大宮姉、お迎えに行く
お風呂から出ても、凪は帰ってきていなかった。
まあ、職場の飲み会があると言っていた二十代男子が十一時に帰らないからと言って、心配するほどのことでもないのだけど。
とはいえ、凪の性格上、二次会に行くとも思えないし、車を置いていったところを見るとバスで帰るつもりだったはずだと思うと、気にかかる。もう、終バスは出てしまったはずだし、代行は使えない以上タクシーを使うのだろうか。昨今のタクシー事情は知らないが、タクシーは捕まるのだろうか。
なっちゃん遅いわねえ、などと母が自室に戻る前に呟いていたのは、あとはよろしくといったところだろう。
世間やなっちゃんは俗に言う花の金曜日、明日は休みだ。だけどわたしは仕事だ。だけれども、わたしは優しいお姉ちゃんなので、凪にメッセージを送った。
――お迎え大丈夫?
明日もわたしは仕事だけど。なんて優しいお姉ちゃんなんだろう。
スマホから目を離す間もなく、なっちゃんから電話がかかってきた。もしもし、と出るも、向こうからは衣擦れのような音とざわめきしか聞こえてこない。
「なっちゃん?」
呼びかけると、んーとかうーとか言葉にならない声が聞こえてきた。もしかしなくても、酔っているのだろうか。こころなしか、電話の向こうで凪に声をかける人の気配を感じる。
なっちゃん、ともう一度声をかけると、がさがさと音がした後、はっきりとした声が聞こえてきた。
『すみません、大宮君の同僚の槙田と申します』
「あ、弟がいつもお世話になっております」
若いけれど落ち着いた男性の声だった。無意識に背筋が伸びる。
『夜分にすみません、実は大宮君かなり酔ってしまっていて、タクシーも捕まらなくて。申し訳ないのですが迎えに来ていただけないでしょうか』
「! ご迷惑おかけして申し訳ありません! すぐ伺います」
槙田さんの丁寧な依頼にわたしは慌てた。どうやら介抱してくれているらしい彼に恐縮するほかない。
迎えに行く場所を確認して電話を切ると、わたしはパジャマから適当な部屋着に着替えて家を出るのだった。
凪がちゃんと言語を発せなかった様子を見るに、どうやら相当酔っているらしい。けれどわたしは、そこまで酔う凪を見たことがなかった。お酒は強いほうではないけれど、何せ凪は羽目を外さない。外で飲むときはおろか、家族と飲むときでさえ気をつけている。
どうしてそんなに飲んでしまったのか。無理に飲まされたのだろうか。それとも気のおけない飲み会だったのだろうか。もしそんなに気をゆるせるような人がいたのなら、安心するどころか羨ましい。わたしも凪を酔わせたかった。
言われた通り駅の東口のロータリーに入ると、凪らしい人物とそれに付き添う人影が植え込みを囲うアスファルトに腰掛けているのが見えた。ハザードランプをつけて車を止める。車から降りて小走りに近づいていくと、推定槙田さんが気づいて立ち上がった。
「凪についていてくださってありがとうございます」
謝罪合戦になりそうなので、先手を打ってお礼を言うと、彼もまた、いえいえ迎えに来ていただいてありがとうございます、などと頭を下げた。
「なっちゃーん、帰るよー」
凪の前にしゃがんで顔をのぞきこむようにして声をかける。凪は下を向いたまま、聞こえているのかいないのか、目を閉じていた。
肩を軽く揺すりながら再度声をかけると、凪の目がわたしを捉えた。そして、ふにゃりと笑った。
「さあちゃん…?」
声は小さかったけれど、たしかにそう言った。かわいいな、もう。わたしは小躍りするのを脳内だけにとどめ、優しいお姉ちゃんらしく、姉っぽいかんじで、帰るよ立って、とうながした。
ちゃんと聞こえたらしく凪は立ち上がったが、上半身が小さく時計回りに揺れていておぼつかない。支えてあげないとだめかと思ったけど、槙田さんが俺が連れてきますと言ってくれたので、先に車の助手席を開けておく。
