第二部 失楽園

第11話 善悪の知識の樹

「いやー。キミが一体どんな目に合ってたなんて私には想像しがたいね」


 腕を組んでけらけらと笑ってみせる。縦にだけ長く、横幅が鉛筆のように細い体型をしたなめらかな口調の男性。ブラックコーヒーを見事に飲んでは喫茶店の雰囲気を堪能している。


 呆れながらも同感し、苦笑してしまう。


 今この場にいるのは僕と先生の二人だけ。菜々野ななの天宮あまみやは例の服屋で来未くるみの服を選抜しているのだと。モデルがいなくても妄想で服選びができるって……。なお菜々野は、来未がドッ君に戻ったということを知り、泣き止んでは前しか向かなくなった。

 そして僕たち男は不要ということが分かってしまったので、同じ階にある有名喫茶店「スナバ」へ行き、助けてもらったお礼を含めて先生と雑談をすることになった。


 僕はテーブルに置かれたチョコリスタで舌を湿らすと同時に糖分を補充する。


「まったくですね。ともあれ、助けてくれてありがとうございます、韮磨和にらまな先生」


 韮磨和一登にらまなかずと。韮磨和内科の院長であり、僕に医学を教えてくれた恩師だ。また、僕の命の恩人でもある。幼少期に罹った難病を見事に完治させるほど、また日本国内では名の知れた医者なのだ。


「そんなかしこまらんでいいってー。私とキミの仲じゃないか」


 そして細いスタイルと堀の深い美しい鼻梁びりょうをもったイケメンでもある。さっきから店内の女性がこちらをチラチラと見てくるのだが。BLではないとはっきり言いたい。こういう扱いを受けるのも慣れて……いる、なんて言ったら御幣を生むから言わないけど。


「ところで。キミがさっき、『人は救えない生き物』、なんて言ったことに私は少し驚いてるんだ。悪い意味じゃないんだけど」

「はあ」


 さっき、というのは菜々野が号泣していた時に僕が慰めていた時のことを指す。

 いつもの飄々とした態度は真剣な眼差しへと豹変している。


「とても医者を目指している人の口から出てくる言葉じゃないだろうね。少なくともさっき担架を運んできたごっついおじさんは言わないかな」

「僕もそう思います」


 肩身が狭い。週一で医療のノウハウをマンツーマンで受けさせている僕からしたら先生の発言は「私があれだけ教え込んだのにどうやら理解できていないようだ……処す!」、などと言われているも同然に思えるのだ。


 身構えていると、先生は一息ついていつもの雰囲気に戻る。


「そんなことはおいといてぇ~。まあなんというか、世の中には不思議なこともあるんだねぇ。そのぬいぐるみが人の姿になって動いて喋ったなんてにわかに信じ難い……」

「僕も今朝突然の出来事で驚きましたよ。ベッドに知らない女の子が潜り込んでたんです。なんやかんやで犬養来未いぬかいくるみとして生きていくのだと思ってたけどこの有様です」

「戻ってしまったと。にしては演出が派手だね。AEDまで使おうとしたんだから」

「たしかに。まさかぬいぐるみと人間の存在を行き来しているんでしょうか?」


 背中にくっついている一体のぬいぐるみ。ドッ君。腕が二本の糸で繋えられているため、首に通して背負うことができるのだ。こういう仕様なのかはわからない。難点は呼吸が苦しいくらいだ。


 ちなみに知っていると思うが、僕は根っからのぬいぐるみ好きの変態だ。公共の場で一メートルほどの大きさのぬいぐるみを身に着けて出歩くなんて朝飯前。

 もう二度とできないと後悔したことの一つでもある。


「あいかわらず怖いもの知らずだねぇ」

「よく言われます。でも僕はぬいぐるみを愛してますから」

「そっか……。瑞稀みずきが聞いたらきっと喜ぶよ」


 朗らかな空気は一瞬だけ冷水を撒いたような変化が起きた。


 韮磨和瑞稀にらまなみずき。先生の愛娘にして、かつて僕と同じ難病を患っていた今は亡き少女の名前。


「もとは私が瑞稀の誕生日に与えたものであるから、こうやって長い間大切にされているのを見ると嬉しいよ」

「はい」


 よくも怖いもの知らずと言えたものだ。僕といえども、この手の話の雰囲気は苦手である。ましてや話相手の死去した娘さんが突然出てくるのだ。気まずいなんてものをとうに通り越している。

