第8話 進行する事態



 会場がざわついた。

 中在地も同様だった。将棋を指す人間として驚愕した。

 この初手は有り得ないものだったからだ。

 将棋の初手はほぼ二種類に絞られる。角道を空ける7六歩。飛車先を進める2六歩。この二つがほとんどだ。

 他の選択肢がないわけではない。中飛車と決めて打つならば5筋の歩を進めるべきだろうし、初手6八銀は「嬉野流」と呼ばれる戦法の一つである。しかし、プロの対局ではほとんどが7六歩か2六歩から始まる。

 7六歩と2六歩――この二つの初手には共通点がある。それはどちらも大駒の活用を前提としており、尚且つ、戦術・戦略を柔軟に変えていけるからである。

 例えば、最も指されている7六歩は角道を空ける動きであるが、次に角交換をすれば角交換型の将棋となるし、そこを6六歩と打ち、角交換を拒むこともできる。一旦保留し、2六歩と突いて、飛車先の攻撃をちらつかせておくのも良いだろう。

 畢竟するに、他の手は柔軟性に乏しいのである。

 初手9六歩など――柔軟性に乏しいにも、ほどがある。

「なるほど」

 だが、ヴェントは全く動じることなく、3四歩という二手目を打った。

 まるでこの事態を予見していたかのように。

 そうして、軽快にチェスクロックを叩く。時間が切り替わる。テリコの時が進み始める。少女も迷いなく、次の手を。7六歩。打って変わって常識的な手だ。



「驚いているようだな、ナカザイジ」

 中在地の背後から声を掛けてきたのは、この勝負の主催者にしてテリコの雇い主、ベネディクトその人だった。

「しかし、そう驚く必要もない。初手に端歩を突くのはテリコのゲッシュ(geis:制約)だ。アイツはいつもああだ」

「初手に、端歩を?」

「そう。その上で無敗だ」

 凄いだろう?と愉し気に笑うベネディクト。

 その様はまるで、好きなヒーローの自慢をする子どものようだった。

「しかし、今日ばかりは違うのかもしれないな。今日の勝負はただの将棋ではない。『太子将棋』――王将を討ち取って、終わりではないのだ」

「ベネディクトさんは、テリコが既に、相手がどの駒を太子として選択したか見抜いていて、だからこそ、端歩を突いた、と仰るのですか?」

 さてね、と葉巻を咥え、火を点ける。

 続いて懐から取り出したのは一通の便箋だった。

「それは?」

「テリコからだ。太子に指定した駒を書いておく、と話していたよ。良ければ君とのギャンブルに使ってくれ、と」

「つまり……。私達は、テリコがどの駒を太子に指定したかを当てる、と」

「そういうことだ。どうだ? 受けるも、受けないのも自由だ。君の上司の言い方を借りれば――『受けてもいいし、受けなくてもいい』」



 七手目。

 テリコ、2二角成。

 この時点でテリコ側の戦型は確定する。

 これは、

「―――後手番一手損角代わり」

 ヴェントはまた逡巡なく手を指す。同銀。定石通りだ。

 『後手番一手損角代わり』とは、文字通りに、後手番の人間が一手損をして角換わりを行う戦法である。互いに角筋を空けた際、後手の人間から角交換を挑むと、先手は同銀として銀を一段上に上げられるため、一手損になってしまう。この一手損を嫌い、後手番は8四、8五と飛車先を進めるのが定石であった。

 その趨勢が変わったのが2000年代中盤頃だ。この一手損――具体的には、後手番が角交換を申し出て8五歩と指すタイミングを逃すことが、戦術の幅を広げるのではないか?と考えられ始めた。

 8四で歩を止めておく場合、あるいは、そもそも歩を突かない場合を『一手損角代わり』と呼称するのだが、例えば、8四で歩を止めておいたとしよう。これを従来は手損と考えていたが、『一手損角代わり』の考え方では「8五の地点に桂馬を跳ねる選択肢を残している」という解釈になるのだ。

 この戦法の開発により、プロ将棋界でははじめて、後手の勝率が先手を上回ったとされている。

「―――あなたは、」

 テリコ、8八銀。

「あなたの品のない態度は、やっぱりポーズだけだね」

 にやりと笑い、ヴェント、7二銀。

 対するテリコ、4八銀。

「端歩突きに動揺しなかった。私のこと、調べてきてたからでしょ? 私が端歩を突くと分かっていた――だから、構わずに、自分の指したい手を指した」

「どうかな?」

 銀が上がる。テリコも同様。3七の歩を3六へ。

 将棋を知るものなら今後の展開は予想できる。腰掛け銀だ。

 尤も、これは『太子将棋』。

 本将棋とは、違う。

「でも、ちょっと油断したね。これは『太子将棋』――もう事態は進行してる」

「言っておくがサ」

 後手、5六銀。

 先手、5四銀。

 戦型は――角交換型相腰掛け銀。

「お前の言うところの、品のない態度、とやらがポーズだとしても……。喘ぐ女が好きなのは本当なんだぜ?」

 それが快楽でも、苦痛でもな。

 鉄のように冷たい視線がテリコを射抜く。

 真剣師の心は、揺らがない。

「そう」

 しかし、皮肉なことに。

 「事態は進行している」。そう告げた彼女の知らぬ場所で、着実にあるイカサマが進行しつつあったのだ。






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