないか、ぬいぐるみのままでも! せめて君だけでもあの愛くるしい姿の……ドッ君のままでいてくれよ!」
混迷と葛藤の末に見出したひとつの願望。切実に、僕はドッ君にぬいぐるみのままでいて欲しかった。常に愛される側でいて欲しかった。
先程の検証で彼女がドッ君であることが紛れもなく事実だと判明した。あの匂いは誰にでも再現出来るものじゃない。揺るぎない証左である。
そうであるならば彼女の口から出てくることは、おそらくほとんどがぬいぐるみだった時の記憶だろう。そして思考や感想も、その時その時の感情がこもっている。つまり自我があったということだ。
ただ、それだけは知りたくなかった。
「僕がぬいぐるみを愛する理由は、ただ僕の一方的な幸せを詰め込めるからだ。意思があって、自由が効いた身体があって、感情があって……、なにより某弱な命が存在するのは許せない! ……だからお願いだ。申し訳ないけど、ぬいぐるみに戻ってくれないか?」
僕の懇願の眼差しを彼女は避けることなく受け止めてくれた。恐怖に怯えることなく、僕に対する失望と絶望の視線を向けることなく。
「何より君は知らないだろ。人間は傷つけば痛いし、死ぬことも容易い。身体を失えば新しいものと替えがきくわけでもないんだ。現代医療でも臓器の移植はできても腕や脚なんかは機械でしか代替できない。残念なことを言うけど、人間はそう幸せになれる生き物じゃないんだ……」
たとえそれが人間という生物の定められた運命なのであっても、僕は絶対に受け入れたくない。
根底にある全てを言い切った。彼女の返答を待つだけ。
怒るだろうか。でも仕方ない。せっかく手に入れた命だ。それを捨ててくれとせがんで言ってるようなものだ。ぬいぐるみに戻ってくれたとしても、僕の一方的な愛は今後快く受け入れられないだろう。
それは覚悟のうえだった。嫌われてもいい。ぬいぐるみに戻れば彼女の心は聞こえないままなんだ。
あれからどれほどの時が経ったのか、ようやく彼女は口を動かす。
「いえ。私はそうは思いません」
凛とした口調は怒りに呑まれていなかった。さしずめ、僕の暴君を諌めるように。
「……何を?」
「人間は決して不幸な生き物ではないということです。命に限りがあり、年とともに老いていく。その先に待つのは死のみ。定められた刻があるからこそ、人は幸福を得ることができるはずです」
「永遠の時間があれば逆に不幸になると?」
「不幸かどうかは人それぞれです。でも幸せに生きていこうとするのは誰でもできる
ことではないのですか?」
「誰でも、ねぇ……」
「?」
「見たんだ。八十年ほどある寿命のうちでまだ小学生の子が病気で死んだ所を。たった数年。それしか生きられなかった人は幸せだったのか? 僕はその子と同じ病気だった。でも奇跡的に生き延びた。あの子にもっと長い時間と不滅の命があればきっと……」
それ以上は紡げない。
他人の幸福を考えるほどの度胸は僕にはない。せめて人間であったことを憎むことしかできない。
「永遠であれば、どれほどよかったでしょうね」
「君が言うか」
「いくつか誤解がありますが、まずぬいぐるみにも痛みはあります」
「そうなのか?」
「ご主人様はよく私に腕をこうやって回して抱きしめてくれますよね?」
彼女の細い腕が僕の首の後ろに回され、自然に顔の位置が近くなる。吸いなれた芳香に鼻孔がつい反応してしまう。
するとそのまま僕をベッドに横倒しにされる。また朝の状態に戻ったようだ。
「はわわわ……。ドッ君、それかなり大胆だよっ……」
「でも私の首元が絶妙に締められて痛かった時があるんです。寝ようにも寝付けないですし、言葉は出ないですから仕方なく朝までご主人様の寝顔を堪能してましたけど」
「なんか、ゴメン」
てかダメなんだ、これ。
たしかにぬいぐるみは人の首より数倍太いから締め付けるとハムの紐じめになるのか。かなり申し訳ない。そもそもぬいぐるみの間って目が見えてるんだ。
「いいんですよ。あなたからの愛は返しきれないほど大きなものでした。だからこの程度で音なんて上げられません」
「そっか……。ぬいぐるみであってもそういう事情があったのか。……さっきはああ言ったけど、君の好きなようにしたらいいよ」
そこまで言うなら諦めるしかない。そういう意味で言ったのだ。しかし彼女はそのままの意味でとったようだ。
「!? そうですか。ありがとうございます! 好きにしていいのならまずは……」
彼女の腕は僕を固定したまま、少しずつ伸縮するように曲がっていく。そして……
「!!?!!??」
唇が触れる。正真正銘のキスである。
毎朝毎晩僕がドッ君にするような軽く触れるくらいのものをされた。
「はぁぁぁぁぁ……はわわわわ……」
「〜〜〜!!」
「おはようのキスです、お主人様。これからも忘れずによろしくお願いしますね?」
微笑む彼女に釘付けになる。それが一生に一度の姿であったとしても、目が離せなかった。
「こ、これだから人間ってやつは……」
かくして、愛を享受し続けたぬいぐるみは人となり、愛し返す側になった。
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