大宮弟、初めての二日酔い

 息苦しさに目を覚ますと、枕に顔を突っ伏して寝ていた。うつ伏せの状態から体を起こすと、昨日来ていた服のままだった。

 風呂にも入らず着替えもせず、ベッドに入っていた事実に、僕はショックを受けた。今すぐシーツをはがして洗いたい。


 枕元の時計が十時半をさしていたことも、僕を慄かせた。休みの日でも七時には起きていたのに、自分が信じられない。

 勢いよく起き上がった瞬間、頭がガンガンと痛んだ。これが二日酔いというものか。


 いっそのこと何もかも記憶がなければいいのに、靄のかかったようなうっすらした記憶が残っていた。槙田さんに介抱され、姉が迎えに来てくれたことを何となく覚えている。


 途轍もない憂鬱と頭痛を抱えながら、それでもシャワーを浴びて着替えた。体のすっきり感を打ち消すほどの頭痛は相変わらず続いていた。


 食欲は皆無だったけれど喉が渇いていた。リビングからはテレビの音と、母親の話し声が聞こえた。電話でもしているのかと思ったが、テレビに向かって喋っていたらしい。紛らわしい。


「なっちゃん起きたの。あまりに起きてこないから、もう少ししたら様子見に行こうかと思ってた」


 僕に気づいた母が、声をかけてくる。テレビの音と母の声を頭に響く。世にいう二日酔いというものがこんなにつらいものだなんて知らなかった。僕は曖昧に相槌を打つ。

 ペットボトルの水をコップに注ぎながら辺りを見渡すが、姉の気配はなかった。部屋にいるのか、出かけているのか。


「出かけてるの?」


 主語は言わない。何と呼んだらよいのかわからないから。でも母には伝わるはずだ。


「出かけてるっていうか、お姉ちゃん今日仕事だって。後でちゃんとお礼言いなさいよ」


 言われるまでもなく言うつもりだった。早く伝えなけければお礼の催促が始まるかもしれない。物品で求められないだけいいのかもしれないけれど、正直少し面倒くさい。今日が仕事だというのに迎えに来てくれた姉には感謝しかないけれど。

 酔っていたことをからかわれるかいじられるか、それとも構い倒されるのか。予想がつかない姉の行動に戦々恐々としつつ、とりあえずお礼のメッセージだけ送っておく。


 本当は今すぐにでも何かお菓子を作って気を紛らわせたい。鬱屈を晴らしたい。

 けれど内側から誰かに叩かれているような頭痛と、胃の不快感はすぐに治まる気配などなく、ほぼ一日、部屋で置物のようにじっとして過ごすしかなかった。



 翌日、ようやく二日酔いから解放されてお菓子作りに励んでいると、姉がすすすと近づいてきた。


「何作ってるの?」


「クッキー」


「チョコチップ食べたい、くるみ食べたい、レモンピール食べたい!」


 姉は欲望に忠実だ。すかさず食べたいものが出てくるところを尊敬する。生地の配分を考えながら、材料があったかどうかも考える。ないから今度、というわけには今日はいかない。姉へ感謝の貢ぎ物をしなければいけないのだ。


