第四章 人形と悪魔 5

 村が近づいてくると、野を歩いている馬を見つけた。ラザロの馬だ。繋ぐことももどかしいほど急いでいたのだろう。イザヤは焦る気持ちを抑えながら二頭の馬を農場の柵に繋ぎ、教会へと急いだ。幸い村は闇に沈んで静まり返っており、出歩いている人間はいない。

 教会の正面の扉は、鍵がかかっていなかった。この時点でラザロもイザヤも、敵の手中に落ちたと言えるのかもしれない。だが魔力を回収すべきアトリビュートはこの中だし、何よりラザロのことを考えればこうするより他はない。

 壁沿いにしゃがみ、聖堂内を見渡す。人どころか、鼠一匹すらいる気配はない。地下への入り口があるという祭壇付近に目をこらすが、棺がなくなっている以外、昼間と変わったところはなかった。

『回収を先に終わらせてもいいんじゃないか』

 左目の言葉に、イザヤは小さく首を振った。到着前からスーロフが傀儡魔化していたと考えれば、彼がもたらした地下の情報もおそらく指示によるものだ。敵は、イザヤたちを地下へと誘いたがっている。「悪魔の儀式」という言葉はそのための材料だろうが、先に一人で飛び込んだラザロが何らかの危害を加えられる可能性は十分にあり得る。万が一取り返しのつかないことになってしまったら、回収人としての先行きが断たれてしまう。そうなれば、目的を果たすどころではない。

 祭壇の奥を覗く。床の部分に、隠し扉らしき四角い線が描かれているのがわかった。なんとか指が入る程度の隙間を見つけて扉を持ち上げると、穴が現れた。梯子が掛けられ、ずっと下のほうへと続いている。イザヤは梯子に足をかけ、ひんやりとした空気の中を下へと進んだ。

 下まで降りきると、朽ちた線路が目に入った。壁と屋根部分は丸太と板で補強されており、一切の明かりは灯されていなかった。人の気配はない。

 道の一方は土で埋まっていたため、イザヤは反対側へと進んでいった。いよいよ動悸が激しくなる。ラザロは無事だろうか。アランを含む「神の子」たちも助け出さなければならない。そのためにはニコデモ司祭と対峙する必要がある。

「神の子」を神聖視する村人たち。イザヤを「われわれと同じ人間」と言ったニコデモ。

 彼らが同じ魔力に侵されているとは、イザヤにはどうしても思えなかった。「贈り物」は村人の発案によるものだと言っていたし、ニコデモ自身が積極的に「贈り物」を捧げる様子は見られなかった。

 彼は、別の魔力の傀儡魔か――あるいは、全く正常な状態なのではないか。

 もしそうだとすれば、あの言葉は彼自身の意志によるものということになる。

 そこに希望を見出してしまっている自分の甘さが、イザヤには腹立たしかった。これでは、あのときと同じだ。


 ――「そろそろ、お祈りの時間です。この間の続きは、その後に読みましょう」

「はい、司祭様」

 初めての絵、「ヤコブの夢」を堪能したイザヤは、髭の老司祭とともに窓のある壁に向かって跪いた。独房の窓の下の、何も置かれていない小さな台。それが形だけの祭壇だった。

