第33話
ぼんやりと電車に揺られながら、これからどうしようかと考える。
バイトのある日は夜遅くなるため、母親には晩御飯は自分で何とかしろと言われているのだ。
何か食べて帰るか、それともお弁当でも買って帰ろうかと1人で考えていれば、ふと懐かしい香りが鼻腔を擽って驚いて顔を上げた。
「え……」
優しい石鹸の香り。
あの子の愛用していた香水と同じものだけれど、勿論それを纏っていたのは天使ではなかった。
年齢も、見た目だって違う。
全く別の女性の香りに、期待してしまった自分がいた。
「……ッ」
1人で期待して、勝手に絶望して。
香りは呪いだなんてよく言ったものだ。
当時の香りを思い出すだけで、途端に胸がキュッと苦しくなって、あの頃の想いが込み上げてくる。
必死に忘れようとしても、無理やりあの頃へと引き摺り込まれるのだ。
あの子に囚われて、前に進めない。
クリスマスに貰った香水だって、あれ以来一度もつけていない。
お揃いで購入したストラップも引き出しの奥底に閉じ込めて、思い出さないように必死だというのに。
こうしてふとしたことで記憶が引っ張り出されて、その度に苦しくなって。
本当にバカみたいで、そんな自分を嫌いになってしまいそうだった。
「次はー…新宿……新宿……」
電車のアナウンス。
降りる駅はまだ先だというのに、自然と足が動いていた。
もう疲れた。
あの子を忘れたい。
そんな思いから、何度も行こうか悩んでいたあの場所へ向かってしまったのだ。
スマートフォンの地図アプリは目的地で案内をやめてしまったため、下げていた目線を上げる。
初めて訪れた同性愛者の集まる街は、一見普通の街並みと変わらないように見えた。
平日のせいか歩いている人は少なく、知らずに迷い込んでも二丁目だとは気づかないだろう。
だけど間違いなく、ここは雪美のような人が集まる場所なのだ。
この緊張の根源が何なのかも分からずにいた。
初めて二丁目に訪れた緊張なのか、それとも来海凪に対する罪悪感に似た何かか。
咎める人なんて誰もいないだろうに、後ろめたく感じてしまうのは何故なのだろう。
「……ッ」
ドキドキしながら、以前何度か調べたことのあるビアンバーの扉を開く。
初心者でも来やすいとサイトに紹介されていて、20歳を越えて以来、何度も行こうか悩み続けたお店の扉だ。
店内は思いの外狭く、カウンター席のほかにテーブル席が幾つか設けられていた。
入った瞬間一気に視線を感じて、驚いてしまう。
ジロジロと見られて、戸惑いながら勇気を出して店内へと足を踏み入れていた。
「何にします?」
バーカウンターの向こうにいる店員に声を掛けられて、悩んだ末にジンジャーエールを頼む。
お酒か悩んだが、昨日も飲んだため二日酔いが怖かったのだ。
空いていた隅っこのカウンター席に座ってから、どうすれば良いのか悩んでしまう。
凪を忘れたくてこの場所に来たけれど、そもそも何をすれば良いのか。
誰と話せば良いのかも分からずに、チビチビと渡されたジンジャーエールを飲んでいた。
恋人が欲しいわけではなくて、どちらかといえばこの悩みを聞いてくれる友人のような存在が欲しかったのかもしれない。
簡単に打ち明けられない悩みを、同じセクシュアリティの人に聞いて欲しかったけれど、他の人はどんな気持ちでこの場所に来ているのだろう。
居心地の悪さを感じていれば、隣の席に1人の女性が腰を掛けた。
チラリと視線をやれば、互いの瞳が必然のように交わる。
スーツを着たロングヘアの彼女は、こちらに軽く会釈をしてきた。
「今日1人で来たの?」
すらっとしたスタイルに、かきあげた前髪は女性からも男性からも支持されそうな雰囲気だ。
涼しげな目元に、シャープな骨格。
パンツスーツを履いているためか、とても足が長く見える。
女性からもモテそうで、何より長いロングヘアの髪質が彼女に似ていてつい目をやってしまう。
あの子を忘れたくてこの場所へやってきたというのに、無意識に関連づけてしまう自分が嫌になる。
「1人なんですけど……えっと…初めてで」
「そうなの?学生さん?」
「はい」
「大人っぽいから社会人かと思った、綺麗だし」
「ありがとうございます」
サラリと溢れ落とされた褒め言葉。
言い慣れているのか、あまりに自然でスマートだった。
雪美も歳を重ねれば、こんな風にサラリと相手を褒めることが出来るのだろうか。
「彼女いるの?」
「いないです……」
ビアンバーだから当然だというのに、雪美が同性愛者だと前提で話してくるのが新鮮だった。
周囲にはカミングアウトしていないため、彼女の有無を確認されたのも初めてだ。
ここにいる人全員が同性愛者か両性愛者だと考えると、不思議と感動してしまう。
それだけでこの世の中に自分が1人ではないと、孤独ではないような気がしてしまうのだ。
「お姉さんは良く来るんですか?」
「たまにね。けど今日来て良かった。名前は?」
「雪美です」
女性は話が上手く、次々と会話が膨らんでいく。
時折冗談を交わせた話は楽しくて、自然と笑みが溢れていた。
気づけば飲み物もおかわりをして、暫く時間が経った頃。
太ももの上に乗せていた手に温もりを感じて、驚いて顔を上げる。
包み込むように雪美の手に重ねられていて、指先は太ももに触れてしまっていた。
「……どっち?」
「え……」
「私タチなんだけど、お姉さんどっちかなって」
すぐに答える事が出来なかった。
結局凪とは最後までシていないため、自分の趣向がどちらかは分からないまま。
凪の方が積極的だったけれど、雪美も彼女を翻弄している時は幸せだった。
言葉を詰まらせていれば、さらに女性が畳み掛けてくる。
「これから空いてたりする?」
「……ッ」
「……いっぱい可愛がってあげられるよ」
瞳はどこか熱っぽくて、逸らす事が出来なかった。
もう子供ではないのだから、それが何を意味しているかくらい理解出来る。
頭では分かっているのだ。好きでもない人と体を重ねても虚しいだけだと。
初めてを今日会ったばかりの人に捧げるなんて、絶対にいつか後悔すると分かっているのにすぐに断る事が出来ない。
もう疲れたのだ。
やめたかった。
胸を焦すほどの恋心から、逃れたい。
体だけでも他の誰かのものになってしまえば、美しい天使を想い続ける事もなくなるのではないかと、気づけば首を縦に振ってしまっていたのだ。
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