第2話 椥辻未練曰く



 中在地には、椥辻未練という名の上長がいる。

 直属の上司ではないのだが、どちらも警察庁から内調にやって来たという経緯の共通項もあり、何かと交流がある。「いいように使われている」とも言えるし、「便宜を図ってもらっている」とも言える。持ちつ持たれつ、という関係性だった。

 ノーフレームの眼鏡にノーネクタイ、それに片手に持ったミネラルウォーターがトレードマークの未練は、一見すると、役所の主事や主査のように見えるが、裏の世界ではかなりの有名人だった。

 内調でも有数の食わせ者。親しみやすく、友人のように接している相手だが、そういう部分は素直に尊敬していた。

 斯く言う中在地自身も、自覚のないままに手駒として使われていたことは一度や二度ではない。だが、それを踏まえても尚、信頼できる存在と思っていた。

 他人を簡単に死地に送り込むが、相応のリターンを用意する。椥辻未練とはそういう男だった。

 そんな未練と出会った当初、中在地は、ある金言を受け取っていた。

『他人にお願いを聞いてもらうコツっていうのがあるんだよね』

 未練は続けた。

『人間の種類の話でもあるんだけれど』

『……相手の属性によって、交渉の仕方を変えるということですかね?』

 その通り、とペットボトルの飲料水を一口飲む。

『誰かと交渉する際――特に、僕達のように、何処かが逸脱した人達と話す場合、念頭に置くべきことがあるんだよ』

『それは?』

『命より大切なモノがあるか否か』

 当時の中在地は「何を馬鹿な」と思った。命より大切なモノなんて、そうはないだろう、と。

 それはまだ、裏の世界に関わる職務に就き始めて日が浅い故の浅慮さであったし、同時に、他ならぬ中在地が命を最も大事と考える人間だからだった。

 人間は生きる為に働いている。命を守る為に下げたくもない頭を下げ、危険からは距離を置く。それが中在地の中の常識だった。

 しかし、未練は言った。

『中在地さんは多分、命を大事にする人間だ。けど、そういう人ばかりでもないんだよ、この世は』

『ヤクザ屋は命よりもメンツが大事だと聞きますけど、そういうことですか?』

『まあ、そうだね。メンツの為に死を覚悟してカチコミを掛けたり、自殺したりするような任侠者は今時珍しいけれど、でも、たまにはいる。そこを見誤らないようにするのがお願い事をするコツだ』

 理屈は単純だ。

 ある概念、Aに重きを置いていない人間に、「Aを渡すから○○してくれ」と指示しても、恐らく聞いてはもらえないだろう。例えば、中在地ならばブランド物だ。「ブランド物の時計を譲るから、その代わりに仕事を請け負ってくれ」と頼まれたとしても、首を縦には振らない。ブランドというものが嫌いだからだ。高級時計よりも、その時計相当分の金の方が嬉しいのだ。

 このAは命でも在り得る。そういう話を未練はしているのだ。

 命よりも体裁や面目、己の一分を大切にする人間に対して、「この場は見逃してやるから」と取引を持ち掛けても成立しない。

 メンツが立たないくらいならば死んだ方がマシだ、と考えている人間には、命は取引材料に成り得ないのだ。

『この仕事をするのならば、命よりも大切なモノがある人間は結構多いことは覚えておいた方がいいし……。そのことを忘れないようにするのが、お願いを聞いてもらうコツだよ』

 そう言って、未練は「覚えておいていてもいいし、いなくてもいいんだけど」といつものように付け加えた。



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