第五話(裏) 閉ざされる扉

 ゆっくりと目を開ければ見慣れた天井が視界を埋める。

 この五年、毎日見てきた景色だ。

「あ、十時前。………寝すぎた」

 朝が得意ではないからいつも起きるのは遅い。それでも九時くらいにはいつも目が覚めるというのに今日は寝過ごしてしまった。

 瑠奈さんの魔法使い召喚の儀をする日だというのに、寝坊してしまうとは。

「早く着替えて食堂に行かないと」

 ベッドから抜け出して着替えを済ませ、軽く髪を整えて部屋を出ようとしたとき、窓が開いて爽やかな風が部屋を満たした。

 振り向くと見知らぬ男性が一人、微笑を携えて立っていた。

 綺麗で長い銀髪をポニーテールにして、着物のようなデザインの服を纏っている。長い前髪から覗く金色の双眸は微笑には似合わないほどの冷たさを帯びていた。

「あなた、誰ですか?」

「おや、これは失礼。私はカエルム。あなたを元の世界に帰すために参りました」

 カエルムって、瑠奈さんをこの世界に来るよう仕向けた人と同じ?

 それに、私を元の世界に帰す?

「帰る方法なんて見つかっていないのに、どうやって……。そもそも、僕を帰すくらいなら瑠奈さんとお兄さんを帰してあげてください!」

「おや、あなたは帰りたくないのですか?」

 当然帰りたい。けれど、私には待っている人なんていない。神社の跡取りといっても継ぐのは私じゃない。私は四兄弟の末っ子なのだから。いてもいなくても、大して変わらない。

 だが瑠奈さんたちは違う。彼女自身はあまりご実家をよく思っていないようだったけれど、祓い屋の名門である御神楽家にとってあの双子は必要な存在のはずだ。二人とも元の世界に帰りたいと思っているはずだし、私なんかよりも帰るべきだ。

「私よりも先にあのお二人を帰すべきだと言っているんです」

「それはできませんね。あの方々は月に君臨する存在なのですから。そもそも、今一番この世界に必要ない人間はあなたですよ?神田月斗さん」

 何度も頭をよぎった言葉がはっきりとした声となって耳に届いた。

 賢者でなくなった私はここにいても何もできない。この世界の住人ですらない。誰からも必要とされない。

 分かりきっていたことだが、それは言葉の剣となって私の心を切り裂いた。

 何も言えずに立ち尽くす私を見て、カエルムは金の瞳を細めた。

「誰かに見つかっても困りますし、早く済ませてしまいましょう」

 そう言うが早いか懐から魔法陣が描かれた紙を取り出し、ぼそぼそと口の中で呪文を唱えた。

 紙の魔法陣が光り、浮かび上がりながら拡大する。そのまま私の頭上へと留まり光の壁で覆われてしまった。

 壁は叩いてもびくともせず、白札も効果がない。

「出してください!私がこの世界に必要ないのは分かっています!でも、何も知らな瑠奈さんを支えると決めたんです!突然連れてこられて不安が多い彼女を、助けたいんです!」

「ご心配なく。彼女は月と関わりの深い存在でありながら、ディアナのように地上の精霊たちに気に入られています。必然的に精霊たちは集まり、彼女に力を与えるでしょう。あなたは必要ありません」

