ブエルシナ島-1

「――――……」


 波の音が聞こえる。潮の香りがする。

 慣れた感覚に、意識が浮上する。ざらりとした感触が不快で、手をついて体を起こすと、パラパラと砂が落ちた。そこで、どうやら砂浜に倒れていたらしい、ということに気づく。

 ぼうっとする頭のまま、奏澄はその場に座り込んだ。体に異常がないか確かめるために少し動かしてみて、多少の打撲はあるものの、折れたりはしていないことに安堵する。あの高さから落ちて無事なのは奇跡に近い。荷物は全て無くなってしまったが、仕方がないだろう。

 高台から落ちて、そのまま下の浜に打ち上げられたのだろうか。沖に流されなくて良かった、と思いながら周囲を見回して、奏澄は愕然とした。


「どこ、ここ……?」


 見慣れた景色とは全く違う風景が、そこには広がっていた。

 古びた倉庫が並び、波止場には木造の小船が泊められている。空気はからりと乾燥して埃っぽく、日差しは強いのに立ち並ぶ倉庫のせいか影が多く、どことなく薄暗い雰囲気を感じさせる。

 開けていて明るかったいつもの海岸とはまるで違う。何より、肌寒い季節だったはずなのに、この熱気はなんだろう。

 じわりと、暑さのせいだけではない汗が頬を伝った。


「と、とにかく、人のいそうな所に行こう」


 怖くなって、わざと声に出して言いながら奏澄は歩き出した。

 倉庫の間を歩きながら、扉が開いている所は人がいないかと覗いていく。木箱が詰まれていることが多く、コンテナのようなものは見当たらない。端の方の倉庫は使われていないようで、ぼろ布が放られていたり、空の木箱が散乱していて、埃が舞っていた。

 いくつかの倉庫を覗いたが人はおらず、使用中と思われる倉庫には鍵がかかっていた。不安な気持ちを振り払うように、海とは反対へ早足で歩を進める。と、奏澄の耳にかすかにざわめきが聞こえた。

 人がいる、とほっとして、奏澄は思わず走り出した。そのまま声のする方へ飛び出したが、目に映ったのは、またしても奏澄を戸惑わせる光景だった。

 おそらく商店街のような場所、なのだと思う。色とりどりの布で覆われた露店が立ち並び、地面に直接品物を広げている人もいる。そしてその人々は、浅黒い肌に彫りの深い顔立ちをしていて、とても日本人には見えなかった。

 まさか、海に流されて異国まで来てしまったのだろうか、と馬鹿な考えが頭を過ぎる。きょろきょろと周囲を見渡すが、ヒントになりそうな物は何も無い。せめて英語だったら聞き取れるだろうか、とよくよく耳を澄ますと、何故だか話している言葉はすんなりと耳に入った。


 ――日本語?


 そんな馬鹿な、という気持ちと、やはりここは日本なのだ、という気持ちがない交ぜになる。

 少なくとも、コミュニケーションは取れることがわかった。勇気を出して、奏澄は露店の女店主に話しかけた。


「あの、すみません」

「……いらっしゃい」


 女店主は見慣れぬ顔つきの客人を訝しげに眺めて、無愛想に返した。その視線で、奏澄は自分がずぶ濡れのままだったことに気づいて、急に恥ずかしくなる。意識しだすと、水を含んだままのブーツが気持ち悪かった。


「ごめんなさい。買い物じゃなくて……道に、迷ってしまって。交番の場所を教えていただけませんか?」

「コウバン? 悪いが、心当たりはないねぇ」

「え? あ……えっと、警察がいる場所を、教えていただければ」

「ケイサツ? って人を探してるのかい? 生憎と聞き覚えはないね。人の出入りの激しい島だから、いるかもわからんが」


 ――島?


 その言葉に、嫌な予感がした。震える声で問う。


「ここは、日本、ですよね。どこの島ですか?」


 どこかの県名で答えてくれるだろう、という期待で訊いたが、返ってきたのは無情な答えだった。


「ニホン? ここはブエルシナ島だよ。間違った船にでも乗ったのかい?」


 ガツン、と殴られたような衝撃が走る。ブエルシナ島。日本の島名の響きには思えない。それより、日本、という地名が通じない。有り得ない。女店主が話しているのは日本語だというのに。

 衝撃から立ち直れず、言葉が出ない奏澄の後ろから、高い声がかかる。


「あのぉ、お話終わった? 私それ買いたいんだけど」

「ああ、いらっしゃい! 勿論、大丈夫ですよ」


 買い物に来た女性客に、女店主が愛想良く返す。その声にはっとして、奏澄は慌てて体を退けて、頭を下げながら女店主に礼を告げ、その場を離れた。

 営業妨害をしてしまった。申し訳ない。落ち込んだ気持ちでとぼとぼと歩き出す。




 とにかく、家に帰る手段を見つけなければならない。奏澄は暫く辺りを見て回ることにした。

 コンビニは無いだろうか。本当に交番は無いのだろうか。どこかに住所表示は。最寄り駅は。アミューズメント施設のような場所だとしたら、インフォメーションセンターは?

