第四章 人形と悪魔 6

 牢の横から奥へ伸びる道を進むと、ニコデモが「聖堂」と呼ぶ空間が現れた。祭壇らしき長方形の台の上には、燭台と香炉が載っている。よく見れば台にも香炉にも、蔦模様の細かな装飾が施されていた。高い天井部には、巨大な白い柱状結晶が幾重にも交差しているのが見える。

「美しい場所でしょう。始まりの地にふさわしいと思いませんか」

 ニコデモ司祭が結晶を見上げて満足げに髭を撫でた。

「ここで、何を始めるつもりなのです」

 答えを知りながら、イザヤは尋ねた。一刻も早く確かめたかったのだ。彼らの答えが自分の行動を決めるための判断に繋がり、ラザロの救出の成否にも関わってくる。

「順を追ってお話しましょう。こちらへ」

 ニコデモ司祭に導かれ、祭壇の前に並ぶ椅子のひとつに座った。ニコデモは横一直線に置かれた椅子のひとつを動かし、イザヤと向かい合う形で自身も腰掛ける。セトは燭台をどかし、ひらりと祭壇の上に飛び乗った。片足を上げて座ると、余裕の笑みを浮かべながら天井の結晶を見上げる。

「あなた方が野営地に選んだ、あの森――あそこはかつて、ここ一帯を荒らしていた盗賊のすみかだったのです。セトは、彼らに育てられた野良稀人でした」

 ニコデモはそこで言葉を止め、祭壇のほうに目を流した。

「どこで産まれたのか、親はどこにいるのか、どういう経緯で盗賊に育てられることになったのか、そのあたりの事情は今となってはわかりません。私がセトを見つけたのは、二十年前のことでした。連邦政府主導の下、大規模な野盗狩りが行われ、森の盗賊たちは一斉に討伐、捕縛されました」

 その後ニコデモは、盗賊の根城を片付けるためにひとりで森に入った。そこで見つけたのが、幼いセトだった。どういうわけか野盗狩りの際に見つからなかったらしく、ひとりで穴蔵にずっと隠れていたのだと言う。

「リベルの司祭として、当然教会に報告した上で機構に身柄を引き渡さねばなりませんでした。けれども、できなかった。彼は、美しかったんです。イザヤさん、あなたと同じようにね」

 そうしてニコデモはイザヤに向けた目を細めた。

「私はそのとき、稀人というものを初めて目にしました。この村で育ち、支部で教育を受けて司祭となってからも、機構と関わる機会はありませんでした。教師になろうという意志も、なれるだけの才覚も持ち合わせていなかったためです。話に聞いていた星屑の瞳、暗闇で大きく開く瞳孔、たちまち治る傷……すべてが、私を魅了しました。私はそれまで、稀人というものを自身とは別種の生き物だと捉えていたのです。けれどもセトは私を理解し、私も彼を理解しました。彼は私と同様、この世界の美しさを知っていましたし、愛してもいました。少し話しただけで、彼がいかに利発な子なのかわかりました。彼は、稀人は、私と同じ人間であるのだと、そんな当たり前のことに、私はようやく思い至ったのです」

 そこで言葉を止めた老司祭の表情を、イザヤは注意深く見つめた。彼は遠くを見つめるように顎を軽く持ち上げ、続ける。

「私は彼に用意された運命を嘆きました。なぜ稀人と言うだけで生き方を制限されなければならないのでしょうか。もちろん、そこにわれわれの歴史が大きく関わっているということはわかっています。しかし、アバドンや大災害については、詳しいことがほとんど解明されていません。魔力や、傀儡魔についてもです。どうしてアバドンは大災害を引き起こしたのか。どうして彼と同じ目を持つ子供たちが産まれてくるようになったのか。どうして魔力は美術品と関わりがあって、魔石にその情報が封じ込められるのか……わからないことだらけなのです。けれどもわれわれ人間は、残念なことにわからないことをわからないままにしておく勇気を持ち合わせていません。仮の答え――『魔力は悪の力、稀人は悪』という根拠のない決めつけにすがり、幼い頃から隔離、幽閉し、贖罪としての仕事を与えることでかりそめの安心を得る……こんな現状を、田舎の小村の司祭がどうして変えられましょう」

 ニコデモはイザヤに問いかけるように首をかしげた。みずからの内から零れ出そうになる戸惑いと不信を抱えるだけで精一杯のイザヤは、言葉を返すことができなかった。

 今聞いた言葉は、現実のものなのだろうか。こんな考えを持った人間が外の世界に――しかもリベル教会の中にいるということを、イザヤは信じられずにいた。

 ニコデモはイザヤを安心させるように、穏やかな笑みを浮かべた。

「ですから私は、セトに望みを託してみようと思ったのです。稀人の現状を変えるには、まず数を増やす必要があると考えました。稀人の集団、いや、稀人の国を作って団結すれば、その魔力は大国に抵抗できるだけの抑止力となります」

