第26話 失楽園①

 ――10日目――


「おはよ。おかえり、来未」

 

 ベッドの上で美少女と迎える朝はどれほど清々しいものなのか。というレポートが二百字程度なら書けそうな気がした。


 三度目となる朝チュン(語弊あり)にも慣れてしまったが、うっすらと翠眼の瞳を見せる来未の頬を突く。

 

「ごしゅじん、……さま?」

「おはよう。ごめんな。あんまり構ってやれなくて」

「……そうでした。ボク、また元の姿に戻ってしまったのですね」


 僕が昨夜帰宅した直後、菜々野から突然来未の様態を聞かされ、確認しに行ったときには既に愛しのドッ君に変化していた。先日のように藻掻き苦しみ、高熱を発していたという。


 そしてドッ君という残骸を僕は欲求の高ぶるままに貪ろうとした。九日ぶりの再会に喜ばないはずがない。

 しかし今の僕にはそんな気力もない。たった数回のキスに留め、半裸でともにベッドイン。一夜を明かし、今に至る。


 来未は体を起こし、自身がマッパだということに気付くも恥じらうことなく菜々野の部屋へと行ってしまった。


「あれ、なんか元気ないな」


 毎朝の来未の様子から察するに、おそらく朝が苦手なのだろう。でもそれ以上に開口一番に僕の唇を奪ってくると予期していたのだが……いや期待してたわけじゃないんだぞ。とにかく来未の様子がおかしい。

 『愛』の供給をしてあげられなかったから拗ねているのだろうか。だとしたら申し訳なかったと思う。

 

 伸びをして覚醒を促そうとすると、ふと目に入るものがあった。

 ぬいぐるみが敷き詰められた「愛の楽園」だ。


 思えば最後にこの子たちを愛でたのはいつだろうと疑問に思う。

 

 ――――いや、今までももしかしたら新しいぬいぐるみを連れてきては無造作に置いてはドッ君が一番だと言い張って忘れてきたのではないか?