「わかった」


 答えると姉は満足そうに頷いて、何だかわからない鼻歌を口ずさみながら去っていった。

 何をしでかすかわからない姉がいなくなってほっとする。手伝いと称して他意なく邪魔をしてくるので油断ならない。悪気がないのが逆におそろしい。


 計量したり粉をふるったり混ぜたり、そういう作業は無心になれるから好きだ。いろいろなことが頭から消え去って、ただ目の前のことだけを考えていられる。

 焼いている間に洗い物を片付け、ぼんやりとオーブンの中の様子を眺めていると甘い香りが漂ってきた。この香りが好きだ。甘いものはあまり好きではないけれど。


 クッキーが焼き上がって少しすると、においに誘われるように姉がキッチンにやってきた。


「焼きたて食べる?」


 僕が天板に乗ったままのクッキーを指差すと、食べるー、と姉は小躍りで近づいてきてくるみの入ったクッキーをすばやく取って口に運んだ。


「んまー!」


 幸せそうにもぐもぐと食べる姉を見ていると、作ってよかったなあと思う。作ることそのものに目的があるけれど、誰かのおいしいや幸せそうな顔が副産物だ。


「槙田さんて甘いの食べる人?」


 チョコチップクッキーにも手を伸ばしながら、唐突に姉がそんなことを言い出した。


「うん、食べてたと思うけど。何で?」


「お礼。これ持ってきなよ」


「え!? やだよ」


 こういうのを作るのが好きだとは、誰にも話していない。からかわれたりするのは嫌だ。


「じゃあわたしからのお礼ってことで。ラッピングするから明日持ってってね」


 姉は決定事項のように告げると、当然のようにレモンピール入りのクッキーもぼりぼりむさぼりながら去っていった。



 バレンタインに贈り物をする女性は、こういう心境なのだろうか。僕は朝からずっと槙田さんの動向を落ち着かない気持ちで窺っている。一人になる隙を狙っているのだけど、こういうときに限ってなかなか機会に恵まれない。

 朝のうちに改めて、飲み会での粗相については槙田さんに謝罪とお礼をした。槙田さんは「あれは山室が悪いから」と朗らかに笑ってくれた。そのときに姉から預けられた例のものをさっと渡せたらよかったのだけど、山室さんが「なんすか〜」などと入ってきたので渡しそびれてしまった。


 僕が作ったクッキーはダークブルーの小さな紙袋の入ったラッピング袋に入れられて、英字の入ったマスキングテープで止められていた。姉のことだからごてごてのラッピングでもするのではないかと思っていたが、このシンプルさが本気ぽくて逆に怖い。槙田さんに興味でもあるのかと余計なことを考えてしまう。

 読めない姉の思考と、渡せないクッキーに悶々としたまま定時を迎えてしまった。槙田さんが帰るタイミングで追いかけるしかない。「渡せなかった」が姉に通用しないのはわかっている。


「大宮、どうした? 今日ずっと険しい顔してるけど」


 隣の槙田さんがノートパソコンを閉じながら、こちらを向いていた。帰るところらしい。幸い、周りにも人がいなかった。


「もしかしてまだ飲み会のこと気にしてる?」


「いえ、あの……」


 気にはしている。僕に課せられた任務が、まさにそのことと関係しているからだ。心配そうにこちらを見ている槙田さんに、申し訳なさが募る。僕は覚悟を決めた。


「あの、これこの前のお礼、……姉からなんですけど」


 ずっと手放したかったものを槙田さんに差し出す。傍からみたら、僕が槙田さんに告白しているようではないか。姉の好みそうなシチュエーションを、脳内で必死に否定する。

 槙田さんは僕の差し出したものを見てから、目を瞬かせた。


「……えっと、ありがとう」


 すごくぎこちない動きで、槙田さんはそれを受け取ってくれた。

 明らかに手作りのお菓子が入っていそうなラッピング。それを同僚の姉から渡されるという状況を思うと、申し訳なくなる。


「これで悩んでた?」


「ええと、まあ……」


「ありがとう、お姉さんにもよろしく伝えて。じゃあ、お疲れ」


 槙田さんは少々困った表情をにじませながら、ぽんと僕の肩を叩いて帰っていった。とりあえず任務を終えた脱力感とともに、本当に渡してよかったのかという後悔がよぎる。

 それでも、「渡していたんでしょ」という姉の圧を思えば、槙田さんには悪いけどこちらのほうが優しい気がしてならない。姉の真意はわからないし、確認する気も怖いのでないけれど、これでよかったのだと言い聞かせた。



 翌日槙田さんが「お前の姉ちゃん本当おもしろいな」と思い出したように肩を震わせて笑い出したので、僕はますますよくわからなかった。

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