第8話


 ルーズリーフにシャープペンシルを滑らせるのをやめたタイミングで、彼女の方から声が掛かる。


 「上村さんは何学部行くの?」

 「経済学部。本当は美容系の専門行きたいけど、私の家厳しいから」

 「大学は行かなきゃって感じなの?」

 「そう。だから大学通いながらエステとか美容系のバイトしようかなって」

 「偉いね…夢があるって羨ましい」

 「来海は?」

 「私は文学部かな。本好きだから」


 落ち着いている雰囲気の、芸術肌な彼女にはピッタリだ。

 大学で講義を受ける姿まで想像できるくらい、イメージ通りだった。


 「小説家になりたいの?」

 「そういうのじゃないよ。けど編集の仕事は興味あるかな」

 「へえ」


 どんどん、知らなかった彼女の一面が見えて来る。

 学園1の天使ではなくて、クラスメイトの来海凪として知らないことが沢山あるのだ。

 

 「……来海は好きな食べ物ってなに」

 「甘い食べ物」

 「私も!」


 つい食い気味で返事をしてしまう。

 死ぬ前に食べるとしたら何がいいかと聞かれたとき、間違いなく甘いものを答えるくらいには甘党なのだ。


 「あ、ごめん…大声出して」

 「そんなに好きなんだ」


 くすくすと笑われて、どこか気恥ずかしい。


 「ねえ、世界で一番甘い食べものって知ってる?」

 「わかんない…カステラとか甘いよね」

 「日本のお菓子じゃないよ」


 考えてみて、と言われるがちっとも分からない。

 生まれてこの方国内から出たことがないため、海外のお菓子にもあまり詳しくないのだ。

 必死に思考を巡らせるが、結局それらしい答えには辿り着かなかった。


 「わかんない。教えてよ」

 「グラブジャムン」

 「なにそれ」

 「インドのお菓子。シロップ漬けのドーナツでめちゃくちゃ甘いんだって」

 「ちょっと食べてみたいかも」


 世界で一番甘いなんて、一体どんな味がするのかちっとも想像できない。


 「じゃあ、そろそろ勉強再開しよっか」


 その言葉を合図に再びペンを取るが、先ほどまでに比べて彼女との距離が近い気がした。


 肩はピタリとくっついていて、さりげなく距離を取っても再び彼女が近寄ってくる。


 「……何してんの」

 「ドキドキした?」

 「するわけないじゃん。近い」


 冷たく返事をすれば、渋々と言ったように彼女が離れていく。

 気を取り直して参考書へ向き直れば、凪が冷蔵庫からチョコレートを取り出して食べ始めた。


 美味しそうに顔を綻ばせていて、その姿にゴクリと生唾を飲む。


 「いいな、一個ちょうだい」

 「はい、あーん」

 「…自分で食べれるけど」


 チョコを摘んだ細い指は、一向に引く気配がない。

 口元まで持って来られるが、恥ずかしさのせいで素直に食べる気にはなれなかった。


 「いいじゃん。食べさせてあげるよ」

 「さっきから何で恋人っぽいことしてくるわけ」

 「ドキドキしたら、上村さんもキスしたくなるかなって」


 何とも困る言葉に、ついため息を吐いてしまう。

 どうして彼女はこんなにも、雪美とのキスに拘るのだろうか。


 「私が来海にドキドキするわけないってば」

 「分かんないじゃん、そんなの」

 「良いから早く勉強しなって」

 「キスさせてくれなきゃ勉強に集中できない」


 お願いと駄々を捏ねられて、このままでは一向に埒外があかないだろう。


 悩んだ末に腹を括る。

 そもそもこうなったのは雪美が経験があると嘘をついて、キスの約束を断りきれなかったせいでもあるのだ。


 「じゃあ一瞬ね」

 「いいの?」

 「ちょっとチュッてするだけでしょ」


 覚悟を決めてギュッと目を瞑る。

 一瞬で終わると思ったのに、一向に唇に柔らかい感触は触れなかった。


 恐る恐る目を開けば、彼女の綺麗な顔がすぐ至近距離にある。


 「……ッ」


 驚いていれば、凪は唇ではなくて頬にキスをしてきた。

 ふわりとした柔らかい感触。


 「口だと思った?」


 してやったりの表情から、揶揄われたのだと気づく。

 間に受けて、ファーストキスを捧げる覚悟まで決めていた恥ずかしさから、頬を赤らめていた。


 「唇になんて一言も言ってないのに。上村さんってえっちだね」


 ジワジワと込み上げた羞恥心は、雪美のストッパーを外してしまったのかもしれない。


 この天使を揶揄ってやりたい。


 自分と同じように恥ずかしがらせて、戸惑った顔を見たいと思ってしまったのだ。


 後頭部に手を回して、彼女の頬にもう片方の手を添える。

 一体自分の中のどこにこんな積極性があったのかと驚くほど、大胆な行動に出てしまっていた。


 軽く顔を傾けて、彼女の形が良い唇にそっと自分のものを触れさせる。

 勿論深いキスなんて出来るはずがなく、ただ一瞬触れるだけのキス。


 だけど経験のない雪美にとっては一世一代の勇気を出した行動だった。

 

 みるみるうちに頬が赤らんで、恐らく耳まで赤くなってしまっているのが自分でもわかる。


 「……か、上村さん…?」

 「ばーか」


 こんな照れた顔で憎まれ口を叩いても、何の意味もないだろうに。

 素知らぬ顔で再び勉強へ戻ろうとすれば、凪に肩を掴まれて、彼女の方から触れるだけのキスを落とされていた。


 「……ッ」


 一度唇を離してから、角度を変えてもう一度キスをされる。

 優しく耳の淵をなぞられれば、もどかしさからビクンと体を跳ねさせた。


 自分の体なのに、まさかそんな所が擽ったいなんて知らなかった。


 「……ドキドキした?」


 そう言っている凪も、雪美と同じように顔を真っ赤にさせている。

 ドキドキなんて言葉じゃ足りないくらい、心臓がうるさく鳴っている。


 余裕がなくて、彼女の問いに返事をしてやれない。

 悔しいけれど、彼女にドキドキさせられてしまったのだ。


 一体これは何だろう。

 初々しいカップルのような、甘い空気感。


 恋人でも友達でもないくせに、こんなにも甘ったるい2人の関係は一体何という名前を付ければ良いのだろう。 

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