二十年前の五月の日、まだ小さかった私に一枚の羽をくれた天使の少女を探しています

かぎろ

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 二十年前の五月の日、まだ小さかった私に一枚の羽をくれた天使の少女を探しています。二十年前、私は六歳でした。小学校に行きたくないと駄々をこねては、母親を困らせ、先生に心配をかけていました。行きたくなかった理由が何だったかは思い出せません。ただ、中学校や、高校でも惨澹とした学生時代を過ごした私にとって、きっと当時から学校は敵だったのでしょう。それでも義務感がありましたし、家に留まっていれば母が悲しい顔をするのは目に見えていましたから、仕方なしにその日も出発しました。周囲には朝靄が立ち込め、小雨が降っていましたが、傘を取りには戻りませんでした。なんだか、どうでもよかったのです。

 小学校は広い河川を挟んだ大橋の向こうにありました。私はまず大橋へと向かうため、土手の上を歩きました。時間は既に朝の九時を過ぎています。遅刻は確定です。学校に到着してからのことを考えると、足取りが重くなっていきます。仲の良い友達がいない教室。入ろうと扉を開けた瞬間の一瞬の静けさ。みんなが授業を受けている机の並びのまんなかで、私はみんなより遅れてランドセルの中の整理をします。また遅刻だよ、と誰かがいいます。

 真面目そうなのにほんとうはいいかげんなんだな。

 時間も守れない、不真面目なやつ。

 私はありもしない周りからの声を想像し、怖くなりました。足にまとわりつく、湿りけのある膜のような空気。一歩一歩が遅くなり、やがては立ち止まりました。顔や手は湿って、服の下やランドセルの背中が気持ち悪くて、心細くて、いますぐに帰りたい気持ちでした。帰る場所はありませんでした。

 唐突に、雨がやみました。

 いいえ、やんだように思えましたが、それは頭のうえに、傘を差し伸べられたからでした。

 はっとして、顔をあげました。

「大丈夫?」

 傘をもつ少女はいいました。


 少女は私よりも頭ひとつ分ほど身長が高く、すこし見上げるかたちになりました。「一年生?」少女がいいました。「そう。じゃあ、一緒に学校いこうか」少女の言葉を再現するには記憶があいまいです。ただ、少女は自分が同じ小学校に通う六年生であることを告げて、胸につけた名札も見せて、私の警戒を解きました。一年生の私にとって、六年生の少女は偉大なお姉さんでした。

 ふたりで、ひとつの傘を使いました。ゆっくりとした歩調で、小学校への道をゆきました。少女と私は、ほとんど言葉を交わしませんでした。私は人見知りで、きっと少女もそうだったのでしょう。

 少女もまた、この時間にここを歩いている。

 それがなにを意味するのか、今となってはわかりません。私たちはたったふたりで通学路を歩きました。やわらかな霧雨が降りつづき、パステルピンクの傘の骨から、小さな雫が散りました。


 靄の向こうへと進んでいたら、いつのまにか、小学校についていました。昇降口まで、黙って歩きました。屋根の下までくると、少女は傘を閉じ、ばさばさと雨滴を払います。「あ」少女が声を出してしゃがみ、なにか拾いました。それから立ち上がって、私に、それを差しだしました。

「あげる」

 私はそのとき、少女の正体を知りました。いえ、実際には幼い勘違いでしたが、当時の私は、「このひとは、天使だったんだ」と本気で信じたのです。少女は私の手に、一枚の羽をにぎらせると、別れの挨拶もそこそこに、六年生の下駄箱の方へ行ってしまいました。いまでもそのときの羽が手元にあります。白くて小さな、ふわふわの羽付きのそれは、大して珍しくもないキーホルダーでしかなく、もっといえば、少女が気まぐれに拾った誰かの落とし物に過ぎません。


 私はそれからも、鬱屈とした学生時代を過ごしました。天使の少女と出会っても、なにかが変わることはありませんでした。社会人になり、精神を病んで離職しましたが、まだ再就職へのめどは立っていません。どうせ自分にはなにも為すことができない。そんな思いがいつもあります。自分はなにも変われない。自分に生きている価値はない。死んだ方がましなのではないか。なぜこんな無様を晒してまで生きているのか。

 まだあのときの天使がこの世界のどこかにいるかもしれないから私は生きています。

 会いたいわけではありません。ただ、一瞬しか姿が見えない人ごみのなかででもいいから、存在を確かめたいのです。もう少女の顔も、声も、覚えてはいませんから、すれ違ったとしても決して気づくことはないでしょう。それでも、このなかの誰かがあのときの天使だったとしたなら、まだ、生きてみたい。くだらないことです。少女は天使ではなく、羽はキーホルダーに過ぎず、どうしてこんなものを支えにしているのか、自分でもよくわかりません。それでも私は二十年前の五月の日、まだ小さかった私に一枚の羽をくれた天使の少女を探しています。雑踏のなかズボンのポケットに手をさしこめば、そこには天使の羽の手触り。

 思いだします。

 一緒にいたこと。

 あの朝靄のなかで。

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