第5話 『アバドンのヴェント』



 対戦予定時刻は午後六時。

 定刻までは、まだ一時間ほどの間があった。

 中在地は一度、地上階に出て、スマートフォンを取り出した。会場内は妨害電波の影響で電子機器が使えないのだ。

 豪奢なラウンジの片隅に腰掛ける。こうして見ているだけでは、ただの高級ホテルのように思える。いや、ただの高級ホテル、という言い方では足りないだろうか。中在地のような一介の諜報員程度では、客になることは決してないと言い切れる。そういうグレードの施設だ。

 運営しているのが海外マフィアだからか、スタッフの多くは海外の人間のように見える。どのホテルマンの日本語も流暢そのものだが、日本人のスタッフの方が少数派だ。

 果たして、ここで働いている人間のどれほどが、地下階に生死を賭ける賭博場があることを知っているのだろうか。あるいは、全員がマフィアの構成員なのだろうか。

 そんなことを考えつつ、番号を入力していく。

 電話はすぐに繋がった。

『お疲れ様。ベネディクトさんとのお話は上手く行ったかな』

 電話口の椥辻未練に、お陰様で、と礼を述べる。

 今回の仕事は彼からの依頼ではなかったが、『シェオル』と連絡を付けてくれたのは未練だった。そういったコネクションは豊富な男なのだ。

『それは重畳だ。あの人はギャンブル好きが行き過ぎているところもあるけれど、交渉しやすい相手だ。常識的な感性を持っているからね。約束事を一方的に破ったりしなければ無害な人だよ。知り合いになっておいて損はない』

「……常識的な人間は、年端の行かない子どもを代打ちにしないと思いますね」

 後輩の言葉に事情を察したらしく、未練は、

『川瀬照子に会ったのかな』

 と訊いた。

『あるいは、テリコ、と呼ばれている少女に』

「ええ。女子だからと同情するな、ということを言われました」

『同情はしてもいいと思うよ。態度に出さなければ』

 出してもいいんだけど、といつものように付け加える。

 ただ、と続けた。

『こと賭け事に関して言えば、川瀬照子は「シェオル」が持つ駒の中で、最強クラスのものだ。あの子よりゲームが強いのは、それこそ、ベネディクトさんくらいじゃないかな』

「しかし、死ぬかもしれない勝負ですよ? まさか、あんな子どもが、死をも恐れないギャンブル狂なんですか?」

『そういったジャンキーではないよ』

 飲料水を飲んだのか、一拍置いて、未練は言った。

『勝負の時間は?』

「十八時からです」

『相手は?』

「『アバドングループ』のヴェント、という男だとか」

『ヴェント、ヴェントか……。何を賭けるって言ってた?』

「すみません、そこまでは」

『ちょうど良い。時間もあるし、テリコちゃんと話してくればいいんじゃないかな。彼女が何故、賭けるのかについて。できればよろしく言っておいてくれると嬉しいな』

 何が、ちょうど良い、のか判然としなかったが、次いで、「勝負を観戦して、今回、何が賭けられるのか探ってみてくれ」とお願いをされてしまえば、断る理由はなかった。

 事務仕事が専門とはいえ、中在地は内閣情報調査室の諜報員である。『アバドングループ』のような巨大企業――しかも、怪しげな動きを見せている軍産複合体については、情報を得ておくことに越したことはない。

 『シェオル』についても同様だ。ただのギャンブル好きの集まりではない。人が死ぬような賭博設備を造り上げ、それを隠蔽しながら運用できる、日本でも有数の海外マフィアなのだ。

 知ることは重要だ。

 二つの組織が何を取引するのかも、「テリコ」と呼ばれた少女の精神性についても。

『ああ、そうそう。僕が、ちょうど良い、って言った理由の一つなんだけど』

 ふと、男は告げる。

『アバドンのヴェントと言えば、タチの悪い代打ちとして有名なんだ。もしかしたらテリコちゃん、死んじゃうかもしれないし……。だから、もしもの時のことを考えて、よろしく言っておいて欲しいんだよ』

 中在地は嘆息する。

 全く、どいつもこいつも。

 何が「良い」のだか、分かりゃしない。





 牢獄のような一室であった。

 コンクリートの壁に、コンクリートの床。

 あるものと言えば、部屋と全く調和していない最高級のソファーに――もう一つ。

「……俺の好きな漫画のキャラクターがサ、『チェスでイカサマして社長の座を手に入れた』って設定なんだよ」

 がちゃり、がちゃり。

 金属の擦れる音が響く。

「で、よく言われてたわけサ――『チェスでイカサマなんてできるわけない』って。だが、ジャスティン=“ラッキー”=ベネディクトがそう思ってたとしたら、頭の中がお花畑だとしか言えないねえ」

 ヤクでもキメ過ぎたのかな?と、呟きつつ、男は紐を引く。

 金属音が鳴り、喘ぎ声がこだまする。

「君はどう思う? ……って、答えられないんだね」

 異様な髪色の男だった。

 その頭髪は、黒と金の斑模様に染まっていた。どちらが地毛なのかは分からない。あるいは、どちらも違うのかもしれない。ドレスコードとして身に纏っているスーツはオーダーメイドだろう。その針金のように長い手足に合っていることから間違いはない。指先も同様に、針金のように長く、鋭い。

「さて、そろそろ行かないと。名残惜しいねえ」

 言って、男――ヴェントは、掴んでいた紐を離した。

 どさり、という音。次いで、地に落ちた女の荒い声が聞こえ始めた。煽情的な恰好の女は、涙を流し、涎を垂らし、失禁までしながらも、ありがとうございます、ありがとうございますと、男に跪く。

 部屋にあった二つのもの。

 一つはソファー。

 そして、もう一つは、ヴェントが紐を引くと、女の首が絞まるように造られた拷問設備。

「じゃあ、行こうか。生意気な真剣師の窒息する顔を見に、サ」

 “ヴェント(Vento)”とはイタリア語で『風』を意味する。

 男は風のような自由を愛し――同じだけ、他人が息詰まり、不自由になる様を愛していた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る