第3話 犬飼来未

「と、いうわけで話は聞かせてもらったわ」

「「い、いつの間に……」」


 いつになく密な自室でさらに母親が参入してきた。まさか菜々野ななのが入った直後に扉の前でゴースティングしていたとは……。


 ちなみに彼女、仕方なくドッ君と呼ばせてもらう、がいつまでも裸では風邪を引きかねないと、母の命令で着なくなった服を着せられている。ほぼ無地の白のブカブカのシャツ。菜々野ななのより大きいサイズでなくても事足りたのはよかった。

 しかし下がない。菜々野ななのが持っているのはどれもショートジーンズで、さすがに小さすぎた。そこで僕の学校指定の体操服を履かせてやっている。

 本人は大喜び。洗ったはずなのにドッ君は「修司しゅうじ君の匂いがします」と言う。なんという鋭い嗅覚! まあいっか。減るもんじゃないし。おっと下着のことはご想像にお任せします。  


「いやー。いつか息子も誰かとねんごろになって朝日をバックにキッスするんだろうなって思ってはいたんだけど、それが今日だとは想定外。悪かったね。でも邪魔だけはしなかったんだよ? 初キッスおめでとう、修司しゅうじ

「……お兄が、女の子と、初キッス……」


 当然それだけ前々から聞いていたのでは僕が人型ドッ君に唇を奪われた場面もばっちり見られていた。そしてそのあとの母の茶化ちゃかしが止まるのを首を長くして待っていた。別にそんなのどうだっていいのに。


「じゃあこれからドッ君は鳩羽はとば家の一員ね」

「え? そうでなかったんですか?」


 ドッ君は不自然そうに首をかしげる。

 たしかに僕があの少女が亡くなった日から、ドッ君は家族の一員だと言い張っていたものだ。

 しかしそれはぬいぐるみとしての立ち位置が前提だったから成立していた建前たてまえに過ぎない。当の本人は本気にしていたようだが。


 母は我が子が一人増えたかのように微笑みながら説明する。


「ぬいぐるみだったらこの子は家族だって言い張っても何も問題はないの。法的にね? でも人が関わってくるんじゃ話はまた別になるの。人間には戸籍こせきっていうのがあって、まあいわゆるぬいぐるみの商品番号みたいな?」

「僕ら売られてなんかないけどね」

「売買目的じゃない、個人を管理する意味で私たちの生まれてから死ぬまでの身分関係をまとめられているの。それを証明するためのものでもあるの。そうするとドッ君はねぇ……」


 母は少し躊躇ためらった様子で言葉を止める。

 その意味を菜々野ななのとドッ君は理解出来ていないようだ。


「ついさっきぬいぐるみから転生しましたー、みたいな? じゃあドッ君、戸籍とかないじゃん」

「こせき? がないと何か大変なことでもあるのですか? ご主人様」


 まさかいち学生の僕に聞いてくるとは。知らない訳でもないから問題はない。少し視線が上を向く。


「婚姻届が出せないのと、えーと……渡航するためのパスポートが作れない。まぁ戸籍がなくても行政サービスはあらかた受けられるけどな」

「お母様、こんいんとは?」

「それはね………………(耳打ち)」

「あれ? じゃあ意外とドッ君って自由なんじゃ……」


 そう。そう解釈しても問題は無い。ただ本題はここからだ。


「戸籍は年々必要性が薄れてきている。そりゃあった方がいいが、本当に必要なのは住民票とマイナンバー。日本国民として生まれて生きるには欠かせないものだ」

「すごいですね!」

「おいそこ聞いてる!?」


 なんか僕が博識さらしてる最中にドッ君は母と何かヒソヒソ会話していた。まったくご主人様の話が聞けないなんて。そんな駄犬にはしつけが要るわ!


