ギャンブラーの一分

吹井賢(ふくいけん)

第1話 『いきづまる水槽』



 ―――なんとまあ、イカれた装置を造ったものだ。

 それが、その設備を見た青年の感想だった。

 巨大な水槽だった。

 高さは優に三メートル、縦横は五メートルほどの四角い水槽。箱の中央は強化ガラスで区切られている。そして、その両サイドには扉と椅子が一つずつあった。この時点で、この水槽が観賞用のそれでないことは分かるだろう。

 否、観賞用ではあるのかもしれない。

 鑑賞の対象が自在に泳ぐ魚ではなく――もがき苦しみ溺死する人間というだけで。

「―――イカした装置だろう? 『いきづまる水槽』と言うんだ」

 背後から声を掛けてきたのは、この悪趣味な水槽の持ち主だ。

「それはあれですかね、息詰まる攻防という慣用句と息が詰まるという物理的な現象を掛けているのですか?」

「そうだ。行き詰まり(デッドエンド)とも掛けている。日本語というのは面白いな。掛詞、と呼ぶのだったか」

 ここの主は銀の髪を掻き上げ、如何にも愉し気に笑う。

 男の名は、ジャスティン=ベネディクト。青い目に、四十過ぎとは思えない若々しく端麗な容姿。「今流行りのハリウッドスターだ」と紹介されても違和感がないかもしれない。

 しかし、その実態は、シンガポールマフィア『シェオル』のボス――『シンガポールのカジノ王』と呼ばれる、世界的な悪党だった。

 裏の世界ではギャンブルを愛す危険な男として有名であり、四肢の欠損や命を落とすことも珍しくないイカれたギャンブルを考案し、提供している、真性のギャンブル狂。自分でプレイすることもあるというのだから、これほど始末に負えないジャンキーもいないだろう。

 そして、この設備――『いきづまる水槽』も、ベネディクトが造ったギャンブルの一つだった。

「『いきづまる水槽』で行われるゲームは、一対一。様々な種目が楽しめるが、共通するルールが一つある」

 敗者は溺れ死ぬ可能性がある。

 目を細め、平然とそう告げるベネディクト。

 恐ろしい男だ、と青年――中在地は思う。日本政府の諜報機関・内閣情報調査室に所属していなければ、絶対に関わり合いになりたくない相手であると。組織という巨大な後ろ盾がなければ、こうして対等に話すこともできないであろう。組織人としてのプライドや矜持とは無縁の人間だと自負していたが、その点に関しては、『内調』という看板に感謝するより他になかった。

 否、内調の人間でなければ、ベネディクトと交渉する機会もなかっただろうし、このような悍ましい賭場に情報収集へ来ることもなかったはずなので、その意味では、光と影を行き来する自らの仕事の業を呪うべきだろうか。

 幸いなのは、と中在地は思う。「傍観者でいられることだ」と。

 ダミー会社を通し、マフィアが経営している一流ホテルに赴き、ベネディクトと話しているのは、ギャンブルをする為ではない。単なる情報収集だ。

 内調が調べている事件の裏情報を受け取り、代わりに、組対(警視庁組織犯罪対策部)のガサ入れ時期をリークする。そのような取引を行っただけ。中在地としてはいつもの職務であるし、困難な仕事でもなかった。

 ここ、ホテル地下階に設備された『いきづまる水槽』の前に案内されたのは、取引相手からの接待のようなもの。邸宅内の池で鯉を見せられたり、茶室で富士の西湖の描かれた陶磁器を見せられたり、そういった歓迎と同様のものなのだ。

 西湖(さいこ)と言うならば、これほどにサイコなもてなしもないだろうが。

 あるいは、これは威圧の目的も含んだ行為なのかもしれない。

 金持ちが成金趣味を見せ付けるのは、自己顕示欲の為だけではない。その高級品を持てるだけの、自らの力を誇示するという意味合いもある。

 ベネディクトは言外に告げているのだ。「たとえ内調でも、嘯き欺くようならば、容赦はしない」と。

「貴重な設備を見せていただき感謝します、ベネディクトさん」

 これが嘘とハッタリが必要な交渉ならば背筋が凍るところだが、幸いにして今回はそうではない。中在地が渡す代価は信用の置ける内容。粛清の危険性は限りなく低い。

 故に中在地はそのように礼を告げることで、さっさとこの場を立ち去ろうとした。

 だが、ベネディクトが引き留めた。

「待て」

「何か?」

「そう急いで帰る必要もないだろう。もうすぐゲームが始まるんだ。見ていくといい」

 良くねえよ。言い返したいところだが、状況が状況であり、相手が相手だ。彼に選択権はなかった。

 不気味なのは、そう誘うカジノ王が笑みを湛えていることだった。

 凶悪で、強い力を持つ人間ほど、笑顔が多い。中在地の持論だ。ギャンブルの類を全く嗜まない彼には、何がそんなに楽しいのかてんで分からないが、それでも「この笑みに逆らうのはマズい」という判断はできた。あるいは、この直感を勝負師達は勘と呼ぶのだろうか。

 と。

 その時だった。

 ふと、すぐ近くに、少女が立っていることに気付いた。

 スクール水着に海水浴用ジャケットを羽織った奇妙な恰好の少女は、気だるげな雰囲気で、死の水槽を眺めていた。

「ああ、ちょうど良かった。彼女だ」

「え、何がですか?」

 ベネディクトはまた、平然と告げた。

「彼女が今日、この水槽で勝負するギャンブラー――テリコだ」

 こんな子どもが?

 死ぬかもしれない勝負を?

 中在地は驚きのあまり言葉を失い、次いで、口にし掛けた一言をどうにか飲み込んだ。「だから、良くねえよ」。



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