番外編 日常
番外編1 僕とぬいぐるみと裁縫と
――――ぬいぐるみ好きの変態。
この男の人間性を表すうえで必要不可欠な表現そのものである。
ましてやこれ以外にあるということはないだろう。
いや、或いはこう言うことも可能かもしれない。
――――人間の『死』を理解できない、人を救おうとする人間。
鳩羽修司の朝は遅い。
今年から高校生となり、早朝からバス通学をしなければならないというものの、朝7時に起きなければ彼のポテンシャルはキープできない。
その理由はただ一つ。
「おはようドッ君。今日もずっと一緒だよ? ああ、あったかいなあ……。一生離れたくないよ。むにゃむにゃ……」
彼がベッドの中で抱いているもの、それこそが一日の活動エネルギーの源である。
ゴールデンレトリバーのぬいぐるみ――『ドッ君』。
小学五年生の頃、当時修司と同じ病気を患っていた一人の少女から受け継いだ宝物。
全長約一メートルほどの大きさであるために抱きかかえるだけでなく足で挟んで密着度を増すことも可能。それはまるで某アニマルビデオにて稀に登場するだいしゅき〇〇〇〇のように(察してくれ)。
そして彼はドッ君をこよなく愛し続け、ぬいぐるみの魅力に惹かれていったのだ。
修司の部屋にある『愛の楽園』は自分で集めたぬいぐるみを一カ所に集約させた溜まり場と化している。
壁に設けられた奥行に詰め込んではベッドからその愛らしい姿をヌフヌフしながら堪能する。
妹の菜々野が兄の部屋に入っては路上で露出魔に遭った時のような酷い表情を浮かべるもののお構いなし。堂々とぬいぐるみと口づけもするため、菜々野がそんな兄貴のことを「変態」と称すのは必然と言えよう。
しかしそんな腑抜けた男だが、意外にも手先が器用なのだ。
「フンフ~♪ Oh, yes! 今日もドッ君サイッコーに可愛いぜ!
誰も居ない部室で一人。鼻歌まじりに奇声を上げ、訳が支離滅裂な歌詞を口遊みながら手にしているのは指の先から第二関節までの長さしかない一本の針と、綿を詰めた布生地の塊。
針の尻に空いている蟻んこ一匹に満たない穴を睨みながら手縫い糸を通す。
息をするように玉結びし、自身の手足のように自由自在に針を扱う。左右両方の指をタイミングよく動かし、刺し間違えることもなく、また一ミクロンのずれもなく線上に沿って縫っていく。
「鳩羽君……。さっき階段まで叫び声が聞こえてきたけど」
手芸部部長、
しかしそんな冷たい視線も軽くいなしてしまうのがこの男。校内でも随一の怖いもの知らずと恐れられ? ている。部外の者に先刻の歌唱を聴かれても何ら恥じることはない。
「今の僕は誰にも止められませんよ!? いくぜ! かがり縫いからの~……いった!!」
「バカなの?」
「へへへ。調子乗っちゃいました」
修司の人差し指からゴマ粒ほどの血だまりが滲み出ている。高速で布端を縫おうとしたため、誤って針で刺してしまったのだ。
そして何事もなかったかのようにまた作業に戻る。いつものことである。
千暁は救急箱から絆創膏を取り出し、修司の手を強引に止め、怪我の箇所に巻き付ける。
「はい! 応急処置終わり! これでもう今月分の絆創膏は尽きたからね。次からは部費にこれも追加するからね」
「ちょっ! そんなことしたら材料枠が狭まりますよ!?」
「誰のせいだと思っとんじゃコラぁ!! あんたが調子乗るたびに私のポッケから絆創膏が消えていくんよ? いい加減にせえや!」
「じゃあ僕に渡さなきゃいいじゃないですか」
「……」
そう、この男。普段は黙っていれば何も言うことのない普通の陰キャなのだが、つい無意識に要らぬ口を挟むのだ。
千暁は呆れを通り越して落胆した。
鳩羽修司はたしかに裁縫に秀でた腕を持っている。
その代わりに口の利き方が玉に瑕だということを入部当初から気にしていたのである。もう何枚無駄にしたのかわからない絆創膏はこの男が貪る。
それでも彼女は怪我をした後輩を放っては置けない。それが部長の使命であり、義務であるから。
「ほんと、もう無茶しないでよ。たかが刺し傷でも見てるこっちが困るの」
「……はい。すみませんでした」
ようやく落ち着きを取り戻したのか、俯き加減に千暁に頭を下げる。物分かりがいいのもまた彼の特徴である。
「まあ解ればよろしい。ちなみに今度はどんなの作ってるの?」
「小熊のぬいぐるみです」
