番外編2 ボクと漫画と食欲と

 ――――ぬいぐるみが人化した姿。


 彼女を他人に紹介する時、なんら問題なく信じてくれるのであればそう説明するであろう。

 しかし大概の人間は非科学的を信じようとしないのが世の常。

 まるで空から降ってくる美少女、訪れた春の妖精の擬人化とでもいう、荒唐無稽な話だ。


 すべての発端は、ある一人の青年がぬいぐるみに愛を注ぎすぎたことにある。

 そしてまたそのぬいぐるみも彼を愛した。常に愛される側である自身の存在から脱したい。

 想いは成就され、一人の人間となった。

 

 いや、或いはこのように言い表すこともできるかもしれない。


 ――――人の全てを知ろうとする人。






 犬飼来未いぬかいくるみの朝は遅い。


 かつてぬいぐるみ――『ドッ君』であった時は、所有者である鳩羽修司とともに毎朝の目覚めを共有していた。


 しかしある日突然、人の姿になってしまう。

 それも性別は修司と対局する存在の女。思春期の男子と同じベッドで寝ることは憚られる。

 来未は性の情報に関してまったく知識を持ち合わせていないため、思春期の意味や男女の違いすらも知らない。知るとしたら当分先になりそうだ。


 エメラルドをはめ込んだかのように煌めく翠眼。

 ビスクドールの造形にも勝る細い眉と唇。

 一切の癖を受け付けない茶髪のセミロング。

 全体的に日本人離れした外見に人々は性別問わず養いたいと思わずにはいられないのだとか。

 加えて十代にしては豊満な胸部。透き通る白い肌。整ったスタイルと無駄な肉がついていない四肢。

 ぬいぐるみ好きの変態と謳われている修司ですら彼女を直視できないのだ。


 以上の事情を加味したうえで修司の妹、菜々野の布団で一緒に寝るようになるが、かつての寝心地、温もりを感じながら目覚めることができない。


 よって彼女の朝は遅い。


 起きる。

 するとたいてい修司と菜々野が学校へ行く時刻とバッティング。目ボケ眼を擦りながら二人を見送る。


 その後リビングにて母の作る朝食を食す。

 来未は未だに箸を使えない。何度も家族の見真似をしているのだが、なかなかモノを掴めない。力がうまく箸に伝わるように指を扱えていないのだ。


「むう……。難しいですね。ご主人様もナノちゃんもどうしてあんなに器用に二本の棒で食べ物を掴めるのでしょうか……。ボクも早く使いこなせるようにならないと」


 白米を食べるには至るものの、球形のトマト、軟体の豆腐などはどうしてもスプーンを使わざるを得ない。

 拗ねながらも色とりどりの食事に手を付ける。


「ふん~~~~~~!! おいひ~~~!」


 それでも来未は食というものに至極恐悦であった。


 当然である。ぬいぐるみは食事をしないのだから。初めて知る味というものに喜びを覚えるのが人間である。

  

 三大欲求の一角が頭角を現すが如く、来未の皿に伸ばす手は止まらない。


 白米の、噛めば噛むほど溢れるデンプンの甘さ。粒粒の噛み応え。

 夕食の残り物である焼き鮭の塩見。ぱさぱさとしつつも柔らかい触感と香ばしい香り。

 シャキシャキとしたレタス。緑の葉から感じる瑞瑞しさ。また芯の固さもまた顎を刺激して食欲を誘う。

 体の芯から暖かくなるような蒸気を上げる味噌汁。ワカメ、大根、シメジに染み込んだ出汁の風味。塩加減抜群でありつつ、つい飲み干してしまう味噌の味。


 無限に広がる食の好奇心に囚われた来未。そんな彼女にもはや嫌いな食べ物は一切ない。


「来未ちゃん。いい食べっぷりね。ほら、お母さんの分もあげるわ」

「いいのですか!? ありがとうございます!」


 食を堪能するその姿を見てしまえば自らの分け前も気にせず、次々に与えてしまうのだとか。


 食の提供者、鳩羽母こと鳩羽凛那りんなは来未の皿に自らの鮭を移す。

 凛那は我が子の愛育とばかりに、来未が誕生した日から食べ物をたらふく食わせている。先述の来未誕生の経緯に関して一切疑いもしていないのだ。

 そのうえ来未に戸籍や住民票、海外渡航歴などの架空の個人情報を与えた。もはや母性を超越して公務員に潜む闇の権化である。人はこれを親バカだと言うのだろう。


 食事を終えた来未は満腹な腹を抱えて菜々野の部屋へと足を運ぶ。

 これからが彼女の日常である。


 敷きっぱなしの布団の下から菜々野の所有物である漫画を取り出す。


 タイトルは『神出鬼没! 鳥魔壁土君とりまかべどくん

 主人公は相手に惚れやすい体質の女子高生。学校の廊下を歩いていると、そこにクラスメイトの鳥魔壁土が現れる。そして出合い頭、突然壁ドンしてくるのだ。惚れやすい主人公はそんな鳥魔に一目惚れし、積極的になるものの、鳥魔自身は相手に好感を持たれるのを嫌う。主人公はめげずに何度も壁土にアタックを仕掛けていき、お互いの過去を共有していくうちに二人の距離は縮まっていく……という物語である。