「……ライオ、サザン、ミーネ、ナエさん、サンダース」


 一応全部のぬいぐるみの名前は朝飯前とばかりに口ずさむ。誰一人として忘れてなどいない。

 でもドッ君のように一緒のベッドで寝ていないし、一回だけ抱きしめてまた他の子に目移りして……


 だとしたら来未の気持ちはこの子たちと同じなのかもしれない。


 ぬいぐるみには自我がある。来未が証明した事実である。

 人に忘れられるほど傷つくことはない。



 ――――いい悪いに関わらず、誰かの目に留まることは大事なことだよ



 部長が僕に言った言葉が脳裏をよぎる。今更ながらその言葉の意味と部長の真意が分かった気がした。


 僕は誰も傷つけたくない。傷つくところは誰一人として見たくない。たとえそれがぬいぐるみだとしても。


 立ち上がり、すたすた菜々野の部屋へと入る。妹の着替えを無視。漫画を貪るように読み込む私服を着た来未の前まで寄る。


「来未、ごめん。君を傷つけてしまった。僕は自分のことで手一杯で、知らぬ存ぜんでいた。だから今、その埋め合わせをしていいか?」


 来未は伏せていた目をこちらに向けては口元を本で覆う。


「……ご主人様、最近ボクを見てくれませんでした。でも忙しいのであればボクのために時間を割くことは避けたかった。無理にとは言いません。できれば、でいいんです」

「わかった。約束するよ」


 そう言って僕は来未の頭を撫でた。これまでできなかった分、盛大にだ。

 頭を撫でるだけで『愛』が供給されるならそれに越したことはない。でも本当にこのやり方が合っているのだろうか。


「お兄……妹の部屋に入ってくるのはどうかと思うけど。早くしないと遅刻するよ?」

「あ、てかまだ朝食食べてないんだった! 悪い、帰ってきたらまたしてあげるから!」

「……」


 そう言い残して僕は性急に支度をし、家を出た。




 来未がドッ君になる時の苦痛は尋常ではないはず。AEDが使えないという過去の一例がある以上、導かれる結論はおそらくこうなる。


 来未に残った『愛』が底を尽きる。これがないと人として活動できず、人間の姿を保つこともできない。ここまでは颯汰が教えてくれた答え。

 問題は次だ。


 すると体から高熱を発し、自らの細胞を殺す。ぬいぐるみになるための下ごしらえと言ってもいい。

 続いて全ての臓器が機能停止する。例に漏れず心臓もだ。


 元来AEDは心室細動(不整脈で心室が痙攣してしまう状態)の場合のみに使用可能となる。完全に停止した心臓を動かすものだと勘違いしがちだが、その場合は機械本体が電気ショックの指示を出さない。初めて来未がドッ君になった時のように。


 心臓が停止することで発生する痛覚を想像するだけで身震いしてしまう。そんなもの、人間が耐えられるはずがない。しかしそれを二度も経験している来未はどれだけの苦痛を――――




 僕は誰も傷つけない。傷つく誰かを見たくない。


 だから僕は来未を来未のままに留めさせる。それが今の僕にできる最大限のことだ。彼女に詰め寄られるたびに羞恥心晒して狼狽えている場合ではないのだ。いい加減自覚を持たなければならない。


 いや、再認識すると言った方が合っている。




 人間は弱すぎる。

 だから僕が守る。




 でも人は思っているよりもっと脆い生き物であった。

 それには一切気が付くことができなかった。


 外面についた傷がすべてではない。




 ――5日目(二度目の帰還から)――


 ……眠い。


 ただでさえ忙しいというのに帰る時刻は遅いまま。

 家についても頭を使うデスクワークが待っている。

 結果として睡眠時間は四時間ほど。昨日は塾の課題と復習をやり切るのにほとんどの睡眠時間を使った。こんな姿を韮磨和先生に見られた日には医者になる人間とは思えない、と言われそうだ。


 いい加減母もうるさく忠告してきた。仕方ないじゃないか。何一つ失いたくないんだもん。

 菜々野にも今日こそは寝かしつけようと部屋に割り込んでくるが今月だけだと言って逆に寝かしつける。

 そんでもって来未は――――


「ほら、こっちおいで」

「……はい」


 勉強机に向かって作業する傍ら、来未を膝の上に乗せて余った左手を腰に回す。首筋がもろに顔をうずめているが、人に対する煩悩など僕にはほぼ存在しないので無心を貫く。

 思ったよりも軽いな。と考える暇もなくその体位で授業の課題を進める。


 来未曰く、『愛』は僕と密着していれば供給されているようなので、お互い座ったままなこの状態で三日間構ってやっている。何より効率が良い。右手はペンを動かすのに使って、左腕は来未の身体に巻き付けているがなんとか手は動かせる。限られた可動域を駆使して教科書参考書類を扱うのだ。


 カタカタシャッシャと無言で作業するが、デスクライトの臙脂色の明かりをじっと見つめる来未が気にかけてくれる。


「あの、足は痺れないのですか?」

「んー大丈夫。しばらくこの状態でも僕は問題ないよ。来未は眠たくなったらいつでも寝ていいよ。もちろん菜々野の部屋でな?」

「はい、ですがご主人様は……」

「大丈夫だってば。来未だってこうしてないとすぐにドッ君に戻るだろ?」

「…………すみません」

「なんで謝るのさ? 仕方ないじゃないか。戻る時、あんなに苦しそうにして。僕はそんな来未が見たくない。来未だって痛いのは嫌だろ?」


 黙ったまま頷く。しかしなぜかその表情は僕の真意と食い違っているような違和感を与える。


「もう、大丈夫です。ありがとうございました」


 そっと僕の足から下りる来未。そのまま僕の部屋を出ていったしまった。


「おやすみー」


 だがその返事はなかった。いつもは返してくれるんだけどな。


 その後も僕は体力のあらん限りを費やして朝まで過ごした。



――6日目――




―――――――来未が失踪した。

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