槙田さんに連れられて歩いてきた凪を車に押し込め、助手席のドアを閉めた。
「本当にありがとうございました」
深く頭を下げると、槙田さんは慌てたようにいやいやと否定した。
「今日のことは大宮君本当に悪くなくて。後輩、あー、大宮君からすると一期上なんですけど、そいつがいたずらで大宮君の飲んでた水を日本酒と入れ替えたらしくて。申し訳ないです」
「そうだったんですね。こんなになるの見たことなかったけど、それなら納得です。こんな時間までついていてくださってありがとうございます。槙田さんはおうち近いんですか? 送ってきます」
「いやいや大丈夫です。歩いて帰れますから」
全力で否定する槙田さんにどの辺りなのか聞くと、歩けなくはないけど、いったいどれだけかかるのだろうという場所だった。車ユーザーが歩くを選択する距離じゃないはずだ。
「歩いてたら日付変わっちゃいますよ、乗ってください」
後部座席のドアを開けてうながすも、槙田さんがなおも遠慮する。
「あ、もしかして凪から何か聞いてます? 大丈夫ですよ、そこまで運転危なくないんで」
渋る理由に思い当たってそう伝えると、すごく複雑な顔をしていた槙田さんは、じゃあお言葉に甘えて、と車に乗りこんだ。
車を発車させる前に凪にシートベルトを締めさせ、気持ち悪そうに呻いているので、吐いたらおそうじさせるからね、と言うと、聞こえているのか一瞬背筋が伸びた。
仲いいですよね、と槙田さんが言う。よく言われるけど年が離れているせいではないかとわたしは応答えた。でなければ凪の平和主義のたまものか。
「うちも姉いますけど、そもそも俺を迎えに行くって発想がないので。自力で帰れるでしょって。もし迎えに行くって言われたら、むしろ何か魂胆があるんだろうと身構えます」
「あはは。わたしも凪に見返り求めてるかもしれないですよ」
本当に大宮君に落ち度はないので、と槙田さんは慌てたように言う。姉に敵わない人生を送ってきたらしい。実感がこもっている。
言っていた方向にまっすぐ走っていると、あそこのコンビニで大丈夫です、と二つ先の信号を槙田さんがしめした。
コンビニの駐車場に入って、前進のまま適当に車を止める。
「おうちまで送りますよ?」
「いえ、本当ここで。この裏の道ちょっと入ったとこですぐ近くなんです。結構道狭いんで」
そこまで言われたら、引き下がるしかない。道狭いのもちょっと嫌だし。
「じゃあここで。今日は本当にありがとうございました」
「いえこちらこそ。送ってくださって助かりました。じゃあ、失礼します」
「失礼します」
槙田さんは車をおりて強すぎない力で扉を閉めた。お互いに軽く頭を下げあってから、槙田さんはコンビニの裏の道へ歩いていった。
凪とならきっと、お疲れさまでした、とか、おやすみなさいというあいさつがふさわしかったのだろう。でもわたしと槙田さんでは、失礼します、の距離感だ。
横を見るとお礼やあいさつを本来すべきだった弟が、後で首が痛くなりそうな角度で下を向いて、難しい顔で目を閉じていた。
凪は明日きっと目覚めてから、ない穴を掘ってでも穴に入りたいくらい自分を恥じ、後悔するだろう。二日酔いのオプションつきかもしれない。そんな凪を想像するとおかしくなる。
明日の朝、わたしは仕事に出てしまってきっと見れない。残念に思いながら、かわいい弟を乗せて再び車を走らせた。家についたらどうやって車から下ろそうか考えながら。
凪にとってわたしが「さあちゃん」なのだと知ることができて、悪くない夜だった。
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