大宮姉弟の夜更かし

 凪は黙々と、台所で白い粉をふるっていた。夜に、脇目もふらずに。


 おそらく薄力粉と思われるそれを使って、何かお菓子を作るのだろう。凪はわたしが入ってきたことなど少しも気づかず、一心不乱に作業をしている。


 凪が自分で気づいているかは知らないが、粉を使うお菓子や工程の多いお菓子を作るのは、嫌なことがあったときだ。その証拠に、そういうときの凪は今のように眉間にしわを寄せて、粉をふるったり混ぜたりする。


 もちろん凪が作りたいから作るときも、わたしのリクエストで作るときもあるけれど、今日は嫌なことがあったんだと思う。なんとなくわかる。


 凪の手元は規則正しく丁寧で、ものにあたるような荒々しさは一切ない。普段から不平な泣き言をほとんど言わない凪を表しているようで、はたしてストレスは発散されているのだろうかと心配になる。


 明日が休みのわたしとは違い、凪は明日も仕事だろう。夜更かししていてよいのか。もはや、お菓子を作らずには明日を過ごせないほどに追いつめられているのだろうか。


 ひっそりと夜の時間は過ぎる。台所だけについた明かりのせいか、凪の時間だけが取り残されているみたいだ。


 わたしはダイニングテーブルに頰杖をついて座った。凪は手元しか見ていないようで、少しも気づく様子がない。


 凪はその後も、わたしの視線に少しも気づかないまま、工程を進めているようだった。凪の手元には必要な材料も道具も揃っているらしく、視線は常に固定されていた。


 作業が進むにつれて、徐々に凪の眉間の皺は浅くなっていく。その様子にほっとしていると、ふいに凪が顔を上げた。


「え!? 何してるの?」

「どっちかというとわたしのセリフだけど、凪がいたから見てた」


 びっくりさせないでよ、と凪が呟く。やっぱり少し元気がない。


「何作ってんの?」

「パウンドケーキ」

「ふうん。何か手伝お」

「やめて」


 わたしにかぶせて凪は拒否する。ひどい。さすがのわたしも傷つくというものだ。


「ドライフルーツ入れようと思ったんだけど、紅茶とかのがよかった?」

「ドライフルーツがいい! ゴロゴロいれてね」

 わかった、と凪が頷く。


「ミルクティ作るけど凪も飲む?」

「うん、ありがとう」

「あ、でも今じゃなくて食べるときのがいいかな」

「え? 焼き上がってもすぐ食べられないよ? 一晩置くんだからね?」

「ええー」


 抗議をするものの、凪は絶対に、食べていいよとは言ってくれなさそうだ。わたしは諦めてミルクティを作ることにする。


 本当は紅茶に牛乳を入れるだけのを飲もうと思っていたのだけど、特別にミルクパンで作ることにした。とはいえ、面倒なのでティーバッグを使ってしまう。


 お湯を沸かしてティーバッグを投入して、それから牛乳を入れて弱火にしてから凪の様子を盗み見る。


 お姉ちゃんになるんだよ、と言われたときは嬉しかった。だけど同時に、わたしの天下は終わるのだと感じていた。


 当時はうまく言葉にできなかったけれど、自分に向けられる愛情がすべて弟のものになるのではないかという、漠然とした不安があった。何せわたしはそれまでちやほやされていたから。


 けれども生まれてきた弟を見て、子どものわたしよりもはるかに小さな手に触れたとき、この頼りない生命体を守らなければという気持ちになった。


 両親の子育て方針や凪がおとなしく手のかからない子だったこともあり、わたしは凪を疎ましく思うこともなくかわいがれた。さあちゃん、さあちゃん、とひよひよ後ろをついてくる凪はこの上なくいとおしかった。


「何? そろそろ火止めたほうがいいんじゃない?」


 不審そうに声をかけられる。わたしに対する昔のような絶対的信頼感がかけらも感じられない。


 なんでもない、と言いながら、言われた通りに火を止める。わたしと凪のマグカップに優しい色のミルクティを半分ずつ注ぐ。


 凪はもう、さあちゃんと呼ばない。寂しくも思うが、仕方のないことだとも思う。だけど、お姉ちゃんとも呼ばない。姉ちゃんでも姉貴でも名前すら呼ばない。ねぇ、と呼びかけるだけだ。倦怠期の夫婦か。悲しい。


「なっちゃん、置くのここでいい?」

「うん、ありがとう」


 ほかはこんなに素直でかわいいのに、呼び方だけは頑なだ。お姉ちゃんと呼び方を変えるタイミングを逸してしまったせいと思われるが、別に今からでも呼んでくれていいのに。というか、呼んでほしい。


 凪はさっき混ぜていた生地を真剣な面持ちで型に流し込んでいる。


 何かあった?と聞いてしまいたい。でもわたしたちは家族で、姉弟で。一番近いようでそうでもなくて。知っているようでそうでもなくて。


 もしも凪から話してくれるなら、全力で話を聞こう。だけどそうじゃないから、今は一人にしたくないと思った。凪が今、一人になりたいと思っていたとしても。


 ただ何も聞かずに、一緒の時間を過ごす。それだけでいいのだと思いたかった。


 パウンドケーキが焼き上がって甘いにおいが漂ってくるまで、ミルクティを飲みながら、たわいもない話をしながら、更けていく夜を凪とともに越えていこう。

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