「――魔力が、抑止力に?」

 怪訝そうに眉をひそめたイザヤに、ニコデモは大きくうなずく。

「なり得ます。何せ魔力は、大災害を引き起こした力ですから」

「しかし、今しがた、詳しいことはわかっていないと言ったばかりではないですか」

「ですから、時間をかけてそれを解明していくのです。われわれには時間が必要なのですよ、イザヤさん」

「それだけではない。おれたちの魔術だって、じゅうぶん脅しの道具になる」

 セトが祭壇の上であぐらを組んで言った。イザヤのいぶかしげな視線を受けると、「ははっ」と笑う。

「わかっているぞ。稀人の魔術は傀儡魔にしか効かない、普通の人間に使っても意味がない、と言いたいんだろう? だが、できるんだ」

 不審げな表情をしたままのイザヤに、セトは楽しげに続ける。

「あの大男――スーロフと言ったか。彼は、おれが傀儡魔にしたんだ」

「スーロフさんを?」

「ああ。彼には信仰心がなかったようで、村人と同じようにマギの魔力に侵されることはなかった。そこでおれは『ゼウスとヘルメス』の魔術を使い、彼を忠実な部下へと変身させたんだ。ヘルメスは嘘つきの神でもあるから、なかなか迫真の演技だったんじゃないか?」

 全能の神ゼウスに命じられた任務をこなす伝令の神、ヘルメス。その役割を担ったスーロフが、数々の演技を通して二人を教会へ呼び出した……と考えれば、確かに筋は通る。

 ――が、しかし。

「ありえません」イザヤは信じられないとばかりに首を振った。「稀人が魔術を使って、普通の人間を傀儡魔にするなんて。聞いたことがありません」

「なに、簡単だ。おれ自身にゼウスの魔術を、次に彼にヘルメスの魔術をぶつける。これだけで、なんでも言うことを聞いてくれる操り人形の誕生というわけだ」

「自分自身に、魔術を……」

『つまり、普通の人間に魔術を効かせるために、まず自分を傀儡魔にするってことか。考えたな』

 エレミヤの言葉に絶句する。稀人が稀人に魔術を用いると、一時的に傀儡魔のような状態になると聞いたことがある。傀儡魔状態になったとしても、自身の持つ魔力でそれを中和し無効にすることで、稀人は自力で元の状態に戻ることができる。その特性を利用し、傀儡魔として魔術を放てば、その対象は全く制限されることはなくなるだろう。

「だが、おまえの魔術は完璧ではなかった」

 ニコデモ司祭の鋭い声が飛ぶ。セトは叱られた子供のような顔になり、頭の後ろを掻いた。

「あの大男、信仰心はないくせに、雇い人に対しては忠義深かったようでな。魔術がうまく効かず、不安定な状態だったんだ。気をつけてはいたんだが、とうとう今夜、おれの命令を無視して村から逃げ出そうとした。捕まえたら暴れてナイフを振り回したから、とっさに『ピュラモスとティスベ』の魔術を放ったんだ」

 ピュラモスとティスベ。身分違いの恋人たちの、誤解による悲劇――絶望による自死。

 途端にジョットとリリアンのことを思い出し、イザヤはぎりっと奥歯を噛んだ。

「なんて……勝手なことを」

「正当防衛だ、しかたがなかった」

「全く、予定外の事態でした。われわれは、彼が自身を刺すのを、あと一歩のところで止められなかったのです」ニコデモ司祭がうなだれた。「彼の絶望を解くには、他の魔術を重ねるしかありませんでした」

