第3話 犬飼来未
「と、いうわけで話は聞かせてもらったわ」
「「い、いつの間に……」」
いつになく密な自室でさらに母親が参入してきた。まさか
ちなみに彼女、仕方なくドッ君と呼ばせてもらう、がいつまでも裸では風邪を引きかねないと、母の命令で着なくなった服を着せられている。ほぼ無地の白のブカブカのシャツ。
しかし下がない。
本人は大喜び。洗ったはずなのにドッ君は「
「いやー。いつか息子も誰かと
「……お兄が、女の子と、初キッス……」
当然それだけ前々から聞いていたのでは僕が人型ドッ君に唇を奪われた場面もばっちり見られていた。そしてそのあとの母の
「じゃあこれからドッ君は
「え? そうでなかったんですか?」
ドッ君は不自然そうに首をかしげる。
たしかに僕があの少女が亡くなった日から、ドッ君は家族の一員だと言い張っていたものだ。
しかしそれはぬいぐるみとしての立ち位置が前提だったから成立していた
母は我が子が一人増えたかのように微笑みながら説明する。
「ぬいぐるみだったらこの子は家族だって言い張っても何も問題はないの。法的にね? でも人が関わってくるんじゃ話はまた別になるの。人間には
「僕ら売られてなんかないけどね」
「売買目的じゃない、個人を管理する意味で私たちの生まれてから死ぬまでの身分関係をまとめられているの。それを証明するためのものでもあるの。そうするとドッ君はねぇ……」
母は少し
その意味を
「ついさっきぬいぐるみから転生しましたー、みたいな? じゃあドッ君、戸籍とかないじゃん」
「こせき? がないと何か大変なことでもあるのですか? ご主人様」
まさかいち学生の僕に聞いてくるとは。知らない訳でもないから問題はない。少し視線が上を向く。
「婚姻届が出せないのと、えーと……渡航するためのパスポートが作れない。まぁ戸籍がなくても行政サービスはあらかた受けられるけどな」
「お母様、こんいんとは?」
「それはね………………(耳打ち)」
「あれ? じゃあ意外とドッ君って自由なんじゃ……」
そう。そう解釈しても問題は無い。ただ本題はここからだ。
「戸籍は年々必要性が薄れてきている。そりゃあった方がいいが、本当に必要なのは住民票とマイナンバー。日本国民として生まれて生きるには欠かせないものだ」
「すごいですね!」
「おいそこ聞いてる!?」
なんか僕が博識
「すみません、ご主人様。先程『婚姻届』という言葉が聞こえてきたので『婚姻』の意味だけでもお母様に聞いていたのです」
「ドッ君、『結婚』を知らなかったのよ。我が子とそういう関係になる可能性もなくもないからちゃんと教えてあげたわよ?」
「すごいです。『結婚』! 愛し合う者が新たな家庭を築き、より強固な愛を育む。おはようからおやすみまで末永く共にできるのですね。まるで今の私たちではないですか!」
そんなに目を輝かせて言うとなんかこっちが恥ずかしくなってきた。
「あくまでぬいぐるみの方でね。とりあえず分かったならいいや。でも住民票とかの取得ってできるの?」
「そうなのよ。だからまずはドッ君の住民票を取得するためにどうするか考えてる」
「考えてるって……そんなの出来るの?」
無論、彼女がぬいぐるみ生まれだという事実を伏せる前提で話を進める。が、母は何かあざとい笑みを浮かべては大丈夫と大見えを張る。
おいおいマジかよ。こんな母親に頼ってると何かに巻き込まれないか心配だ。
「お母さんが何に精通してるか忘れてないでしょうね? こう見えて市役所で働いてるんだから!」
僕の気も知らないで母は胸を張って言う。
「ここから先はお母さんに任せなさい。大人の世界なんだから指をくわえてしゃぶってなさい。そのあとはちゃんと手を洗うように」
せめて何事もなく済ませてほしいと願うばかりだ。
「でもその前にひとつ決めないといけないのがドッ君の名前ね」
「もちろんドッ君です」
「「「却下」」」
三人の口がハモる。しかも即答。
蹴飛ばされた犬のようにくうんと落ち込むドッ君。自分の愛称が拒否られたのは相当ショックだったようだ。
「さすがに改名した方がいいよ? 怪しまれないためにも日本人らしい名前じゃないと」
「犬のぬいぐるみかぁ……いぬ……いぐるみ」
何かの呪文のように唱えてみる。僕のネーミングセンスは折り紙付きだ。こうやってちょっとずつ単語で区切って発音してみるとそれらしいのが浮かんでくる。
すると真っ先に
「
「悪くないわね。ナノちゃんやる〜。お母さん的にはなるべく