 自分の娘を救うことができず、見ず知らずの少年を生かした現実を先生は受け入れられたのだろうか。同じ病気。進行具合が彼女の方が早かった。だから早期に治療しようにも段階的に手遅れだったそうだ。


「どうして、僕なんかに医療を教えてくれるんですか?」


 いつの間にか僕はふと思ったことを口にしていた。失言だったと慌てて口を塞ぐが、そんな僕を先生は笑って許した。


「やっぱりキミは怖いもの知らずだ。いや、いいんだよ。瑞稀は私の技量によって亡くなったんだ。……まあそうだね。鳩羽君が私に似ていたから、かな?」

「そうなんですか?」

「実は私も人間が好きになれないタチでね。覚えてるだろ? キミにあげた一冊の本」

「……! 旧約聖書ですね」


 そうだった。


 隣の瑞稀がこの世を去り、悲観に暮れていた僕のもとに旧約聖書をおいて読むよう勧めてくれたのは先生だ。


「今思えばそんなものを小学生に読ませるなんて布教の範疇を超えてるよね。で、今の鳩羽君はあの話、どう思った?」

「真っ先に思ったのは、エバが食べるべきは『生命の樹』の実だったってことですね。蛇に唆されていたのだから仕方ないのは頷けますが、だとしたら人間は蛇によって支配されてるんじゃないかとも思いました」

「ハハハ! それを神様が聞いたら蛇なんて生かしておかないだろうね!」

「い、一応言っておきますけど個人の感想、見解ですからね!?」


 大声で笑いだす先生の口を塞ぐ。 


 宗教を崇拝している人たちに聞かれたら何を言われるか、たまったもんじゃない。もちろん話の根幹に納得がいかず、愚痴っているのではない。


「わかってるわかってる。たしかに人類は『善悪の知識の樹』に手を出した結果生まれた存在。逆に言えば『生命の樹』に干渉しなかったがゆえに生まれた生き物だね。でも知ってるかい? 人類はがなければ命を欲したりはしない」

「……!?」


 それは一体どういうことか。僕には全くわからなかった。


 突然、テーブルに置かれていた先生のスマホが鳴りだした。


「しまった。もう職場に行かないと」


 どうやら急用ができたらしい。空のカップを持って立ち上がる。僕も急いで立ち上がる。聞きたいことがあったからだ。


「先生っ、さっきの話……」


 食いつくように先生に呼びかけるが足を止めない。代わりに顔だけこちらに向けて囁くようにこう言う。


「鳩羽君に一つ言っておきたいことがある。

「え?」


 どこかで言われたことがある気がした。記憶をたどってもすぐには思い出せず、気づけば先生は店からいなくなっていた。


 ぬいぐるみを愛せ、とは僕にとって簡単な宿題だ。へそで茶でもコーヒーでも沸かせる。

 ただ問題は先生がなぜ旧約聖書なんて高等な教科書を僕に与えたのか。また、ぬいぐるみを愛することに何の意味があるのか。

 マンツーマンを受けて五年間。僕はあの先生のことをまだよく知らないようだ。


「お兄ー!」


 店の外から菜々野の呼び声が聞こえる。天宮も手を振っている。


 そういえば昼食がまだだった。二人も腹を空かしているのだろうか。あとで聞いてみよっと。

 もちろんデリカシーがないと言われたよ。でもいいじゃないか。腹の空き具合くらい聞いたって。

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