第6話 30分前



 水槽を斜め上から見下ろせる角度に造られたそこは、ジャスティン=ベネディクトに招かれた者しか入れない応接室だった。

 この施設の表向きの姿――安い部屋でも一泊が何十万という高級ホテルと同じく、客としては一生涯、縁はないであろう、選ばれた裏の世界の富豪達しか立ち入れぬ空間だったが、こちらに関しては、「特に招かれたくもないな」というのが中在地の正直な感想だった。

 中在地は、小市民な男であった。

 今なお、命が最も大切だと考えているし、できる限り人を傷付けたくはないし、相手がどんな大悪党でも、その“始末”に関する手続きを見てしまうと、「嫌なものを見た、さっさと忘れてしまおう」と心掛ける程度には平穏を愛していた。

 尤も、小市民的ではあっても、庶民でもなければ善良な一般人でもないのが中在地という男だった。だからこそ、普通の人間ならば配属されない内閣情報調査室特務捜査部門という秘密部署に所属することになっているのだし、悪人ではないが強い正義感もないからこそ、内調の超法規的活動を見ても、「まあ、国家なんてこんなものか」で済ませてしまうのだが。

 だからこそ、彼には隣に座るテリコのことが分からない。

 何故、死ぬかもしれないような勝負をするのか。

 何故、恐れの感情が欠片も伺えないのか。

「……なに?」

 ビニールプールに貯めた水で、ちゃぱちゃぱと、透き通った長い脚を遊ばせていた少女は、不審そうに中在地を見つめ返してきた。

 翠緑色の瞳の奥には、退屈、という感情しか伺えなかった。「人を見る目はあるつもりなんだけどな」。心の中でそう独り言ち、失礼、不躾だったと詫びておく。

 二人をここに案内したベネディクトは、賞品の用意があると言って、部屋を出て行ってしまった。

 当初はスタッフもいたのだが、「何でもお申し付けください。ワインなどは如何ですか?」と笑い掛けてきたホテルマンに、丁重に遠慮の言葉を返すと、御用があれば呼び鈴をお使いくださいと言い残し、こちらも部屋を去ってしまった。

 以降、ずっとテリコと二人きりだった。

「少し、質問してもいいだろうか」

 中在地が声を掛けると、若きギャンブラーは「構わないけど」と短く応じた。

 眼下の会場には観客が集まりつつあった。如何にも高級そうな装いで、遠目でも金持ちだと分かる。人を溺れ死ぬ様を見る為に足を運んでいるならば品性が最低なことも確かだろう。

「そのプールを用意させたのは君なのか?」

「うん」

「……何故?」

「水泳の授業、受けたことないの?」

「え?」

「急に冷たい水に浸かると、身体に悪いんだって。だから、こうして先に慣らしてる」

 薄々と感じていたことをはっきり自認する。この子とは、どうにも話がかみ合わない。

 しかし、そう思っていたのは少女も同様だったらしく、

「健康のためじゃなくて、勝負のため。身体が急に冷えて、それで判断力が鈍るのは、嫌だから」

 と、付け加えてくる。

 なるほど。言わば、アスリートのアップのようなものか。

 そう考えると理に適っているように感じる。

「テリコさん、君は、」

「テリコでいいよ。英語圏の生まれだから」

「なら、テリコ。君は代打ちをして長いのか?」

「長くはないと思う。あと数年は続けるつもりだけど」

 それは、今日の勝負で死ぬつもりは更々ない、ということであり。

 同時に、今日で足を洗うつもりも毛頭ない、ということだった。

「……どうして、代打ちを?」

「それって、あなたに関係あること?」

「ないよ。単に、興味があるだけだ」

「どうしようかな。教えても教えなくても、どっちでもいいんだけど、見ず知らずの他人に情報アドを渡すことは良くない気もする」

「それには同意するよ。沈黙は金、だ」

 余計なことを口走った末に二度と喋れなくなった人間は、中在地が関わった案件だけでも、両手の指では足りない。枚挙に暇がない、とはこのことだ。

 どんな事例だったかを話すことはできないが。

 それこそ口封じされてしまう。

「うん。今日賭けられているのも情報だしね」

「情報?」

「…………」

 瞬間、テリコが黙った。

 緑色の目を細め、形の良い唇を固く結ぶ。

「まさか。それ、喋っちゃいけないことだったのか?」

「……うん。まあ、いいか」

 心配する中在地をよそに、瞬時に気を取り直したテリコは、

「何の情報かは話してないし」

 と自己正当化を計る。

 こういうところは年相応に子どもだな。そう思う一方で、あと三十分もしない内に死地に赴く人間が、子どもらしい顔を見せていることが異常だとも感じる。

「テリコ」

「なに?」

「君は、死ぬことが怖くないのか?」

 怖いよ。

 気だるげに、然れども、当然のように彼女は言った。

「死の恐怖に勝るほど――ギャンブルが愉しいのか?」

「死ぬかもしれないギャンブルなんて、楽しいわけないでしょ。怖いだけだよ。ただの真剣勝負なら、愉しいけど」

「なら、どうして、」

「そうだ」

 と、テリコは立ち上がり言った。

「今日の勝負が終わったら、勝負をしよう」

「勝負?」

 素っ頓狂にオウム返しをすると、「そう、勝負」と返答が。

「内容はなんでもいいよ。将棋でも、麻雀でも、ポーカーでも。それで、もしあなたが勝てたなら、私がどうして代打ちをしているのかも、今日何が賭けられていたのかも、教えてあげる」

「……破格の条件だな。俺は何を賭ければいい?」

「何も賭けなくていいよ。私、強いから」

 意外な言葉だった。

 その気だるげな雰囲気に反して、彼女は相当に自信家らしい。

 あるいは、実力者、だろうか。

 分かったよ、と中在地は応じ、そんな少女には伝える必要のないメッセージを、一応、言っておくことにする。

「忘れない内に伝えておく。上司の椥辻から、よろしく、だと」

「今度会った時に言えばいいのに」

「そうだな」

 俺もそうすればいいと思うよ。


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