第10話
※主人公の名前が凪人から無人に変更されてます。他の話は暇な時に修正します。申し訳ありません。
彼女が転入して、1ヶ月近くが経過している。彼女の人気は言うまでもないが、当時と比べると流石に落ちついている。
無表情、無感情、無関心。彼女と会話をしても、このような態度を取られてしまう為、殆どの生徒はリピーターにはなり得ない。噂は広まり、彼女に対してアプローチを掛ける生徒も減った。というより、皆臆病風に吹かれてしまったのだ。
階段から落ちた桜木を庇い、気を失ってしまった、その次の日の朝。椿は、本を片手に美しい孤立を教室の隅で形成していた。
「おはよう。」
俺はそんな彼女に、昨日のお礼を兼ねて話し掛けた。しかし本に夢中なのか、彼女からの返事は無かった。
「椿?」
名前を呼ぶと流石に気付いたのか、此方を向いてくれた。読んでいた本は、栞を付けて閉じている。
「なに?」
「昨日は、ありが……」
その時、椿の直ぐ後ろの扉が勢いよく開かれた。現れた生徒が同じクラスで有れば、折角の彼女との対話を遮る事は無かったが、居る筈も無い生徒の登場に、出る言葉を失った。
「せ、先輩っ!!!」
旧校舎の2階にいるべき存在。桜木永海は、俺を見つけるや否や涙ぐみながら、飛び掛かるように俺を抱き締めた。
あの時とは状況が違うが、頭を抱きかかえる桜木と、頭に手を回され胸元に顔を埋めている俺とで、逆の立場になっている。
「うう、良かったです……無事で……」
わざとなのか、素でやっているのか、俺は困惑しながらも、彼女の包容を拒絶する事は出来なかった。これでも彼女は、昨日の事故に悔い、俺に対して悪びれているからだ。
「あくらひも、うしえよあった。」
(桜木も、無事で良かった。)
彼女の圧力で口が塞がり、上手く喋れない。背中を2度叩くと、抱き締めた腕を僅かに解いてくれた。
「……大丈夫か?」
「……はい。」
彼女の涙が、俺の頬に当たる。
「怪我は?」
「大した事は有りません。先輩は……?」
「俺もだ。」
「そうですか。良かった。」
桜木の、涙で赤くなった隈のある眼を大きく曲げて、笑顔をみせた。
「俺より、後ろの椿に礼を言ったらどうだ?」
そう言うと、桜木は俺の頭から腕を完全に解いた。
「あぁ、椿先輩には昨日ご挨拶してます。でも、改めて……」
桜木が振り返る。
「昨日は、有難う御座いました。」
「ええ、問題ないわ。」
相変わらず無表情の椿が答える。
気付けば、他の生徒の声が聴こえない。見渡すとクラス中の視線が、俺と桜木に向かれていた。直ぐ前の席の久遠は、何故か少しだけニヤついている。
「さ、桜木……」
「はい、なんでしょうか。」
「すっごい見られてるから、続きはまた今度にしよう。」
「あっ……あー、ううん。私は大丈夫です!! 見られていても平気です!!」
態々来てくれた桜木を、突き返したくもない。しかし、今俺は非常に居心地が悪かった。
俺の背後から白鷺めいの声がした。しかし、その声は少し攻撃的な印象を受ける。
「棟ごとに学年が分けられているのは、何故だか知っていますか?」
「……知っていますが、それが何か?」
桜木が答える。
「そうですか……如何なる理由があろうと、他学年の教室に入る事は禁止です。訳有りのようですが、トラブルを防ぐためです。分かりますね?」
白鷺の隣には純恋樹咲が居た。彼女は、白鷺と桜木の若干険悪そうな雰囲気に眉を顰めている。
「……分かりました。」
不服そうな桜木は、教室の外へ出た。
「神栖先輩、この続きはまた後で……」
「お、おう。元気でな……」
何故だか分からないが、胸を強調した桜木は、教室を後にした。
椿はいつの間にか、本を読み始めている。全く興味が無さそうだ。
「さぞかしご機嫌でしょうね、無人君?」
語気を強めた白鷺が言う。純恋は彼女の影に隠れるようにして、俺を見ていた。
「し、白鷺さん……」
「無人君も校則は知っているよね?」
「あっ……うん、一応。損な役をさせて悪かったな。」
「えっ? ああ、別にそれはいいけどさ……」
白鷺が足元見ている。
「あっそうだ、今日の放課後は宜しくね……ほら、樹咲も挨拶して。」
純恋樹咲は、ボブヘアに幼さの残る容姿をしている。特に白鷺と並ぶと、その身長の低さと肩幅の狭さに目がいく。
「よ、宜しく。神栖君……」
小学校時代から一緒の筈だが、関わった記憶は無い。どんな性格かも、何をしていたかも分からない。唯一、小さいという印象しか彼女には持ち合わせていない。
「宜しく、純恋さん。」
少しの沈黙の後、チャイムが鳴った。純恋は眼を合わす事はなく、その音が免罪符となったのか、すぐ去って行ってしまった。
「じゃ、じゃあね。」
そう言うと白鷺も同様に自分の席につき、朝のホームルームが始まった。
3限目。藤崎先生が入室し、数学が始まった。今日は新しい範囲に入る為、より集中して臨まなければならない。何せ最初が分からなければ、間違いなくその応用なんて出来る訳がない。
藤崎先生の合図で、白鷺による号令がなされる。藤崎先生は、黒板に公式や図を書き始めた。チョークの音は、静か教室に心地良い音色を届けている。
「無人。」
いつにも増して声が小さい椿が、俺を呼んだ。
「どうした?」
「教科書忘れたから、見せて。」
「いいよ。じゃあ、机くっつけるか。」
彼女にしては珍しい。忘れ物もそうだが、自分から行動するのは、あまり見た事が無かった。しかし、イメージとかけ離れている訳ではない。今回に関して言えば、受身な彼女と真面目な彼女、どの様な行動を取ってもおかしくはない。
