第477話

 ノアに案内されたカジノは高級酒場の地下にあり、上階の酒場以上の高級感ある雰囲気だった。

 客は富裕層らしき身なりの人間ばかりで、絢爛な内装に負けないくらい派手な格好の人もいる。


 ルキアが見繕ってくれた「余所行き用」の装いのフィリップより、むしろ平服姿のノアの方が浮いていたが、ドレスコードを要求されることは無かった。


 フロアにはポーカーやバカラといったトランプゲームのテーブルが多かったが、ルーレットやダイス、変わり種ではチェスや見たことのないボードゲームのテーブルもあった。


 フィリップとノアが参加したテーブルは、フロアの最奥にあるVIP会員専用のものだった。

 曜日や時間によってゲーム内容は変わるものの、その全てが例外なくハイステークスなのだとか。


 今日この時間はちょうどゲームの変わり目で、ブラックジャックとポーカーをそれぞれ一時間ほど遊んだ。

 ブラックジャックは1ゲームの勝敗、ポーカーでは5プレイ毎にチップ枚数を競い、ハーブで香り付けされた蜂蜜酒フレーバード・ミードをショットグラス1杯飲むというルールで。


 ショットグラスに注がれた琥珀色の液体は、口に運ぶ前から複数の香草が合わさった爽やかな香気を漂わせている。

 口に含むと蜂蜜の甘さと僅かな苦みが強く感じられるが、嚥下すると、鼻に抜けるのは甘ったるさのないハーブの涼やかな残り香だ。後味もくどくなく、ショットグラス一杯程度では味わい切れないと、むしろお代わりが欲しくなるような逸品だ。


 しかし──そのアルコール度数は55。

 喉や胃を焼くことなく、しかし確実に脳を侵す、全体量の半分を超すアルコール。上階の酒場では、これと別の酒を組み合わせたカクテルがレディ・キラーと悪名高い。


 最終戦績飲酒量は、フィリップとノアのテーブル前を見れば分かる。


 フィリップは……空のショットグラスが五個。つまり総合で五敗。

 かなり酔いが回っているらしく、ノアがテーブルに突っ伏したのを見て勝利の咆哮を上げている。椅子に立って両手を突き上げていたのは流石に見咎められ、カジノスタッフに引き摺り下ろされたが。


 対して、ノアの前にはショットグラスが……三十以上。総合戦績は驚異のセクタプル・スコア。


 「ぜんぜん、まだまだつづけられるけど……?」

 「突っ伏したまま言っても説得力ないよ。って言うか流石にそろそろ死にそうで怖いから辞めよう……?」


 呂律の回っていないノアに、普段の取り繕った慇懃さが消えたフィリップが応じる。


 両者、まあまあ前後不覚だ。

 フィリップはここが高級カジノであることも忘れて叫んでいたし、ノアは自分の上半身の重みに耐えられないかのようにテーブルに突っ伏したまま起き上がらない。意識はあるようだが、立って歩けるかは微妙なところ。


 「ふざけんな、あたしはまだまけてないから! つぎはかつから!」

 「次勝ったって僕の勝ちだよ。算数は苦手か? ここから二十連勝する確率は計算できる?」

 「ななたすななはなな……」


 流石にこの惨状をVIPテーブルに広げ続けるのは不味いと判断されたようで、フィリップが気付いた──正気付いたときにはバーカウンターにいた。

 

 自分がいつ頼んだのかという記憶も無い水を飲んでいることに気付くと、グラスを置いて周囲を見回す。

 入ってすぐのところにもバーカウンターはあるが、ここはVIPテーブルに程近い、VIP専用のものだ。


 「えぇ……?」


 懐中時計を取り出し目を落とすと、時刻は11時少し前くらい。記憶の欠落は十数分といったところか。


 「お目覚めかしら?」


 隣からの声。

 婀娜めいたそれに引かれるように目を向けると、隣席に居たのは、琥珀色の液体が注がれたコニャック・グラスを揺らす女だ。


 背中から脇腹までが大胆に開いた、オーバードレスと見紛う過激なデザインのドレス。肩口なのかなのか分からないほど大胆に開いた開口部からは、腋どころか横乳も横腹も完全に露出している。瑠璃色の生地と白い肌の割合は、ぎりぎり布地の方が多いくらいか。


 これまで商売女というものを見たことがないフィリップが受けた衝撃は、ステラの水着を見たときと同等だ。

 あの時の疑問は「なんで?」だったが、今は「なんだこいつ」といったところ。


 「あ、はい……。えっと、ご迷惑をお掛けしました、か……?」


 フィリップは少し苦労して、女の服装から顔に視線を上げた。

 ブルネットの綺麗な人だ。流石にルキアやステラには見劣りするし、化粧気も強いが、高級カジノのバーカウンターでグラスを揺らしているのがよく似合う、大人の女性といった風情がある。