 司祭が祈りの言葉を捧げる。イザヤは同じように両手を胸の前で組み、今しがた見たばかりの美しい光景を頭の中に思い描いた。

 ――僕にも、「絵」を作り出すことができるだろうか。

 そんなことを考えた自分に、イザヤは後ろ暗さを感じた。――無理だ。だって「絵」は禁止されているし、そもそも僕は、「稀人」なんだから。

 気づくと、司祭の祈りの言葉が止んでいた。

 目を開けると、司祭は組んでいたはずの両手をせわしなく宙に漂わせていた。そうして、何かを探すように独房内を見回している。

「火が……火が必要だ……焼き、尽くす……捧げ物……」

 その瞬間、司祭の目がくわっと見開かれた。ほとんど同時にイザヤに向かって覆い被さると、祭服の胸元から小刀を取り出した。

 司祭の左手が、イザヤの喉元をすさまじい力で押さえ込んだ。声が出せない。

 ひゅっ、と、小刀を持った腕が振り上げられた。――刺される。

 イザヤはとっさに手を伸ばし、トランクの角を掴んだ。がたりと傾いた蓋の上から複数の魔石が零れ落ち、イザヤの傍らの床を叩いた。

 その中の一つを掴むと、イザヤは夢中でそれを投げつけた。黄色い魔石が司祭の小刀に当たり、かつりと音を立てた。

 その瞬間、魔石からまばゆい閃光が放たれた。

 魔石が祭壇のほうへ落ちるのと同時に、小刀から土色の光が迸った。光はしゅるしゅると音を立てて空中の一点に集まると、押し固められるように小さな石へと変じた。形を得ると同時に、石は重力に従ってイザヤの胸の上へと落ちた。

 どさり、と司祭が崩れ落ちる。床に放られた小刀が、からりと音を立てた。

「何事だ」

 ただならぬ気配を感じたらしい巡回者が、がちゃがちゃと鍵を開けて独房へと入ってきた。黒衣に身を包んだ中年の職員は、仰向けに倒れている司祭ではなく、床に落ちている小刀に駆け寄った。

「どうして、こんなものがここに」

「司祭様が、持っていらしたんです」

 イザヤの胸からすべり落ちた魔石を見て、職員は何が起こったのかを察したらしかった。倒れた司祭を抱え上げ、他の職員を呼んですべての魔石を拾い集めさせた。

「明日から、新しい司祭が来る。今日のことは誰にもしゃべるな」――


 回収した魔石の絵を見てはいないが、司祭を傀儡魔にした魔力の主題はすぐにわかった。「イサクの犠牲」だ。

「イサクの犠牲」は、神から「息子を捧げ物とせよ」と命じられたアブラハムの物語だ。年老いてから産まれたただ一人の正妻の息子・イサクを山上に連れていったアブラハムは、覚悟を決めて小刀をその喉に当てる。アブラハムの固い信仰心を知った神は、天使を遣わしてそれを止めさせる。

 つまり、あのまま事が進んでいたとしても、イザヤがかの司祭に傷つけられることはありえなかったのだ。天使の役は、おそらく巡回者が引き受けることになったのだろう。

 あれは、小刀というアトリビュートがあったからこそ起こった事故だった。だがかつてエレミヤの言ったように、環境と精神状態――形だけの祭壇、老司祭の信仰心、そしてイザヤ自身の存在が、彼を傀儡魔にする条件となったと考えることもできるのだ。

 そこに、彼の「感情」も含まれていたとしたら――アブラハムの息子イサクに対する感情と、老司祭のイザヤに対する感情の間に、わずかな符合があったのだとしたら。

 イザヤの中にはずっと、この可能性についてのかすかな期待が息づいていた。その期待がまた色づいて、徐々に膨らみ出すのを感じながら、イザヤは首を振った。

 独房で自分を捧げ物として天に差し出そうとしたあの老司祭に、確かめたくて確かめられなかった気持ち。それをニコデモ司祭に代わりにぶつけようとでも言うのか。

『なあ、イザヤ。おまえがおれと同じことを考えているかどうかはわからんが、ひとつ言っておいてもいいか』

 イザヤはうなずいた。エレミヤが何を言おうとしているのか、彼にはわかっていた。

『「神の子」っていうのは、つまり――おれたちと同類なんじゃねえかな』

 つきり、と胸に刺さる言葉。その感覚で、エレミヤには伝わったはずだ。イザヤもそうだと考えていたこと、そして、そうではないと思いたかったということが。

『野暮だったな』

 その言葉に、どう反応したものか逡巡したときだった。

 ゆるい曲線を描く坑道の先に、淡い光が見えた。イザヤは一瞬立ち止まった後で、光に向かって足を速めた。それはランタンの明かりだった。ニコデモ司祭の持つランタンは、その隣に立つ上半身裸の男の顔をあかあかと照らし出していた。