「すみません、ご主人様。先程『婚姻届』という言葉が聞こえてきたので『婚姻』の意味だけでもお母様に聞いていたのです」

「ドッ君、『結婚』を知らなかったのよ。我が子とそういう関係になる可能性もなくもないからちゃんと教えてあげたわよ?」

「すごいです。『結婚』! 愛し合う者が新たな家庭を築き、より強固な愛を育む。おはようからおやすみまで末永く共にできるのですね。まるで今の私たちではないですか!」


 そんなに目を輝かせて言うとなんかこっちが恥ずかしくなってきた。


「あくまでぬいぐるみの方でね。とりあえず分かったならいいや。でも住民票とかの取得ってできるの?」


 素朴そぼくな疑問。さすがに学校で習った知識がこれ以上ない。これからは大人に任せるしかない。


「そうなのよ。だからまずはドッ君の住民票を取得するためにどうするか考えてる」

「考えてるって……そんなの出来るの?」


 無論、彼女がぬいぐるみ生まれだという事実を伏せる前提で話を進める。が、母は何かあざとい笑みを浮かべては大丈夫と大見えを張る。


 おいおいマジかよ。こんな母親に頼ってると何かに巻き込まれないか心配だ。


「お母さんが何に精通してるか忘れてないでしょうね? こう見えて市役所で働いてるんだから!」


 僕の気も知らないで母は胸を張って言う。


「ここから先はお母さんに任せなさい。大人の世界なんだから指をくわえてしゃぶってなさい。そのあとはちゃんと手を洗うように」


 せめて何事もなく済ませてほしいと願うばかりだ。


「でもその前にひとつ決めないといけないのがドッ君の名前ね」

「もちろんドッ君です」

「「「却下」」」


 三人の口がハモる。しかも即答。

 蹴飛ばされた犬のようにくうんと落ち込むドッ君。自分の愛称が拒否られたのは相当ショックだったようだ。


「さすがに改名した方がいいよ? 怪しまれないためにも日本人らしい名前じゃないと」


 菜々野ななのがリカバリーに入る。頭をまた優しくでる。できた妹だ。僕に対してもこうだったらいいのに。なんてね。


「犬のぬいぐるみかぁ……いぬ……いぐるみ」


 何かの呪文のように唱えてみる。僕のネーミングセンスは折り紙付きだ。こうやってちょっとずつ単語で区切って発音してみるとそれらしいのが浮かんでくる。

 すると真っ先に菜々野ななのひらめいたようだ。


乾来未いぬいくるみ!」

「悪くないわね。ナノちゃんやる〜。お母さん的にはなるべく鳩羽はとば以外の苗字みょうじの方がいろいろ楽だから助かるわ」


 犬のぬいぐるみだから「いぬいくるみ」か。たしかにいいな。それらしさが残っていて丁度いい。


(でも……いぬいがな……)


「ご主人様? どうかなさいました?」


 僕の考える素振りを一ミリも見逃さない飼い犬がいる。せっかくくれた機会だ。言っておかないと損だと思い、独り言のようにつぶやく。


「……なぁ、『いぬい』は『犬飼いぬかい』にした方が良くないか?」         

「どうして『犬飼いぬかい』なの、お兄?」

「別に悪い意味じゃないと思うんだけどさ。なんと言うか直感的に、かな」


 自分でもうまく説明できない。これでなければスッキリしないというか。

 心持ちはっきりしない提案をしたため、頬を人差し指でかく。


修司しゅうじが論理的じゃなくなるなんて珍しいじゃない」

「まぁね。で、結局君はどっちがいい?」


 択が二つに増えたが、最終的にそれを決めるのは本人だ。だからあとはドッ君にゆだねた。彼女の将来にも関わることなんだ。


 まるでペナルティキックを任されたかのように真剣な面持ちになるドッ君。唸り、腕を組み、目をつむる。

 眉が限界まで釣り上がると同時に口を開く。


「『犬飼来未いぬかいくるみ』がいいです」


 つっかえたものを吐き出したあとの爽快な笑みを浮かべて彼女は未来をひとつ決めた。


「……そうか。じゃあ君はこれからは犬飼来未いぬかいくるみだ」

「これからもよろしくね。クルミちゃん!」

「家族が一人増えたってお父さんにも知らせないとね! 今日は御馳走よ!」


 いや母さんはまず住民票とか諸々のやつやってくれよ。でも問題はそれくらいか。


「では末永くよろしくお願いします。ご主人様!」


 あったわ。問題がもう一つ。

 僕に邪気のない笑顔で向く来未にひとつため息をつく。


「あのさ、僕のこと『ご主人様』って言うのは止めよ?」


 すると来未くるみは首を傾げて思考のポーズをとる。


「呼び捨てでいいよ。来未くるみ愚妹ぐもうとみたく姉妹になる必要なんてないし」

「お兄?」

「ですが最愛の人を呼び捨てなどよろしくないかと……」


 どうやら『ご主人様』を諦められないらしい。それに代わる呼称を必死に考えているのだろう。


 頭を抱え、うなり、出そうで出せないもどかしさに耐え、ついに来未は答えを出す。


「修司様!」

「様禁止ぃ! 家族に様つけるやついるかぁ!」

「ナノもそう思う……」

「ううぅ……! では修司しゅうじ君! 修司しゅうじ君です! これ以上は下げられません!」


 ベッドから降りて僕の目の前まで来未くるみは詰め寄る。勉強机に後ろを挟まれた僕は逃げ場を失う。仄かな香りが花をくすぐり、エメラルドの瞳に吸い込まれる。それに面食らった僕は仕方なく首を縦に振って許諾した。