「ヘルメスの魔術をかけ直した。それで、おまえたちを連れてこさせたというわけだ」

 ニコデモ司祭が立ち上がり、イザヤの前に跪いた。

「イザヤさん。あなたがここにやって来たことは、運命なのです」

 運命、という言葉に、イザヤは眉をひそめた。

「お願いです。われわれの仲間に加わってください。そしてあなたもセトと同じように、父祖として一族を増やしてください」

「なっ……」

 ニコデモの求めに、イザヤは絶句した。考えもしなかった。彼らの目的に感づいていながら、なぜ思い至らなかったのだろう。

「何を、言っているんです。いやですよ、そんな……」

「なぜだ? ここなら、誰の言うことも聞かなくていいんだぞ。絵だって、自由に描ける」

「イザヤさん。われわれの目的は、稀人の国を作るというだけではないのです。美術品を復活させることも目指しているのですよ」

「……美術品の、復活?」

 ニコデモの言葉をなぞり、イザヤは静かにまばたきをした。

「どういう、ことです」

「まずは、エノシュのように模写して増やすところから始めます。けれども私は、魔石の中から絵を取り出すことができるのではないかと考えているのですよ」

 ――魔石の中から、絵を取り出す。

 イザヤは、目の前の老司祭をまじまじと見つめた。そんな夢のような話を、この人は大真面目に実現させようとしていると言うのか。

「研究するのです。ここなら、見つかることなく安全に研究ができます。今回のように教会や機構に嗅ぎつけられたとしても、セトの魔術があれば全く問題になりません」

 左目が、祭壇の上に座るセトへと向けられた。警戒している。

 普通の人間に魔術が効くのなら、稀人にも当然同じことができるのだろう。あれだけの魔石を使うセトに対して手持ちの魔術で対抗するには、先手を打つしかない。

 手袋の中の手が、じんわりと汗ばむ。イザヤの緊張を感じ取ったのか、ニコデモは彼の膝にそっと手をかけた。

「不思議にお思いですね。リベルの司祭でありながら、どうして私が稀人の力になろうと思ったのかと。それとも、私を傀儡魔だとお考えですか」

「その可能性は、あります」

「魔術を使ってみるといい。効けば傀儡魔、効かなければ人間だ」

 口を挟んだセトを思わず睨みつける。

「私を変えたのは、魔力ではありません。先ほどお話したように、ここにいるセトと、彼の美しさです。その後、ある司祭と出会ったことで、私の決意は決定的なものとなりました」

 ニコデモはそこで言葉を止めると、大事そうにひとつ息を吐いた。

「ちょうど三年前のことです。森で倒れていたひとりの司祭を、村人が発見して連れてきたのです。なんとか話を聞くと、教会に命じられた巡礼の途中で病にかかったということでした。彼は自身の運命を救世主が下した罰だと信じていました。そして、教会と機構が今も犯し続けている罪を償わせ、世界を浄化させるという夢を私に語ってくれたのです」

「罪?」

「あなたがた稀人の扱いのことです」

 そう言うと、ニコデモはイザヤの顔を下から覗き込むようにして語りかけた。

「イザヤさん、よく考えてみてください。機構の犬でいる限り、あなたは望む望まないに関わらず、結婚とも生殖とも無縁の一生を送らねばなりません。今は必要もないし、したくもないと思っているかもしれません。けれどもこの先、あなたが誰も愛することはないと誰が断言できますか? いつか愛する人と出会い、二人の子を残したいと思ったところで、許されないのですよ。そんなこと、あっていいはずがない。稀人のあなたの中にも、愛はあるのです。愛は、すべての人間――生物に、開かれているものです。そうでなければ、おかしいでしょう」

 イザヤは、ニコデモの顔を見ることができなかった。目が合えば、心の内が見透かされてしまうような気がした。司祭はイザヤの体が石のように固まったのを見て、静かに立ち上がった。同時に、セトが祭壇からするりと降りる。

「自由に生きようじゃないか。おれとおまえで、稀人の国の礎を築くんだ」

 言いながら、彼は両腕を広げた。

「さあ、選べ。おまえの行動には、これから先、世界が辿る運命がかかっているんだぞ」

 差し伸べられた、つるりとした白い手のひら。それを見つめるイザヤの脳裏に、ザカリアの言葉がよみがえってきた。

「これから先、迷うこともあるだろう。そのときは、自分にとって何が一番大事なのかを考えてみるといい」

 ――自分の、一番大事なこと――。

 ニコデモ司祭の話は、魅力的だった。普通の人間に、しかもリベル教会の中に、こんな考えを持っている人がいるとは思いもしなかった。エノシュによって描かれた絵も素晴らしかった。このままここで暮らせば、回収人として終わるよりも有意義な一生を送ることができるかもしれない。