 比較的優しそうな女性を選んで「ここはどこか」と尋ねても、最初の女店主と同じ返答があるだけだった。警察も知らない、大使館も知らない、電話も知らない。せめてどこかに連絡できれば、と考えていた奏澄は衝撃を受けた。誰に訊いても答えは同じで、怪訝な顔をされるばかりだった。

 必死で『自分の見知ったもの』がないかどうか探すも、舗装されていない土の地面。石造りの建物。異国の人々の顔立ちに、古めかしい服装。言葉は通じるのに意味の通じない会話。読めない文字らしきもの。何もかもが異質で、自分だけがそこに取り残された気分になる。

 震える手で、無意識に首から下げたネックレスを握りしめた。それほど強い思い入れがあるわけじゃない。両親から、大学の入学祝いにプレゼントされたもの。でも、唯一、奏澄が持っている自分のもの。悪い夢でも見ているような状況で、それだけが、奏澄を現実に繋ぎとめていた。


 ――喉が、渇いた。


 暑い中を歩き通しで、ひりつくほどに喉が渇いていた。乾燥した気候のせいか、海水に濡れていた服も乾き始めていた。ただ、塩のべたつきは肌に残ったままで、それが不快だった。

 冷たい真水を浴びたい、と思ったが、最初の商店街で水を売っていたことを思い出す。つまり、ここでは水が無料ではないのだ。もしかしたら有料なのは飲料水だけで、生活用水は別にあるのかもしれないが、ぐらぐらと揺れる頭では、どうしたらそれを分けてもらえるのか考えつかなかった。

 そろそろ日も暮れてきた。一度休もう、と奏澄は最初の倉庫があった場所に戻ることにする。あそこなら目立たないし、使っていない倉庫の中なら横になることもできるだろう。今は、波の音を聞いて、目を閉じていたい。


 重い足取りで倉庫が立ち並ぶ辺りまで戻ると、何やら人の声がする。来た時には誰もいなかったのに、と思いながら声の方に近づいて行って、奏澄はすぐにそれを後悔した。


「――!」


 反射的に体が恐怖に竦む。怒声だ。何かがぶつかるような音や嘲笑も聞こえ、喧嘩でもしているかのようだった。関わらない方が良い。すぐにでもその場から逃げ出そうとするが、足が震えて動かない。気づかれないことを祈って、奏澄はせめて悲鳴が漏れないようにと、自分の口を両手で塞いだ。




 暫くして、音が止んだ。こちらに来やしないかとひやひやしたが、声は遠ざかっていくようだった。それでも数分間その場でじっと息を殺し、さすがにいなくなっただろう、と確認のためそっと顔を出す。


「え……」


 そこには、一人の男が倒れていた。声は、どう聞いても複数人だった。乱闘のような激しさは無かった。状況から察するに、この男が一人で暴行を受けていた可能性が高いのではないか。

 それに思い至った時、奏澄の体から血の気が引いた。例えすぐに気がついていたとしても、助けに入れたわけでも、助けを呼びに行けたわけでもない。それでも、見殺しにしてしまったような、妙な罪悪感があった。

 男は動かない。生きているのか、死んでいるのかもわからない。ごくりと、生唾を呑む。

 関わらないのが、賢い選択だ。一方的に暴行を受けていたとしても、あの男がただの被害者だとは限らない。まして、今の奏澄は警察を呼ぶことも救急車を呼ぶこともできないのだ。ここで駆け寄ったとて、自分に何ができるというのか。

 しかし理性とは裏腹に、奏澄の足は動き出していた。

 たった一人で倒れている男が。誰の助けも来ない、打ち捨てられたような男の姿が。

 自分と、重なった。


「大丈夫ですか!」


 震えながらも、なるべく大きな声で呼びかける。ぴくりと、相手が反応した。生きてはいるらしい、とほっとする。

 額に巻かれたターバンも、破かれた白いシャツも、血に染まっている。混乱した頭で、今できる最善を考える。とりあえず、大きな傷だけでも止血した方がいいだろう。聞きかじったような知識しか無いが、何もしないよりはましなはずだ。

 圧迫止血は助けが来るまでの対処だから、この場では縛るしかない。手頃なものが何もないので、服の袖を歯で無理やり裂いて、紐状にした。あまり清潔ではないが、致し方ない。


「少し、触りますね」


 なるべく動かさないように注意しながら、刃物で切られたような足の傷に、止血帯を通そうとする。


「……俺に、構うな」


 低く掠れた声で脅すように言われ、肩が跳ね上がる。反射的に顔を見ると、男は鋭い目で奏澄を睨みつけていた。目の下には隈が色濃く、それが余計に堅気ではない雰囲気を醸し出していた。


「ご、ごめんなさい。これだけ巻いたら、医者を呼んできますね」


 ぱっと目を逸らして早口でそう告げ、奏澄は一番出血がひどいと思われる足の傷だけ縛った。どの道、自分にできることはそう無い。


「なるべく急いで呼んできますから、動かないでくださいね!」


 あの怪我で動けるとは思えないが、念のためそう言い残し、奏澄は街へと駆け出した。

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