 来未は嬉しさを滲ませる満面の笑みを浮かべては背中に手を回して抱きついてくる。なんかこう、肋骨ろっこつあたりに二つの弾力が感じられるのだが気のせいかな?


「えへへ〜。ありがとうございます。修司しゅうじ君!」


 僕の胸に埋めた顔は上を向く。ぬいぐるみのようなふわふわした可愛らしさがちょっとした甘い世話心を誘発する。事実右手が来未の頭に触れまいと騒いでいるのだ。


 だめだ! こんな美少女がこれからずっと家にいるんだぞ。この程度のスキンシップで悶えてどうするんだ!

 心の中で理性を制御しては思う。


(ああ、これだから人間ってやつは……)


 母からは温かい、妹からは冷淡な視線を浴びながら美少女に抱きつかれている間、顔の紅潮を隠すことしか出来なかった。






 数分間にわたる来未の熱烈なハグから解かれて、ようやく朝食を口にすることが出来た。一人増えた居間の空気はもとがぬいぐるみだからか、和みをあるものだった。残念ながら父は朝早く仕事へ出向いているので欠員一人という感じだが。

 とにかく今の鳩羽はとば家には新たな家族のためにしなくてはならないことが山のようにある。


 誰にも信じられないことだが、僕の隣でテーブルに置かれた箸と白米を睨めっこしている来未くるみの元の姿はドッ君ことぬいぐるみだ。体が変化したのを直に目撃したのでもなければどこかしらのカメラに映像として残されていることもない。ただ長い間ドッ君のそばにいた僕の感覚的な証拠のみで鳩羽はとば家全員が事実に納得がいくようだ。大丈夫かな。僕の家族。


「てか来未くるみはさっきから何じーっと朝食を眺めてるのさ?」


 ブラウンのミドルショートはそのままの体位で答える。未確認と遭遇したような声だ。


「ごしゅ……修司しゅうじ君。皆様人間はこれを体内に取り込んで生きているのですか?」


 これ、というのは当然僕が今手に持っているおわんに盛られた白米のことだ。


「そうだけど……。あっ、そうか。食するという行為が初めてなのか」


 来未くるみは激しく同意する。なるほど。たしかにぬいぐるみだったわけだから喋る口なければ食す口なし。箸の使い方はもちろん、噛み方や飲み方も知らない。

 さすがにドッ君を溺愛する僕と言えどもぬいぐるみにものの食べ方を教えるはずがない。教えて何になるのだ。


来未くるみタスクその一。衣食住の食を知りましょう』か。


「じゃあ、まずは箸の持ち方からいきましょー」


 そう息巻いた僕だが


来未くるみちゃん、箸はまだ難しいからスプーン使いなさい」


 呆気なく扱いの容易な食器を手渡されている。若い頃からそんな楽な道ばかり歩んでると強くなれないぞ。まあ人間初心者だし。さすが母上だ。


「ありがとうございます。お母様」

「箸はまた今度ね。食べ方も教えないといけないし」

「ナノが教えよっか?」

「箸でないといけなかったのですか?」

「僕たちは主に箸を使うんだよ。スプーンも使う時は使うし。外国人も日本に来た時に苦労するから焦る必要は無いよ」


 できないから落ち込まないようにと励まして言ったのだが、ぬいぐるみに「外国人」やら「日本」とかが分かるのだろうかとふと疑問に思った。 どうやら菜々野ななのもその様子だ。


「なるほど。ですが私もです。いつか修司君や菜々野ななのさんのように使いこなせるようになります!」

「あ、そうか。頑張れよ」


 さらっと来未の口から日本人が出てきたのには驚きだった。一体来未はどれほどの知識を蓄えているのか……まあいいか。早く食べよ。               


 その後、粘着性の白い粒の集合体をちまちま噛んで飲み込むのに三十分ほどの時間を要したことは想像におまかせしたい。

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