大宮姉弟のお散歩

「なっちゃん、散歩行くよ」


 僕は、犬か何かなのだろうか。

 姉は突然手をこまねいて僕を呼んだ。


 姉と散歩に行く約束をしていたわけでもなく、今誘われたわけでもない。僕が散歩に行くことを前提として話が進められている。


 だけど、こういうことは今に始まったことではない。姉の専売特許なので、異議も唱えないに限る。スマホだけポケットにいれて、おとなしくついていく。


 外の空気はひんやりとしていたけれど、日差しはあたたかかった。


 少し前を歩く姉の足取りはゆったりとしていた。意識的にのんびりしているような、不自然さをまとっていた。


 姉はいつもと少しも変わらないようでいて、少しも同じではなかった。「いつも通り」を意識しているが、空回りしているように見える。


 たとえば姉がこんなにもおとなしく歩いていることも、僕がこんなにも離れているのに何も言ってこないことも、いつも通りではない。


 常々変な姉だけど、姉はあまり怒らないし、不機嫌さをあらわにすることもない。その代わり、姉は時々こういうふうに「いつも通り」でなくなる。何かあったんだろうな、と僕は思う。


 以前に姉が、光合成がしたい、と言っていた。今日もたぶん、そうなのだろう。姉は陽の光を浴びると元気になると信じている節がある。


 僕が物心ついた頃から姉は姉だった。人見知りの僕は、姉がいないとどこにも行けなかった。どんなときも姉の後をついてさえいれば安心だった。そんなふうに後をついていく僕が邪険にされたことは、僕の記憶の限りでは一度もない。


 それって案外すごいことじゃないかと思う。今も昔も予想外の行動で僕を振り回す姉だが、感情の起伏で振り回されたことはあまりない気がする。


 姉にもこうやって光合成をしないとやっていけないようなことがあるのだと、ずっと知らなかった。姉が五年前くらいに仕事を辞めて実家に戻ってきたときに初めて、そういう姉もいるのだと知ったのだ。


 戻ってきた姉はよく、窓際を陣取ってぼーっと外を見ていた。ときどき散歩に出かけ、ときどき僕の作ったお菓子を食べ、またぼーっと外を見ていた。


 一週間くらいすると、引越しで届いていた荷物を猛烈に片付け始め、あるいは猛烈に捨てた。そうしてきれいになると、姉は僕の知る姉になり、スーツを着て就活を始めた。3ヵ月経つ頃には、働き始めていた。


 あの頃の姉に何があったのか、僕は知らない。でも、誰にでも、無理にいつも通りの自分を演じなければならないときがあって、姉にもそういうときがあるのだと知った。


 前を歩く姉はいつもの自分に戻ろうとしているに違いない。空を見上げてときに伸びをしながら、ゆったりと進んでいく。僕は姉の背中を見ながら、黙ってついていく。


 何度か角を曲がりながらしばらく歩いていたけれど、姉は突如振り返った。


 なっちゃん、と僕を呼ぶ。僕の目に映る姉は、いつもの姉のように見えた。


「なっちゃん、今どこ歩いてる?」

「え? 知らないよ、ついてきただけだもん」

「なんで? そっちじゃないって言ってよ」

「だいたい、どこ向かって歩いてたのか知らないし」

 とんだ言いがかりだ。


「その辺ふらっと歩いて最後コンビニ寄ってなっちゃんに、飲みもの買ってあげようと思ってたの」

「ふらっと歩いてるだけなのに、そっちじゃないも何もないじゃない」

「なっちゃんスマホ、現在地見て」


 姉の手が僕のポケットをまさぐらんとするのを制止するように、自分でスマホを取り出した。


「軽いなあと思ったら、ポッケにスマホないんだもん。コンビニ寄れないじゃん」


 姉はまるで僕の失敗みたいな他人事のていで、そんなことをのたまう。もちろん僕は無視して現在地を確認する。


 こんな近所でも脇道にそれまくると迷子になれるものらしい。家の近所で迷子になる姉弟(おとな)、笑えない。


「コンビニあっち。行こう。飲みものは僕が買うから」


 僕は姉を先導して歩くことにした。そういえば姉はすぐに道に迷う。


「あんまん食べようね」


 飲みものはどうした。けれども姉がいつも通りになった気がしてほっとする。


 子どもの頃からずっと、姉にくっついて後ろを歩いて来たけれど、ときには僕が前を歩いてもいい。そもそも、常に一緒に歩くほど、僕たちは子どもじゃない。


 だけど、たまにはこうして、二人で散歩をするのも悪くない。


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