すると千暁は獲物を見つけたように目を細め、口元に笑みを浮かべながら修司の隣の席に腰を下ろす。
「へえ~? クマさんね~?」
「な、なんですか?」
「いや、誰かさんの好物を作っていたなんて。その真意を是非とも聞きたいと思って」
千暁はこの場にいない一人の後輩の姿を思い浮かべた。色恋沙汰には目がない彼女は修司のそれらしい行動を見つけては食い付くように話しかける。恋愛を成就させるのも部長の義務、とでも思っているのであろう。
「ねえねえ。実際どうなのよ二人って。できてるんじゃないの? 好きなの? 告らないの? ねえねえ!」
「近いですよぶちょ――――わっ!!」
加減を抑えられなかったのか、千暁が修司を椅子から落としてしまう。
背中から落下する修司をかばおうと背中に腕を回し、そのまま千暁が下になるように空中で回転する。
――――ドサッ。
結果、修司は背中を床に打ち付けることなく、逆に千暁が下になっていた。
そしてその構図は床に女子を追い詰める、いわゆる床ドンとなっていた。
「部長! 大丈夫ですか!?」
「いってて……。ヘーキヘーキ。ごめんね――――ってこの恰好は……」
千暁は気づいたようだ。今の体勢は第三者に見られてはならないものだということに。
真っ先に修司の手をどけて起き上がろうとしたその時、部室のドアが開かれた。
入ってきたのは黒い長髪をたなびかせるスレンダー体型をした一人の女子生徒。
「こんにちわっぱーまげわっぱー。さっきすごい音したけど何か…………え?」
「よ、天宮。遅かったじゃんか」
修司が千暁を押し倒している場面に出くわし、天宮は言葉を失ってしまう。当の押し倒している本人はまったく事態の重大さに気付いていない。
「しゅー、じん? なに、してるの?」
彼女からは一切の温厚さが捨てられ、マリーゴールドの瞳には陰りが生じている。口元の笑みはすっかり消え、ゆっくりと引きずるような足取りはまるで
その頃千暁はようやく床ドンから抜け出し、天宮のもとへ駆け寄る。
「ま、麻理ちゃん! これはね、ただの事故でね? 鳩羽君は故意に私を押し倒してたわけじゃないんだよ!」
「しゅーじん……部長と、何してたの? ……ねえ、幻滅なんて、しないからさ」
「なんか誤解してないか? 部長は僕を助けてくれてそれでこうなったんだよ」
「へー。助けてもらったお礼に押し倒したんだ~。いつにも増して面白い嘘吐くね」
「なんかお前、笑ってるようで全然笑ってないじゃん。こわ」
天宮の問い詰めにさすがの修司も異変に気付く。千暁の必死の弁解は敢えてスルーされ、問われている修司は
すると修司は思い出したように立ち上がり、机に放置したままのぬいぐるみを手に取る。その場で最後の仕上げをしてしまい、余分な糸を歯で千切る。
「はい。中間テストの賭け。ちゃっちいかもしれないけどクマさんのぬいぐるみ」
天宮に手のひらサイズの純白のテディベアを差し出される。
すると先程までの陰はなくなり、いつもの天真爛漫な笑みを浮かべてプレゼントを受けとる。
「はああああ……カワイイ……」
頭部を細い指先で撫でながら短い四肢をくいくいと弄ぶ。
「天宮が来るまでそれ作ってたんだ。でも部長がいつものドジスキル発動したからああなったんだよ」
「え、私のせい? いやそうだけどさ……」
「ああ! そういうことか! そうだよねー。しゅーじんがあんなことするわけないよね~。まったく、部長ったらいつも通りですね!」
「麻理ちゃん。そこは納得しないで……」
訪れた嵐はなんとか過ぎ去り、最悪とならずに幕を閉じた。
これが三人だけの手芸部。ほんの一日の一場面。
アンバランスな後輩二人を抱える千暁はこう呟く。
「あんたたち本当にぬいぐるみ好きよね」
すると修司が後頭部に手を当てながらこう答える。
「ぬいぐるみは僕だけの幸せを詰め込める道具ですけど、同時に他の人とを繋ぐ一つのコミュニケーションツールだと思うんですよ。だから僕たちはこのぬいぐるみを介して会話するんです」
その表情は怖いもの知らずと知られた男の表情ではなく、少し照れ臭そうにする人間の表情であった。
羞恥心を隠しきれないことを憎む彼はこう思うのであった。
――――これだから人間ってやつは。
了
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