 例に漏れず、来未は漫画の存在を知らない。

 初めて菜々野から勧められて目を通してみるとあら不思議。気づいたら物語に引き込まれていて、手にしていた本の巻数は7であった。


 来未は時を忘れ、ひたすら文字と絵を目で追っていたことに恐怖するが、物語の神秘に触れたのだと悟る。


 確かに来未は漫画を知らず、小説も読んだこともない。

 修司の勉強風景を眺めているうちに日本語を一人前に読み書きできる能力を習得していた。

 しかし彼女は動けなかった。ぬいぐるみとして生まれ、持ち主に一方的に愛されるだけの動かない道具。


 それゆえに、来未は自らの意思で自らのリテラシーを発揮することに喜びを覚えたのだ。まるで初めて逆上がりができて何度も繰り返す子どものように。


「ほほぅ……ん~…………ふふっ……」


 つい笑いをこぼしていることにも気が付いていないようだ。それだけ彼女は人間になったことを謳歌しているということだろう。


「あら、来未ちゃん。菜々野の部屋で何しているの?」


 凛那がドアから顔をのぞかせる。


「やけに静かに過ごしているから心配になっちゃってね。それ漫画?」

「はい。ナノちゃんから借りさせていただきました。非常に面白いです。しかし同時に胸が締められるような感じがしました。それでも嫌ではありませんでしたね。人の感情とは不思議なものです……」

「そうね。人間って案外面倒な生き物よ。人によって感受性が異なるし、そのうえ感情って読めないからね。例えば修司が寄り道して8時くらいに帰ってくる時、お母さんはどんな気持ちでしょーか? はい来未ちゃん!」


 突拍子もなく繰り出された問に困惑する来未。

 かじりついていた漫画を一旦閉じ、数秒間の思考の末出した答えは、


「……怒っている、のだと思います。お母様、いつもご主人様に遅いと叱っていましたしおそらく」

「正解は~…………半分正解! 五十点ってとこかな」

「半分? 感情とは一度に一種類しか表面に表せられないのでは?」

「そうじゃないのが人間なんだよね。怒ってるけど心配せずにはいられないし、試合に勝ったのに涙が出ちゃうとか。……好きなのに口じゃあ正反対のことを言ったりするものなの」


 来未は納得のいかない様子で低く唸る。首を傾げて思考するも、人間になりたての彼女には理解しがたいものだった。


「……ボクには解りかねます。好きであれば好きと言えばいいではないですか」

「まあそのうち分かるわよ。漫画とか小説を読んでいるうちにわからない感情とかあれば修司に聞いてみたら? いい発見になるはずだから」

「はい! ですがご主人様が帰ってくるにはまだ早いですね。勉強だと思って今のうちに全巻読んでみようと思います」


 再び来未は本を開く。

 彼女の瞳に灯る好機に満ちた炎は決して消えることがないだろう。人間という存在が彼女の理想であるうちは――――。


「そういえばそろそろお昼ね。……ところで来未ちゃん。ラーメンって聞いたことある?」

「ラーメン……たしかこの漫画に出てきました。アツアツの汁に満ちた丼に細長い糸の集合体が入れられ、その上にお肉やぐるぐるのもの、ネギが乗せられたものですね! そして箸とスプーンを同時に使う高難易度の食べ物」

「スプーンじゃなくてレンゲね。涎を垂らすくらい興味あるなら今日の昼食はそれに決まりね」


 来未は思わず立ち上がっては歓喜の声を上げる。

 そしてそれを微笑ましく見守る母、凛那。




 これはほんの一日の一場面。


 彼女が人の全てを知り尽くす日はいつになるのだろうか。


 その行方を知るのは来未のもつ好奇心だけ。

 今はまだ右も左もわからない赤子レベルだが、右手に漫画、左手に白地図、そして飽き足らぬ食欲がまだ見ぬ道を開拓するのだろう。


「あ、そうでした。この赤面している場面、二人は至近距離で見つめ合ったままどのような感情を抱いているのでしょうか? 早速ですが教えてください!」


 彼女が羞恥心を覚えるにはいつになるのだろうか。

 それは神のみぞ知る。                     

                             



                             *本編24話に続く

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