第24話 愛の供給

――3日目――


 昨日の僕は散々な目に遭った。

 

 来未が突然の学校見学をしに来てはクラスメイトからの視線が冷たくなるわ、放課後は生徒会長が僕の資金不正使用を巡って結局文化祭実行委員に強制的に入らされるわ、来未を先に帰らせて僕は居残って遅くまで事務作業してたし、まあそんな一日であった。


 今日ももちろん学校だ。


 一日の授業が終わり、みんなからの視線も耐え抜いた。相変わらず痛かったよ。


 本来ならこのまま放課後残って実行委員会一員として地獄の事務作業に追われなければならない。

 しかし今日は水曜日。あいにく予定が入っているのだ。


「まあ塾ならば仕方があるまい。学生の本分は学業にある。今日は『俺たち』に任せていってこい」

「すみません。ありがとうございます。失礼します」


 生徒会長に背中を押されて僕は閑散とした生徒会室を去る。

 罪悪感を感じる必要など微塵もない。だがあの生徒会長に激励されると自分が悪いことをしてしまった感じが残るのだ。

 

 とはいえ週3の塾は欠かさずに行かねばならない。とくに医学部を志望する高校生はこの時期からどんどん授業の先取りをしていくのだ。高校2年生には高校数学は全範囲を終わらせていないといけないし、そのためにも一日でも休んでいられない。



「……というわけでこの高次方程式を展開した時に出てくる係数は、すべて組み合わせによるものなんだ。これとパスカルの三角形も併せて覚えとくように。では今日はここまで。課題はテキストの練習問題五問と応用問題二問。わからないところがあれば質問箱に投稿して。一応匿名だから。以上解散!」


(マジかよ。今までより断然理解しにくいってのにそれを七問も解かせるのかよ)


 数学Ⅱの範囲を今は扱っているのだが、授業を真面目に聞いているというのにてんでわからない。これでは先が思いやられる。


 ふと周りの生徒を見回す。

 僕の刈萩かりはぎよりずっと偏差値の高い進学校の制服を着た男女が複数人。実力あってこの授業を聞いているのだろう。彼らの表情からは新しい発見による好機に満ちている。不明な点は一切ないようだ。


(ヤバいな……。なんとか復習で挽回しないと!)



 そして家に帰ったのはお星様もうっすらと見える夜十時。


 お疲れな僕を労い夕食を提供してくれる母。

 今日も帰りが遅いと案ずる菜々野。

 そして――――



「おかえりなさいご主人様! 早速ですがボクに壁ドンしてください!」

「そんな知識、主人は教えた記憶なんてないぞ?」


 部屋に戻るとパジャマ姿の来未がベッドに居座ってた。

 天宮選抜の着ぐるみだ。フードに犬の耳が付いているのがチャームポイント、らしい。


 風呂上りなのか、白い肌が火照っている。ブラウンの髪は乾ききっておらず、柑橘系のシャンプーの匂いがかすかに僕の鼻に届く。


(そうだな。知らない男のベッドに座ってはいけないとも教えないとな)


「漫画、というのをナノちゃんから借りまして、家でお留守番をしている間に読んでみたら引き込まれるように読み込んでしまいました! 面白いですね! アニメ、というのも興味出てきました!」

「へー。僕はあんまり漫画は読まないから知らなんだけど。その本はどんな内容なの?」

「主人公の男の子がとにかく所かまわずに出会った女の子に壁ドンしていくのですが……」

「どんな主人公だよ!! 畜生変態はんざいじゃねえか!」


 そんなの公序良俗違反で即行逮捕だ。と正論をかざす僕を必死で落ち着かせる。


「待ってください! それは作中でも指摘されていますし、目的あってのことなんです」

「出会いがしら、壁ドンして立ち去るのはどうかと思うけどね」

「ざっくりした内容は、ある日主人公がいつものように外で女子高生に壁ドンしているとその方がクラスの女子だったんです」

「終わったな、ソイツ」

「でも主人公さんはいつものように壁ドンして快楽を覚えることもなく、がっかりしてその場を立ち去ろうとします」

「菜々野はそんなの読んでんのか。ちょっとベッドの下覗いてくる」

「ナノちゃんはベッドではなく布団ですが……」


 ですよねー。てか今更思うのだがなんで妹だけ布団なのだろう。

 