「月と関わりが深い?ディアナって誰のことですか?」

「おっと、口が滑りました。まあ、この世界から消えるあなたには別にいいですかね」

 その直後、上からずんっとした重みが加わった。立っていられず片膝をつくと徐々に意識が遠のきそうになる。

 今意識を失えば、私はこの世界から消えるのだと確信する。

 必死の思いで意識を手繰り寄せ飛ばされまいとするも、それは目の前にいる冷淡な彼の魔法によって打ち砕かれた。

「往生際が悪いですね。もう、おやすみなさい」

「まって、くだ、さ………」

 瞼が重くなり、体から力が抜けると同時に無重力のような感覚に襲われ、私は意識を手放してしまった。






          ◇






「まったく、手のかかる」

 神田月斗を元の世界に帰し、残るは繋ぐ扉を壊すのみ。

 先ほど使った魔法陣を応用して異空間に存在する扉まで行かなくてはならない。

 手をかざして魔法陣を発動させ、先ほどの月斗と同じように光の壁に入る。体から力を抜き、無重力にも似た感覚を覚えた瞬間、目の前の景色は一変した。

 足元には水が張られ、静かに私を映している。見渡す限りの青はところどころにフワフワとした雲が浮かび、まるで空の上にいるかのようだ。

 そんな空間にポツンと口を開いている大きな扉。これこそが世界を繋ぐ扉だ。

「ここから、始まるのですね。我らの悲願、叶えましょう。ディアナ」

 大きな扉を閉めてから、跡形も残らないように破壊する。

 雷鳴にも似た大きな音が轟き、空間には静寂だけが残った。

「さて、あとは瑠奈様が力を取り戻すのみですね。そのために精霊たちを染めたのですから」

 私は扉があったその場所に背を向け、何もなく広がる青の世界から離脱した。







          ◇







「無事に壊せたみたいね」

 赤みの強い茶色の髪をいじりながら水鏡を覗き込んでいたルリがにこやかに報告してくれた。

「そう。やっとスタート地点といったところかな」

 前の賢者を元の世界へ帰し、今後この世界に新しく異界の人間が来ることはできなくなった。これで邪魔者が増えることはないだろう。

 問題は瑠奈のもとに集まる魔法使いだ。瑠奈が月の力に目覚めるため、ひいてはこの月で僕と共に暮らすために必要な精霊の加護を集めるには彼らの協力があった方がいいだろう。けれど、全ての準備が整った時、彼らが素直に瑠奈をこちらに渡してくれるかどうか。

 賢者の魔法使いに選ばれた彼らは全力で瑠奈を守るだろう。月の力を持っているからという理由で敬遠することはあまり期待できない。

 あとヒスイもだ。彼は僕らと暮らすことに賛成してくれると思いたい。何事もなく進めばこちら側に来てくれるはずだ。魔法使いたちにほだされない限り。

「ねえルリ?ヒスイは僕らと暮らすことに賛成してくれると思うかい?」

「どうかしら。あの人は意外と情に厚いから。魔法使いたちと親しくなってしまったら離れるとか敵対するとかできないんじゃないかしら」

 こういう時ルリはどことなく淡白だ。冷静に判断して言葉にしてくれる。

 僕はそんなところも好きだけれど。いつも通りな彼女に苦笑が漏れた。

「相変わらずだね。その時はその時ってことか」

 いくつもある窓の内のひとつを開ければ九月らしいほんのり冷たい風が室内に吹き込む。ここは月に建つ月蝕の城。数は少ないがちゃんと街や村があり、地上よりも自然が豊かで、僕が思っていた月とはだいぶ違う。

 窓の向こうに広がるのはこの城の中庭で、大きな二段の噴水が陽光を反射させ煌めいている。

 どういう原理かはわからないがここにも朝と夜があり、地上よりも太陽に近くて暑いはずがそんなこともなくほとんど地上と変わらない気候だ。

 普通に空気もあるし、空も青い。月というより第二の地球のような感覚だ。

 一番の違いは人間がいないということだ。地上には人間と魔法使いがいる。そのため魔法使い側にいる瑠奈は人間から敬遠されることがあるかもしれない。つらいことや悲しいこともあるかもしれない。

 けれどこの月に住む者は全員月の魔力を扱える月守だ。地上風に言えば全員が魔法使いということだ。ここでは種が違うなんてことで起きる敬遠はない。つらいことや悲しいことの数がゼロとは言えないが確実に少ないだろう。

 瑠奈は月に来るべきなのだ。彼女がつらい思いをしないためにも。

「もう、瑠奈を一人にしないと決めたのだから」

 一瞬、御神楽の家の縁側で寂しそうに一人で座っている瑠奈の姿が思考を掠めた。

「瑠輝?何か言った?」

「何でもないよ」

 もうあんな瑠奈を見たくない。そのためにも必ず成功させなくては。

 ―――月の女神復活の儀を。

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