 ノアより更に短いボブカットだが、中性的な印象は受けない。むしろ女臭いくらいだが、それはともかく女性の短髪は帝都で流行っているのだろうか。


 「いいえ。貴方くらいの迷惑なら、ここでは毎日のことだもの」


 妙に婀娜っぽい仕草でカウンターに頬杖を突き、彼女は流し目にフィリップを見つめながら微笑んだ。

 美しさに見惚れてしまう、というより、惑わすような色香が視線を惹き付けるが、フィリップの視線はまたも顔から離れていた。


 今回フィリップの目線を釘付けにしたのは、彼女の脚。深いスリットの入ったドレスから覗く、瑞々しくハリのある太腿──そこに巻き付けられたベルトだ。

 単なる装身具アクセサリーではない。一見すると革のようだが、あれはフィリップが使っているベルトと同じ素材。錬金術製の合成生地だ。強靭でしなやか、防刃耐火性に優れる……装身具というか、向けの素材といえる。


 恐らく、ナイフのような小型の得物を内腿に留めているのだろう。


 護身用の短剣くらい誰でも持っているが、それならもう少し大きめの、威圧感があるものにする。脚にベルトで固定できるような小ぶりなダガーは、牽制ではなく殺傷目的か。


 ……ただの美人ではなさそうだ。


 「ここの支配人のアデラインよ。貴方は……聖痕者様のご友人なのかしら? 彼女は酔いが酷かったから、別室でお休みになられているわ」

 「はあ……それはどうも」

 「……まだ意識がはっきりしないようね」


 アデラインは指を弾いてバーテンダーを呼び寄せると、「彼に水をもう一杯」と言ってフィリップに微笑みかけた。

 フィリップがぼーっとしていたのは酔いも大きな理由だが、三割ほど回復してきた思考の全てを「あの位置のナイフはどうやって抜くのだろう」なんて益体の無いことを考えていたからだ。


 上向きに抜くには股間が邪魔だから、下向きに抜くのは間違いない。

 しかしそれだと、座った状態なら簡単だが、立った状態からでは身を屈めるか足を上げるしかなく、隙が生じる。


 まあ、掌に隠せそうなサイズのコンシールナイフだろうし、直接戦闘を想定した武器ではないのだろうけれど。


 「……ん?」


 一人で納得したフィリップは、氷の入っていない水を一息に半分ほど飲み干し、再びアデラインの顔に視線を戻す。


 そしてふと、彼女の耳を飾る瑠璃色のピアスに目を留めた。

 周囲の人々を注意深く観察してみると、バーテンダーは金色の指輪を着けているし、近くに居るセキュリティらしきカジノスタッフは同色のブレスレットを着けている。シックな黒いスーツ姿で、アクセサリーはその一つだけだ。セキュリティの方は分からないが、バーテンダーの指輪には青い石が付いているのが見えた。


 そういえば──カジノに行こうと誘われたとき、そのためにOKしたのだったか。

 違法賭博をシノギの一つにしているという、彼らに接触するために。


 「……お姉さん、アズール・ファミリーって知ってる?」

 「……えぇ。私としては、貴方のような子供がその名前を知っていることの方が、ずっと驚きだけれど」


 コニャック・グラスを傾け、琥珀色の液体で唇を湿らせたアデラインが愉快そうに答える。

 その表情や僅かな所作からは、この後フィリップが何を訊くのか分かり切っているような、分かった上で待っているかのような余裕が感じられた。


 「そうなんだ。……彼らはラピスラズリのアクセサリーを着けてるって言う話、僕はてっきり、みんな指輪を着けてるものだと思ってたよ。でも、そっちのお兄さんはブレスレットをしてるし、お姉さんのピアスも、それってラピスラズリだよね?」

 「……そんなに探らなくても、聞けば教えてあげるわよ。貴方の考えている通り、ここはアズール・ファミリーの取り仕切る賭場。私も彼も、ファミリーの一員よ」


 艶やかな笑みと共に、彼女は本当に「聞かれたから答えた」という口ぶりで語る。

 こうなると、アズール・ファミリーが秘密組織であるという情報が疑わしくなってきた。いや、ずっと話を聞いていたのだろうセキュリティの男が目を剥いて驚いているので、易々と明かしたアデラインがおかしいのか。


 彼女は怪訝そうな顔をしているバーテンダーや、思いっきり困惑しているセキュリティには構わず、揶揄うような笑みと共にフィリップを見つめている。


 「それで、何が聞きたいの? 私の素性を明かして満足、というわけではないでしょう?」

 「えぇ。貴女たちの仲間が、王国のミュローの町にいたことは?」


 その問いに対する反応は、アデラインよりもセキュリティの男の方が大きかった。

 今まで身動ぎ一つしなかった彼が明確に反応し、接客者らしく敵意が無いことを示すように身体の前で組まれていた手は、今は腰の後ろに回されていた。それも右手だけ──得物に手を伸ばしたのだと、フィリップでも分かる。


 名前も公開されていない秘密組織の人員配置を知っている相手。

 その人員との連絡が途絶えているとなれば、まあ間違いなく敵だろう。普通は客に危害が及ぶ場面以外、威圧目的でも武器を抜かないはずの警備要員が、今はもう警備員ではなく暗殺者じみた殺意を迸らせている。