「いいんですよ」

 相棒の言葉に、遅れて答える。

 ――どうやら、当たりだったようですから。

 瞳孔の大きく開いた男の水色の両目には、見事な星屑が散っているのが見えた。

「イザヤさん、お待ちしておりました」

 ニコデモ司祭が、恭しく辞儀をした。

「稀人たちの楽園へようこそ」

「楽園……」

 思わず辺りを見回したイザヤに、男――水色の目を持つ稀人が肩を揺らした。

「到底、そうは見えないよな」

 低く澄んだ、冷たい声。薄い筋肉のついた、白い体。ゆるいカールを描く赤毛は踵まで伸びており、顔に近い毛は編み込まれている。

 しかし何より目についたのは、首にかけられたネックレスだった。臍のすぐ上まで垂れたそれは、鎖にいくつもの魔石を取り付けたものだった。いくつもの爪でがっちりと魔石を包む石座は、さながら卵を飲み込もうとしている蛇の牙のようだ。

 ――魔石を、独自に「回収」してきたのか。

 難しいことではない。傀儡魔を生まないアトリビュートも、多く存在する。手当たり次第に回収をかければ、偶然魔石を手に入れることなど簡単だ。機構や教会の管理下になく、時間がたっぷりあれば尚のことたやすい。

「セト。ここにお招きする初めての客人だ。行儀良くお迎えしろと話したばかりだろう」

 言われて男は、無精髭の顎を伸びた爪で掻いた。

「初めてではないだろう、おやじ。さっきの若者は客に入らないのか?」

「ラザロ司祭はどこです」

 イザヤの硬い声を浴びても、ニコデモ司祭は穏やかな表情を崩さなかった。

「安心してください、彼は無事です。あなたがたに危害を加える意志はありませんよ。まずは、われわれの話を聞き、知ってほしいのです。判断はその後でも、決して遅くはありません」

 イザヤは二人を見つめた。セトと呼ばれた稀人は、薄く笑みを浮かべ、無遠慮な視線をよこしてくる。ザカリアのものとは違う、ぎらぎらとした大きな星屑の瞳。見ていると気もそぞろになってくるそれから目をそらし、イザヤは告げた。

「やはり、『神の子』というのは、稀人のことだったのですね」

 ニコデモ司祭がゆっくりとうなずく。

「村人の話を聞きましたか。そうです、彼らはマギの魔力に侵されています。けれども、イザヤさん。彼らの中に傀儡魔たる資質がなければ、魔力に侵されることはないのです。魔力は彼らの信仰心に作用し、それを特殊な形で増幅させただけなのですよ。すなわち、神の子を祝福し、贈り物をするという形でね。彼らは、元よりこのセトを崇拝していました」

「野良稀人、ですよね。どうしてリベルの司祭のあなたが、報告もせず彼を匿うようなことをしたんですか」

「そのわけを、お話ししようと言っているんですよ。まずは、こちらへ。ラザロさんの無事を確認していただいた後で、お見せしたいものがあります」

 そう言ってニコデモ司祭はランタンを坑道の奥へとかざした。左目が即座にそちらへ向く。

 無言で歩き出した彼らに、イザヤは静かについていった。歩きながら、ニコデモ司祭の黒い後ろ姿を見つめる。

 ――彼は、傀儡魔ではない。

 セトに対する態度は、神聖なものへの崇拝から来るものではない。親が子に向けるような愛情だ。セトの気安い「おやじ」呼びからも、二人がある程度の年月をともに過ごしてきただろうことが窺えた。

 坑道の奥へ進むと、たくさんの横穴が開けられていた。そのひとつを覗いて、イザヤは息をのんだ。

 子供だった。十歳くらいの男の子が、星屑の瞳を興味深そうにイザヤへと向けている。寝台や机、椅子くらいしか置かれていない様子は機構の独房を思わせるのに、その横穴には決してこの世界にはあり得ない、あってはいけないものが存在した。