犬のぬいぐるみだから「いぬいくるみ」か。たしかにいいな。それらしさが残っていて丁度いい。
(でも……
「ご主人様? どうかなさいました?」
僕の考える素振りを一ミリも見逃さない飼い犬がいる。せっかくくれた機会だ。言っておかないと損だと思い、独り言のように
「……なぁ、『
「どうして『
「別に悪い意味じゃないと思うんだけどさ。なんと言うか直感的に、かな」
自分でもうまく説明できない。これでなければスッキリしないというか。
心持ちはっきりしない提案をしたため、頬を人差し指でかく。
「
「まぁね。で、結局君はどっちがいい?」
択が二つに増えたが、最終的にそれを決めるのは本人だ。だからあとはドッ君に
まるでペナルティキックを任されたかのように真剣な面持ちになるドッ君。唸り、腕を組み、目を
眉が限界まで釣り上がると同時に口を開く。
「『
つっかえたものを吐き出したあとの爽快な笑みを浮かべて彼女は未来をひとつ決めた。
「……そうか。じゃあ君はこれからは
「これからもよろしくね。クルミちゃん!」
「家族が一人増えたってお父さんにも知らせないとね! 今日は御馳走よ!」
いや母さんはまず住民票とか諸々のやつやってくれよ。でも問題はそれくらいか。
「では末永くよろしくお願いします。ご主人様!」
あったわ。問題がもう一つ。
僕に邪気のない笑顔で向く来未にひとつため息をつく。
「あのさ、僕のこと『ご主人様』って言うのは止めよ?」
すると
「呼び捨てでいいよ。
「お兄?」
「ですが最愛の人を呼び捨てなどよろしくないかと……」
どうやら『ご主人様』を諦められないらしい。それに代わる呼称を必死に考えているのだろう。
頭を抱え、
「修司様!」
「様禁止ぃ! 家族に様つけるやついるかぁ!」
「ナノもそう思う……」
「ううぅ……! では
ベッドから降りて僕の目の前まで
来未は嬉しさを滲ませる満面の笑みを浮かべては背中に手を回して抱きついてくる。なんかこう、
「えへへ〜。ありがとうございます。
僕の胸に埋めた顔は上を向く。ぬいぐるみのようなふわふわした可愛らしさがちょっとした甘い世話心を誘発する。事実右手が来未の頭に触れまいと騒いでいるのだ。
だめだ! こんな美少女がこれからずっと家にいるんだぞ。この程度のスキンシップで悶えてどうするんだ!
心の中で理性を制御しては思う。
(ああ、これだから人間ってやつは……)
母からは温かい、妹からは冷淡な視線を浴びながら美少女に抱きつかれている間、顔の紅潮を隠すことしか出来なかった。
数分間にわたる来未の熱烈なハグから解かれて、ようやく朝食を口にすることが出来た。一人増えた居間の空気はもとがぬいぐるみだからか、和みをあるものだった。残念ながら父は朝早く仕事へ出向いているので欠員一人という感じだが。
とにかく今の
誰にも信じられないことだが、僕の隣でテーブルに置かれた箸と白米を睨めっこしている
「てか
ブラウンのミドルショートはそのままの体位で答える。未確認と遭遇したような声だ。
「ごしゅ……
これ、というのは当然僕が今手に持っているお
「そうだけど……。あっ、そうか。食するという行為が初めてなのか」
さすがにドッ君を溺愛する僕と言えどもぬいぐるみにものの食べ方を教えるはずがない。教えて何になるのだ。
『
「じゃあ、まずは箸の持ち方からいきましょー」
そう息巻いた僕だが
「
呆気なく扱いの容易な食器を手渡されている。若い頃からそんな楽な道ばかり歩んでると強くなれないぞ。まあ人間初心者だし。さすが母上だ。
「ありがとうございます。お母様」
「箸はまた今度ね。食べ方も教えないといけないし」
「ナノが教えよっか?」
「箸でないといけなかったのですか?」
「僕たちは主に箸を使うんだよ。スプーンも使う時は使うし。外国人も日本に来た時に苦労するから焦る必要は無いよ」
できないから落ち込まないようにと励まして言ったのだが、ぬいぐるみに「外国人」やら「日本」とかが分かるのだろうかとふと疑問に思った。 どうやら
「なるほど。ですが私も日本人です。いつか修司君や
「あ、そうか。頑張れよ」
さらっと来未の口から日本人が出てきたのには驚きだった。一体来未はどれほどの知識を蓄えているのか……まあいいか。早く食べよ。
その後、粘着性の白い粒の集合体をちまちま噛んで飲み込むのに三十分ほどの時間を要したことは想像におまかせしたい。
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