 イザヤは深く息を吸った。ゆっくりと吐き出しながら、心臓の鼓動が落ち着くのを待つ。

「ラザロさんを、どうする気です」

「安心してくれ。殺しはしない」

 イザヤはニコデモへと視線を移した。彼はイザヤの青い瞳に射抜かれ、気まずそうに目をそらした。

 ――殺しはしない。だが、無事に帰しもしない、ということか。

 イザヤは、速まる動悸を落ち着かせようと深呼吸をした。そうして、ぐっと拳を握る。

「聞こえていますか。返事をしてください」

 唇の先で転がしたその言葉に、セトを注視していた左目がぶるりと震えた。

『どうした、イザヤ。迷ってるのか』

 その声もまた、小刻みに震えていた。

「いいえ」

『じゃあ、決めたんだな』

「はい」

「何だ? 誰と話している」

 セトが怪訝そうな声を上げると、ニコデモ司祭が厳しい表情で彼を見据えた。

「彼の『目』だ。セト、乱暴な真似はやめるんだ。ここは神聖な場所。イザヤさんやラザロ司祭を傷つけることは、私が許さない」

 その言葉に、セトは呆れたような笑みを向けた。

「傷つけなくとも、何らかの『処置』は必要だろう。おやじがいつも言っていることじゃないか」

 やはりだ、とイザヤは顔をしかめた。

 ニコデモの目的は、自分のそれとよく似ている。彼らの仲間になるのが、一番の近道なのかもしれない。だが、たとえ遠回りになろうとも、自分のやり方で世界を変えることだってできるはずだ。

『奴と、戦うのか』

「ええ」

 イザヤは力強い声とともにうなずいた。

 自分の大事なこと。

 それは、エレミヤと回収人を続けること。そして、ラザロを助けることだ。

『……いいのか。おれは、おまえが何を選ぼうが、かまわねえんだぞ。奴らに加わったとしても、報告をするつもりはない。そうなったら、意識を肉体に戻して、隙を見て逃げ出す努力だけはしてみるが……まあ、成功はしねえだろうな』

「私もそう思います」

『わかった。それなら――』

「悪いが、内緒話はそのへんで終わりにしてくれないか」

 セトが乱暴に頭を掻いた。

「どのみち、おまえもあの司祭もタダでは帰せない。ただ、大事な子供たちがいるからな。おれだって、手荒なマネはしたくないんだ。おまえがここに残ると言えば、あの司祭も悪いようにはしない。多少魔術の犠牲にはなってもらうが、命までは奪うつもりはない」

 そう言うと、首にかけた魔石のネックレスをつまんだ。色とりどりの魔石が、渦を孕んで白く濁る。

『いいか、よく聞け』

 イザヤはエレミヤの語る作戦を聞きながら、じりじりと後退した。セトはその様子を見て一瞬きょとんとするが、すぐに楽しそうな笑みを浮かべる。

「なるほど。それが、おまえの出した答えか」

 ニコデモ司祭が怯えたような目をイザヤに向けた。

「イザヤさん。どうするつもりですか。まさか……」

「申し訳ありませんが、私は今までもこれからも、機構の回収人です」

 ニコデモ司祭が胸に手を当ててよろめいた。同時に、セトの高笑いが聖堂内に響く。

「おれたちのこと、機構に報告するつもりか? 所詮、子飼いの稀人などそんなものか」

「子飼いと言うなら、あなただって同じでしょう」

 イザヤは自身を奮い立たせるように、腹の底から低い声を出した。

「閉じ込められ、司祭に教育されたことだって同じだ。違うように思えても、私とあなたは所詮同類なんですよ」

「一緒にするな」

 セトの声が一段と低くなった。

「おれは、閉じ込められてなどいない。夜だけだが外に出られたし、知り合いだって大勢いる。何よりおれは、愛されている」

「違います。利用されているだけです。あなたの行動に、人生に、あなたの意志は存在しない。あなたはニコデモ司祭の操り人形なのですよ。身代わりの人形を埋葬されたあの子たちだって同じだ。外の世界で死んだことになっている彼らの居場所は、ここしかない。回収人として青空の下を歩くことと、狭い地下に閉じ込められてかりそめの自由を享受するのと、果たしてどちらがマシでしょうね」

「……いい加減、黙ったらどうだ」

 セトはネックレスを繰ると、その中のひとつの魔石を唇に近づけた。同時にイザヤも手袋を脱ぎ捨て、魔石に熱い息を吹きかける。

 セトが魔石に口づけをすると、木の幹に巻き付いた太い蛇が飛び出してきた。アダムとエヴァの物語、「誘惑」のアトリビュートだ。罪や嫉妬、邪悪の象徴でもある。

 イザヤは「銀三十シェケル」で現れた布袋の紐を引くと、それを載せた手で円を描くようにして銀貨を放った。師を売った報酬である冷たい銀貨たちは、イザヤに向かって来る蛇の動きを緩めた。そして最後に飛び出た銀貨が、イザヤの胸に当たる。瞬間、がくんと全身から力が抜けた。膝を突き、息を整える。襲い来る闇に、感情が乗っ取られていく。どうしてこんなことに。悲しい。悲しい。必要だった。けれどもこんな大役を、あのお方は私に――……