「続きなんですが、逆にされた彼女はその壁ドンに心を奪われてしまい、主人公の気を引こうと積極的に絡むようになるんです。回を重ねるたびに二人は壁ドンを通して心に隠していた過去や秘密を打ち明けるようになって、そして最後の壁ドンは……」

「待て!! それ以上はネタバレになる! 後で見るから言うな」


 え、なにそれめっちゃ気になるんですけど。来未にいいところまでのあらすじ概要を教えてもらってよかったと思う。


「読んでくれるんですか!?」

 

 もちろん、と快く首肯したかったが荷物の山が視界に入り、


「悪い。また今度な」


 やるべきことが残っているんだ。それを先に潰しておかないと自由なんてものはない。

 せっかく勧めてくれた来未に詫びて勉強机に向かう。


 そんな僕の腕をガシッと掴み引き留める。


「でしたらせめて、ボクに壁ドンしてください!」

「僕に畜生変態人間はんざいしゃになれと?」


 しかし困り果てたのは僕だけではなかった。来未もなにやら切実な様子で上目遣いに僕を見る。


「そうでないと『愛』が底をつきてぬいぐるみドッ君に戻ってしまいます。今朝からすこしムズムズするので供給が欲しいのです」

「あー。そういえばそうだったな」

「今日はずっと家にいたので運動していません。そのため若干ですがこの姿でいられるようです」

「……手つなぐとかハグとかさ、せめてハードル下げようよ。僕童貞だし」

「どーてい?」

「失言でした撤回します。……はあ、じゃあ一回だけね?」


 億劫な僕はそのまま来未をドアの近くに誘導させる。

 対してやぶさかでない彼女は壁に背中をつけて僕を見上げる。翠眼の瞳と視線がぶつかり、気まずさを感じて咄嗟に眼を反らしてしまう。


「ダメです! 主人公曰く壁ドンする時は視線を逸らすべからず、と言ってます」

 

(あの野郎~!! 漫画の世界だからって来未に変なこと吹き込みやがって!!) 

 

 心の中で例の主人公を憎むが、このままでは埒が明かないので来未に詰め寄る。わくわく、と興奮しているのが一目でわかる。近くで香った芳香が強くなり、頭が眩む。


 言われた通り、来未との視線を合わせる。

 

 そして壁に目がけて掌をつく。



 ――――ドンッ! 



 響き渡る衝突音に驚いたのか、来未は目を合わせたまま茫然としていた。

 鼻の先が当たってしまうほど来未の幼く可愛らしい顔が近くにある。


 来未は口をパクパクさせ、翠眼の眼を金目の如く見開いている。

 そして何度か瞬きすると、なにやら物足りなさそうに唇を尖らせる。


(いや、この状態でキスはきついっすよ来未さん!)


 僕が躊躇っているにもかかわらず、来未は瞼を閉じる。


 何もかもを受け入れる姿勢に僕はたじろいでしまう。しかし壁についた手は打ち付けられているのかと思うほど頑なに離れない。




 目の前にはキスを待つ来未。


 僕はその細くてきれいに色づいた唇に眼が離せなくなり、次第に無意識に距離を縮めていき――――





「さっきの音はなんだったのお兄!? 何してt……」

「「…………」」


 なんか、デジャブだなあと思いつつ、僕は勉強机に向かうことなく正座で再三同じ説教を受けていた。

 

 こうして僕の貴重な一日が潰えていくのだった。


 来未の表情は至極恐悦、というようには見えなかった。

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