「その絵は……何なんですか」

「わからないのか? 『ピエタ』だろう」

「ピエタ」は、救世主の死体を抱いて哀悼する聖母を描く主題だ。イザヤはもどかしさに首を振る。

「それは、わかります。私が言っているのはつまり、なぜ『絵』がここにあるのかということです」

「その子が描いたんですよ」ニコデモ司祭が優しい笑顔とともに言う。「エノシュ、ご挨拶を」

「はじめまして。エノシュです」

「イザヤです」

「おれの、一人目の息子だ」

 セトに肩を抱かれ、エノシュははにかむような表情になった。

 黒衣をまとう聖母は正面を向き、悲しみと恨みの混じった視線で見る者を見つめている。その腕に抱かれた白い体の救世主は、母の肩に頭を預け、腕をだらりと下ろしている。周囲には、彼の死を嘆く天使たち。数ある「ピエタ」の中でも、初めて見るものだった。

「魔石を通して見た絵を、模写したんです」

 イザヤの当惑したまなざしを見て、エノシュが言った。

 イザヤは、思わず聖母の顔に手を伸ばした。キャンバスに載せられた油絵の具の匂いと、盛り上がり。石のむこうではなく目の前に、同じ空間に存在しているその作品を、余すところなく味わい尽くしたい思いだった。ニコデモ司祭がイザヤの隣に立つ。

「よく描けているでしょう。この子は、才能があるのです」

「なぜ、絵を描かせたんです」

「この子が描きたがったからですよ。ここなら、見つかって咎め立てを受ける心配もありません。まあ、あなたがたには知られてしまいましたが」

「キャンバスや画材は、どこで手に入れたんです」

「ここで作ったんだよ」

 セトが苦笑した。

「行きましょう。絵を鑑賞する時間は、後からいくらでも取れますよ」

 ニコデモ司祭の言葉で、イザヤは後ろ髪をひかれる思いで前に進んだ。

 横穴の中には一人か二人、多くて三人の子供たちが収められていた。最後の穴では、ようやく歩き出したくらいの小さな子供を、エノシュよりいくらか年少らしい女児が膝の上に抱いていた。

「子供たちは、全部で何人いるんですか」

「何人だったろうか、おやじ」

「アランで十三人目だ」

「そうか、十三人目か。名前を決めないとだな。おまえ、何がいいと思う」

 イザヤはそれには答えず、ため息混じりにつぶやいた。

「『神の子』とは、あなたと村人の間に産まれた稀人の子供のことだったんですね」

「ああ。成人を迎えた娘をここに通わせるんだ。これだけの数にするには苦労した」

 最後の横穴を過ぎると、正面に鉄格子の入った穴に行き当たった。機構の独房と同程度の広さを持つその闇の中には、縄で縛られたラザロが膝を曲げて横たわっていた。

「ラザロさん!」

「イザヤ……」

 ラザロは悔しそうに目を開いた。抵抗したときにできたものなのか、頬にひっかき傷がある。

「ごめん。どじっちゃったよ」

「大丈夫ですか。何か、おかしなことをされませんでしたか」

「信用がないな」

 セトが背後で小さく笑う。

「僕は大丈夫。スーロフは、どうなった?」

「重傷ですが、まだ生きています。魔術で時間を止めたのです」

「魔術で?」

「彼も傀儡魔だったようです」

 ラザロの視線が、イザヤの背後に向けられた。「なるほど」と力なく笑う。

「僕らは最初から、彼らの手のひらの上で転がされてたってことか」

 そうつぶやいたラザロの眉間に皺が寄る。

「失敗したな。悔しいよ。君の仕事を、やりにくくしてしまった」

「そんなことは……」

「イザヤ。僕のことは気にせず、やるべきことをやってくれよ。いざとなったら、切り捨ててくれてかまわないから」

 ラザロの柔らかな視線を受け、イザヤは二人を隔てる鉄格子をぎゅっと握った。

「必ず、助けます。待っていてください」

「……ありがとう、イザヤ」

 目を細めたラザロを見つめてから、イザヤは司祭らのほうを振り返った。

「話してもらいましょう。あなた方の目的や、これまでにしてきたこと全てを」

 ニコデモ司祭が薄く微笑んでうなずく。

「ここは子供たちがいるので、奥の聖堂へ行きましょう」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る