獣のアイアシアド(後編)
一連のやり取りを見ていたマーシャルは小声で毒づく。
「あのバカ……!」
こういう時は一目散に逃げるのが正解だ。マーシャルもイヴォーナも悪魔の強さをよく知っている。当然ながらエーリックも……。ステンスタッド村を滅ぼしたのは、この獣面人身の怪人――アイアシアドなのだから!
魔獣は驚異的な再生力を持つが、野生より少し力が強いぐらいの動物にすぎない。悪魔もピンキリで、弱い悪魔なら人間でも撃退できる。堅固な鎧兜に身を包み、十分な戦闘訓練を積んだ王都の騎士団なら、少しぐらいは数で劣っていても立ち向かえるだろう。だが、この怪人は違う。上級悪魔とでも言うべき存在だ。
マーシャルは小声でイヴォーナに指示した。
「エーリックを連れて逃げろ」
「あんたは?」
「少し遊んでから行く」
「なんで――」
「ともに酒を飲んだ仲だ。おごりの分ぐらい、義理は果たさないとな」
「バカだね」
ただそれだけの理由で命を張る。マーシャルはそういう男だった。イヴォーナも承知の上で、ずっと彼と組んでいる。だから止めない。
一方でアイアシアドとツェザールは睨み合ったまま動かない。ピリピリと張り詰めた空気の中、最初に口を開いたのはアイアシアド。
「かかってこないのか? チャンスをくれてやっているんだが」
「生意気を言うな」
「残念だ」
それは一瞬のできごとだった。アイアシアドが再び笑ったと同時に、フッとその姿が消えて、次の瞬間にはツェザールを裏拳で殴り飛ばしていた。その一撃は二本のロングソードをへし折る威力。折れたのはツェザールの分と、マーシャルの分だ。
マーシャルはアイアシアドの狙いを先読みして、攻撃に割って入っていた。折れた剣が拳の威力を減衰させて、どうにかツェザールは生きていた。
「お前、できるな」
マーシャルに目をつけたアイアシアドは、うれしそうに笑う。その隙にマーシャルはツェザールの仲間に指図した。
「今の内にツェザールを連れて下がれ」
「あ、ああ」
二人は打撃を受けて足取りもおぼつかないツェザールを支えて撤退する。ツェザールは自分だけ逃げるわけにはいかないと抵抗するが、力が入らずに引きずられる。
その様子をアイアシアドは何もせずに見送っていた。
「これで邪魔者はいなくなった」
「そうだな」
余裕のアイアシアドに対して、マーシャルは苦笑い。マーシャル自身、アイアシアドに勝てるとはカケラも思っていない。少しずつ後退しながら時間を稼いで逃げきればいいのだが、それさえも難しいだろうと考えている。
マーシャルは死を覚悟して、ショートソードを構えた。大振りのロングソードは当たらない。攻撃にしても防御にしても、取り回しの軽いショートソードの方が有効。
アイアシアドは姿勢を低くすると、また笑う。
来ると直感したマーシャルは、ショートソードでの防御を試みた。同じ攻め方を二度するとは思えない。今度は逆方向から来る。そうヤマを張って、ショートソードを振り抜く。
結果――予想は当たった。だが、マーシャルのショートソードもアイアシアドの拳を受け止めきれず、あっさり叩き折られる。そのまま彼は側頭部を殴られて、軽々と弾き飛ばされ、針葉樹の幹に体を強打した。衝撃でザワザワと木が揺れて、バラバラと枯れ葉や木くずが落ちてくる。
「よく反応できたな。だが、脆すぎる。人間の限界か」
マーシャルもタダで殴られたわけではない。ショートソードを振り払うと同時に、小型クロスボウで射撃していた。必死の反撃も虚しく、ボルトはアイアシアドの表皮に弾かれたが……。
(いくら小型とは言え、ボルトが全く効かなかった。硬すぎる)
素の身体能力だけで、攻撃面でも防御面でも人間を圧倒できる。これがいくつもの集落を壊滅させた、真の悪魔の力なのだ。
「お前、名前は? 憶えといてやるよ。忘れるまでな」
(ここまでか……。案外つまらない人生だったな)
たったの一撃でマーシャルは体を動かせなくなっていた。自分はこんなに弱かったのかと彼は落胆する。アイアシアドに返事をする余裕もない。
「何も言うことはないか……。じゃあな!」
マーシャルに向けてトドメの一撃が加えられる直前、横合いからクロスボウのボルトが飛んできた。それはアイアシアドには命中せず、マーシャルが落としたランタンを破壊して、周辺の落ち葉や枯れ枝を燃え上がらせる。
アイアシアドは燃え広がった炎に一瞬だけ怯んだ。その間に二射目が飛んできて、今度はツェザールが落としたランタンを射貫く。またも炎が拡がる。
「誰だ!! 俺の邪魔をするのは!」
アイアシアドが振り返ると、そこにいたのは……エーリックだった。
「お前か!? こんなひ弱いコドモごときが」
アイアシアドは驚愕をあらわにして、表情を歪める。そうしている間にも炎はますます拡がって、暗いダンパの森を明るく照らす。冬に備えて脂を蓄えた木々は、火に炙られて乾燥すると、激しい炎を噴き出しはじめる。もう立派な森林火災だ。
「くっ……この屈辱! 忘れんぞ!」
そう宣言したアイアシアドは風より速く炎の包囲から逃れて、あっと言う間に森の中に姿を消した。
(助かった……のか? エーリックに助けられた? 俺が?)
朦朧とする意識の中でマーシャルもアイアシアドと同様に驚いていた。
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