『イザヤ!』

 暗闇のむこうから聞こえる声を掴むように、イザヤはぎりりと歯を食いしばった。目を開けて、首を左右に振ってうごめく蛇を注視する。

 銀貨。後悔と悲しみの象徴。けれどもイザヤの胸の中にある後悔は、少年の日の思い出一つだけだ。悲しみとは、最近親しくなったばかりだ。一枚の銀貨程度のそれらに、今のイザヤが飲み込まれることはない。イザヤは震える膝に流れ込むように力が戻ってくるのを感じ、素早く立ち上がった。

 ――『ディアナの弓矢』。

 右手を持ち上げ、唇の間から息を吐く。現れた弓に矢をつがえ、二度引いた。矢は蛇を突き抜け、セトに向かって勢いよく飛んでいく。セトが別の魔石に口づけする瞬間、もう一本の矢がニコデモ司祭の胸を貫いた。

「……どうして……」

 ニコデモ司祭はその場でどうと床に倒れ込んだ。

『よし、今のうちに鍵を取れ』

 セトは追尾してくる矢を振り払おうと、走り回りながら魔石のネックレスを手繰っている。イザヤはニコデモに駆け寄ると、司祭服の隠しから鍵束を取った。その瞬間、ライオンのうなり声が聖堂じゅうに響いた。セトが新たに放った魔術だ。

 矢を噛み砕くと、ライオンは黄金色のたてがみをはためかせて突進してきた。イザヤは再び銀貨をぶつけたが、ライオンはひらりと跳躍し、それをかわした。

 ライオンは復活や憤怒の象徴で、使徒マルコや聖ヒエロニムスなどのアトリビュートでもある。ならば、とイザヤは同じく復活の象徴でもある「蝶」を放った。ライオンは蝶の乱舞に目を細め、その場で足踏みを始める。そこにすかさず「鉛の矢」を放つと、戦意喪失したライオンは眠るように床に崩れ落ちた。

 再び魔石のネックレスを手繰り始めたセトを後ろに、イザヤは走って聖堂を出た。ここまでは、エレミヤの作戦どおりだ。

 イザヤの魔石が使える魔術は、銀三十シェケル、コキュートスの氷、蝶、鉛の矢、エンデュミオンの眠り、狩猟の弓矢。ここは月光が届かないから、エンデュミオンの眠りは使えない。蝶や鉛の矢の精神系攻撃も、おそらくセトには効果が薄いだろう、とエレミヤは言った。

『コキュートスの氷で先手を打って奴の動きを封じられればいいが、手の内がわからないうえに相手が二人なのが不安要素だ。まずは銀三十シェケルを自分に放って傀儡魔になれ。その後で二人にディアナの弓矢を使うんだ。牢の鍵はおそらく司祭が持っている。そいつでラザロを助け出したら、すぐに地上に戻るんだ。後は月光でも氷でも使って、セトを止めればいい』

 子供たちが不安げな視線をよこす中、イザヤは鍵束の鍵を一つずつ試した。ラザロがはっと目を開け、縛られた体をなんとか起こす。

「それだ。その、銅の鍵だよ」

 イザヤは一本だけある銅製の鍵をつかみ、鍵穴に突っ込んだ。がちゃり、と小気味いい音が響く。扉を開けて、縄をほどく暇もなく肩を抱いて立ち上がらせた。

「早く! 走れますか?」

「イザヤ、後ろ!」

 ラザロの言葉に、血走った目で振り返る。牢の扉に体を押し当てたセトが、鍵を閉めたところだった。二人の囚人の前に立ち塞がると、セトはふーっと大きく息を吐いた。

「思ったよりやるな、おまえ。あの矢はなかなか厄介だった。蝶もそうだが、神話のアトリビュートは面白いものが多いな」

 そうしてくつくつと可笑しそうに笑った。

「なあ、時間はたっぷりある。気が変わることだってあるだろう。ちょっとそこで頭を冷やして、考え直してみないか? 機構が必要としているのは稀人であって、おまえではないんだ。代わりがいるという時点で、おまえのほうこそ人形なのでは?」

「私の代わりはいません。私は私です。私にしか、できないことがあります」

「ほう、興味深い。教えてくれよ」

 言い終わる直前に、セトの手がネックレスへと伸びた。イザヤはその手に向かって魔術を放つ。

 地獄の氷が、セトの右腕と胸を覆った――かと思うと、ぱりんと空しく砕けた。魔力不足。立て続けに魔術を放ったせいで、体内の魔力をほとんど消費してしまったのだ。

「残念だったな。おれの『蛇』でおまえを導いてやろう。原罪ではなく、人類を浄化するための崇高な一歩へとな」

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