俺は机を持って、静かに寄せようとした時、床を擦する大きな音を立てて、彼女の机が寄せられた。
殆どの生徒が此方を向き、藤崎先生ですらチョークを降ろして俺達を見る。
「なんだ、教科書忘れたのか?」
「あ、そうですそうです。すいません……」
「次からは気を付けろよ、神栖。」
そう言って、藤崎先生は板書を続ける
黒いマスクと艶やかな前髪の間から覗かせる彼女の大きな眼は、その視線を俺と交差させ、じっと見つめている。その変な間に戸惑っていると、藤崎先生が板書を終えたようで、順に説明を始めていった。
彼女の眼圧から逃れた俺は黒板を見る。数学はどんどんとその難易度を上げて、公式と関連する図形で黒板は埋めつくされていた。教科書についても、丸々1ページが公式の紹介と説明、更に複数の例題が記載されている。得意科目であっても、俺の学力では着いて行くので精一杯だった。
対する椿は、教科書を都度確認しながら、手を休める事は無かった。きっと、これくらいの問題はすんなり解いているのだろう。
頃合いを見て、次のページをめくろうとした時、彼女の左手に俺の右手は押さえつけられた。ひんやりと心地良い感触が、右手の甲を刺激している。
その状態のまま、彼女はずっと教科書を凝視している。
「分かる?」
「えっ、何が?」
「3つ目の公式……」
俺は彼女が指差した箇所を見る。教科書には、その式に至る過程が簡単に記載されていた。それを見つつ、脳をフルに使って考える。
彼女が助けを求めている。是非とも力になりたい。
そしてやっと、何かを掴んだ気がした。だが、説明が出来ない。その程度の理解だ。
「分かった様な気がする……けど、上手く伝えられない。」
「そう……それでもいいから、教えて欲しい。余り数学は得意じゃない。」
「分かった。でも今は授業中だから……そうだな、週明けの放課後でもいいか?」
「うん。」
「よかった。」
俺は、授業の残りの時間を特に集中して臨み、明日明後日の休日で、必ずこの範囲を完璧にしようと心に誓った。
3限目が終えた後の10分休憩。次の移動教室に向けて俺と椿は、第3教室棟の1階を目指して廊下を歩いていた。
金曜日の4限目は、選択科目となっている。美術と音楽の2種から選択出来るが、俺は音楽を選択していた。椿も同様だ。
この様に2人で移動するのは初めてだが、数学の教科書を見せた流れで、自然と一緒に行く事となった。
「教科書見せてくれて、ありがとう。」
数人の生徒が廊下ですれ違う中、俺は内心緊張しながら椿の横を歩いている。幽霊の葵さんとは、歩幅や速度が僅かに違い、意識して何とか足並みを合わせていた。
「全然いいよ。また、何かあったら頼ってくれ。」
「ええ、そうするわ。」
第2教室棟3階の廊下の端まで来て、次は階段を降りなければならない。踊り場まで来て、1段降りようかとした時、俺の脚は硬直してしまう。
「ちょっと待って……」
そう俺が言うと、彼女も止まった。
昨日の不幸な事故が、トラウマとなっている。足を滑らした瞬間の桜木が、何度も頭に浮かんでくる。
最近怪我人が多いと西華先生は言っていた。そして昨日の事故があった。俺の事はいい。だがもし椿が今足を滑らしてしまったらと思うと、これ以上先へは進みたくない。
「手……繋いで降りる?」
「え……?」
彼女が、右手を差し出している。
少しの沈黙があった。その後、彼女は腕を下げてしまった。だが、俺はすぐにその下がった右手を掴み、手摺を持って彼女と階段を降りた。
彼女は無表情で俺を見ていた。
「ありがとう……」
「ええ……もう、怖くない?」
「うん、凄く安心する。」
「そう。」
彼女の掌は、柔らかくてサラサラしている。繋がっている事が、これ程安心出来るなんて思ってもみなかった。いや、忘れていたという方が正しいのかもしれない。
何とか階段を降りきり、1階連絡通路を渡る。綺麗な花畑を誇る中庭が見える。旧校舎の方とは違い、祭殿やビニールハウスは無いが、こちらはまるで別世界に来たような芸術性を秘めていた。
「いつまで繋いでるの?」
「ごめんっ!!」
俺は直ぐに手を離した。
「うん。」
「そうだ……昨日は本当に有難うな。今日も気を遣ってもらって……」
「別に気にしなくていい。」
彼女は相変わらずのままだ。手を繋いだ事で同様する訳でもなく、こうやって会話をしていても感情は出さない。だが、感情が無い訳ではない。それはここ最近で分かった事だ。
「後、遅くなって申し訳ないんだけど、部活の申請は受理されたから。此れから、改めて宜しくな。」
「ええ、此方こそ。」
「前も言ったと思うんだけど、今日の放課後の部活動は参加する?」
「……参加しないって選択肢はあるの?」
「ああ、勿論。参加してない部員は2名いるよ。因みに椿合わせて5名しか部員は居ない。」
彼女は眼を落として、考えている。チラッと此方を見たかと思うと、直ぐに口を開いた。
「参加する。」
「そうか、良かった。……先出しするのはズルいと思ったから言わなかったけど、今日だけ白鷺や久遠達が参加するから。」
椿の内向的な性格であれば、この情報は先に出した方が良かったかもしれない。
「ごめん、先に言ってた方が良かった?」
「どうして? 私は別に構わない。」
「そ、そっか。良かった。」
俺達は音楽室に到着した。
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