第4話


 ヨーロッパの王室に住んでいそうな綺麗なお嬢様は、ごく普通のマンション住まいだった。


 都内の一頭地にあるため決してごく普通ではないだろうが、皆が想像する大豪邸ではなかったのだ。


 彼女の部屋に招き入れられて、柔らかいクッションの上に腰を掛けていた。

 お気に入りだというビーズクッションは、ふかふかで何とも触り心地が良い。


 真っ黒なアイスコーヒーを出されてから、申し訳ないと思いつつあるお願いをする。


 「ガムシロってある?」

 「持ってくる。ミルクは?」

 「おねがい」


 彼女が部屋を出て行ったのを確認してから、つい室内を見渡してしまう。

 想像よりもずっと大人っぽい部屋だった。


 てっきり白とピンクを基調にしたお姫様ルームを好むのかと思っていたが、どちらかといえばシンプルでムードのあるホテルのような雰囲気。


 ダークブラウンのウッド調のミニテーブルもおしゃれで、年の割には大人びたインテリアの数々。


 ガチャリと扉が開いてから、部屋の主人である彼女が戻ってくる。


 「苦いのが苦手ってかわいいね」

 「別に苦手じゃない」

 「じゃあこれあげなくていい?」

 「性格悪い…」


 ジトリと睨みつければ、笑いながらごめんと謝られる。

 こんな風に誰かを揶揄ったりするのかと、そんな姿も新鮮なくらいには来海凪のことを知らないのだ。


 ガムシロップとポーションを液体に注いでから、ストローでくるくるとかき混ぜる。


 ほろ苦いアイスコーヒーをストローで飲んでいれば、横並びで凪が隣に座り込んできた。


 「……よし、じゃあやろう」

 「そんなムードのないキスある?」


 ミニテーブルにコップを置いて、ジリジリと後退りする。

 まさか部屋に入って5分足らずで、彼女がキスをしたがるとは思わなかった。


 「付き合ってもないのにムードなんて必要ある?」

 「けど……来海、ファーストキスじゃん。それをこんなあっさり…」

 「だから赤ちゃんの頃にパパやママとあるって」

 「それはカウントしないって言ってんじゃん」


 芸術家肌なのか、天使の思考回路がちっとも分からない。

 好きでもない相手とキスをして、将来後悔するのは彼女の方なのだ。


 「……そのキスシーン描くのって急ぎなの?」

 「趣味の範囲だから、締め切りとかはないよ」

 「じゃあ今すぐじゃなくて良いじゃん。もっとベストなタイミングがあるって」


 拗ねたように頬を膨らます姿も、何とも可愛らしい。

 本当に美人というのは得で、些細な仕草が愛らしく目を奪われてしまうのだ。


 「わかった。けどキスは絶対するからね」

 「なんでそんなに拘るの」

 「上村さんがいいから」


 一生に一度出会えるかどうかのレベルの美少女にそんなことを言われたら、勘違いしてしまいそうになる。


 何とか話の流れを変えようと、目に入った本棚から百合漫画を一冊取り出した。

 

 「……本当に百合が好きなんだ」

 「だいすき。女の子同士の恋愛とかキュンキュンするよ。上村さんもでしょ?」

 「私も」


 何となく隠してきた気持ちを、初めて誰かに打ち明けた。

 百合漫画が好きなんて側から見たらどう思われるのか、想像して公にすることが出来なかったのだ。


 「好きな作家とかいる?」

 「小鞠先生。小説だと如月きさらぎサキ先生のゴーストとか…」

 「わかる!また百合描いてくれないかな…いまはミステリー作家だもんね」


 まさかそこまで詳しいとは思わずに、どんどん話が弾んでしまう。


 ずっと誰かと話したかった好きな物の話。

 その理解者がすぐ近くにいて、まさか学園の天使だったなんて気づけるはずがないだろう。


 「女の子らしい2人の恋愛ものが好きかな」

 「私は基本何でも好き…歳の差も好きだけど、一番は同級生ものかなぁ」

 「来海も?めっちゃわかるそれ」


 自然と口角が上がって、声のトーンも明るくなっているのが分かる。

 こんなにも話が合うとは思いもしなかった。


 2人とも饒舌で、気づけば何時間も経過してしまっている。

 あまりに夢中になるあまり、あっという間に時間が過ぎてしまったのだ。


 今まで百合が好きなんて、人生で誰にも打ち明けたことがなかった。なんとなく、それを言ってしまえばどういう目で見られるか分かっていたから。


 「……めちゃくちゃ楽しかった」


 帰り際にポツリと呟けば、酷く嬉しそに凪が笑みを浮かべる。

 咄嗟に「可愛いな」という言葉が込み上げて、ギリギリのところで閉じ込めた。


 結局、この日彼女とキスはしなかった。

 夢中になるあまり忘れてしまったのか、それともキスをする気分ではなくなってしまったのかは定かではない。


 「じゃあ、そろそろ帰るね」


 玄関前でしゃがみ込んでローファーに履き替えていれば、パーカーの裾をクイっと引っ張られる。


 振り返れば、予想通り凪が雪美のパーカーをキュッと掴んでいた。


 「来海?」

 「……帰っちゃうの?」

 「もう遅いし」


 一歩前に進もうとしても、彼女が手を離してくれないためつっかえてしまう。


 彼女の意図が掴めずに、不思議に思いながら後ろ向きに声を掛けた。


 「離してよ」

 「やだ」

 「は?帰れないじゃん」

 「連絡先教えてくれたら離す」


 今までまともに話したことはなかったため、当然彼女の連絡先は知らなかった。

 確かクラスのグループトークにも加入していないため、クラスメイトで彼女の連絡先を知っている人は誰もいないのだろう。


 「別にそれくらい良いけど」

 「い、いいの!?」

 「当たり前じゃん」

 「だって上村さんの連絡先だよ?私なんかに教えて良いの?」


 訳のわからぬ理論が面白くて、つい吹き出してしまう。

 真面目で無愛想な天使が、そんな意味不明な事を言い出すなんて思いもしなかった。


 「思考がインキャ過ぎるんだけど」


 友達がいない彼女は、連絡先の聞き方もろくに分からなかったのかもしれない。

 頭脳明晰だというのに、コミュニケーション能力には乏しいらしい。


 顔ではなくて、彼女の性格が可愛らしいと思ったのはこれが初めてかもしれない。


 連絡先を交換すれば、凪の口元がニヤニヤと緩んでいることに気づいた。


 スマホを両手で抱えて、どこかソワソワした様子で機嫌が良い。


 「……大切にする」

 「連絡先大切にするってどういう意味よ」

 「……えへへ」


 えへへなんて笑う人間を初めて見たが、その破壊力は凄まじいものだった。

 照れ臭そうに、普段よりも少し高い声で笑う姿はあまりにも可愛すぎる。


 「……じゃあ、また明日学校で」


 帰り際にチラリと振り返れば、凪が小さくこちらに向かって手を振ってくれていた。


 扉が閉まる直前にもう一度振り返れば、未だこっちをジッと見つめている。


 「……なんか、前よりも可愛い気がする」


 今までも美しい女性だと思ってはいた。

 欠点がなく、どこから見ても可愛らしい美少女が以前よりも更に可愛く見えてしまうのはどうしてだろう。

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