 彼らの組織がまた別な組織との抗争中であることを抜きにしても、味方だとは思えないだろうし、逆に手放しで信用するような間抜けなら期待外れだ。それでいい。


 フィリップはセキュリティの男から視線を外し、相変わらず余裕の笑みを浮かべているアデラインに向き直る。

 視線を受けて、彼女は「知っているわ」と端的に頷いた。


 「その個人を? つまり、えーっと、彼らの友人や知人について詳しい?」

 「それなりに。けれど「いた」という口ぶりからして、もしかして捕まったのかしら」

 「いいや。僕が全員殺した」


 演出のための間を挟むこともなく、フィリップはさらりと言い放った。

 自分の言葉が与える衝撃を最大化させようとする様子もなく──自分の言葉が相手に衝撃を与えるものだと考えた様子も無く。


 「……」


 カジノの朗らかで楽し気な喧騒が遠退くような、薄ら寒い沈黙が流れる。

 アデラインはフィリップの言葉の先を待ち、フィリップはまた水を飲んでいて、単に会話が途切れただけだ。


 しかし傍から見れば、明らかな一触即発の空気だ。


 会話を聞いていたバーテンダーが他の客にゲームプレイを勧めてそれとなく退席を促し、セキュリティの男が一歩、こちらに踏み出すほどの。


 グラスを空けたフィリップは手を挙げてバーテンダーを呼び寄せながら、隣席の女に視線を向けることなく適当に続ける。


 「ついては、彼らが『兄貴』と呼んでいた人物、或いは『姐御』と呼んでいた人物について知っている限りのことを話してほしい。可能なら引き会わせてくれると楽でいい」


 フィリップはそこで言葉を切り、壁際に控えるセキュリティの男を片手で示した。


 「……それから、今にも殴り掛かってきそうなそっちのお兄さんを、僕が殺す前に止めるべきだと思うよ」


 アデラインは薄く笑みを浮かべ、僅かに顎をしゃくるだけで男の動きを止めた。

 上下関係に相当な格差があるのか、それとも彼女が恐れられているのか。明らかに危険なフィリップと平然と会話を続け、そしてそれを仲間にも邪魔させない権威。ただの大人なお姉さんでないのは確実か。


 フィリップは警戒心からか動きが僅かに緩慢になったバーテンダーに「水のお代わりください」とにこやかに笑いかけ、新しく貰ったグラスを弄びながらアデラインに向き直った。


 「……その『兄貴』と『姐御』に会いたい理由は?」

 「僕が殺した男が、今わの際に言い残したんだ。その二人なら、僕を高く買うはずだと」


 じわじわと酔いが覚めてきたフィリップは、その代わりのように胃に溜まり始めた不快感を押さえつけるように水を流し込む。


 アデラインはグラスを置き、椅子を回転させてフィリップを真っ直ぐに見据える。相変わらずカウンターに頬杖を突いてはいたが、色素の薄いブラウンの双眸から揶揄うような気配は消え、しかし愉快そうな笑顔のまま、特に体格に優れるわけでもない帯剣しただけの子供を見定めるように。


 「……貴方、王国の殺し屋なのかしら? それとも冒険者? 兵士なら初年兵くらいの年よね?」

 「殺し屋ではないよ。冒険者ではあるけれど、ここに来たのは依頼を受けたからじゃない」


 問われたフィリップは、否定しつつも薄く笑みを浮かべる。

 アデラインがミュローの町で殺した男と『兄貴』や『姐御』の両方を知っているのは確実だ。でなければ、彼らの紹介する人間が殺し屋だという結論正解は出せないだろう。


 あの男は確かに、フィリップのことを殺し屋だと思っていた。その殺人能力をアズール・ファミリーが買うはずだと言って、帝都行きを勧めた。


 だが違う。


 「僕は……そうだな、狩人だ。帝都に巣食うカルトを根絶しに来た」


 あくまで自分の意思で。

 他人の思惑に希釈されていないが故に、他人の思惑で揺らぐことが無い純粋で強靭な憎悪いしに基づいてここに来た。


 フィリップがそう言って笑った直後、カジノのプレイフロアから複数の悲鳴が上がる。


 頭の内側で反響するような甲高く耳障りな女性の叫び声に、鼻先を擽る慣れ親しんだ悪臭。人体の内側にあるべきものが放つ危険信号。

 眉を顰めつつ振り向くと、薄汚れた黄色いマントで人相を隠した集団がプレイフロアに押し入り、排除しようとしていたカジノスタッフ数人を殺すところだった。


 マントの内側に抱くように隠していたロングソード。

 碌な手入れもされていない、刃も輝きもナマクラが、凄惨なまでにヘタクソな太刀筋で人肉を引き裂いた。


 飛び散る血と臓物片が高級カーペットを汚し、鉄火場慣れしていない富裕層の客たちが少しでも離れようと一斉に壁際へ逃げる。


 そして──フィリップはグラスを呷って叩き付けると、まだ本調子とは言えない足取りで席を立った。


 その口元は笑みの形に歪んでいる。

 10年ぶりに親の仇に相対したような、或いは待ち焦がれていた恋人と再会したような笑みの形に。








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