第478話
「……あははっ」
酒精を含んだ吐息が漏れる。
ハーブの爽やかさと蜂蜜の甘さが同居したそれは、アルコールのせいばかりではない熱を孕んでいた。
冷たいのに熱い、憎悪に任せた殺意の熱気を。
「やあ、待ってたよ。君たちを探しに来たんだ」
逃げ惑うカジノ客の悲鳴や足音、カジノスタッフの怒声に、囁いた歓喜は容易く掻き消される。
ロングソードを携えた黄色いローブ姿の集団。数は十人ほどだ。
上階の酒場を通ってきた以上はそこで止められているはずだから、そこでも同じようにセキュリティを殺して突破したのだろう。
狙いは不明だが、ここがマフィアが運営するカジノであることと、二つの組織が抗争の真っ最中であることを考えれば、大方の察しは付く。
「姐御、お下がりを」
フィリップが肩関節や股関節の準備運動をしていると、ずっとフィリップを見ていたセキュリティの男──アデラインのボディーガードらしき男が彼女の前に立ち、身体で庇う。
まだ暢気なバーカウンターとは違い、フロアでは既に戦闘が始まっている。
ドレスコードを無視した如何わしい客ではなく、敵対組織の襲撃者として相対したカジノスタッフ数名が短剣を抜いて斬りかかり、剣戟の音が鳴り始めた。
護身用の短剣は、短剣同士や徒手相手なら十分な脅威だ。だがリーチに勝る長剣が相手だと途端に心もとない。
それでも意識を切り替えた後では、カジノスタッフ──いや、マフィア構成員は誰も落ちていない。絶えることのない剣戟音は、彼らがリーチに劣る得物で抗戦していることの証左だ。
だが、じきに破綻する。
ロングソードが力と射程で押し切るか、短剣が技量と経験ですり抜けるかは不明だが、遅かれ早かれ誰か死ぬ。
ほんの数人程度だが数で勝っているマフィアか。
背に客を庇っておらず果敢に攻め立てられるカルトか。
──どちらにしてもつまらない。
「殺し屋。護衛を請け負う気はあるか」
「無い」
極めて端的に応じると、提案した黒服の男は強面を不愉快そうに顰める。
だがそんなことはどうでもいい。
「いいのよジャック。彼が狩人なら、結果的に護衛してくれるようなものだもの」
逆に愉快そうに笑うアデライン。
セキュリティの男はジャックと言うらしい。近くで見ると身長も体格も威圧的なほど恵まれた偉丈夫だが、それもどうでもいいことだ。
カルトが自分以外の手にかかるのも、カルトが目的を果たして死ぬのも、どちらもつまらない。そんなことになる前に、きちんと楽しまなくては。
「帝都に蠢く不快害虫。生まれてこなければよかった者の集合。生を望まれぬ命の集まり。……とはいえ無意味な命でもない。僕の憎悪を拭う雑巾くらいにはなる」
いっそ愛おしそうな愉悦に満ちた笑みを浮かべ、フィリップは蛇腹剣を抜き放つ。
付与魔術に特有の青白い燐光に、傍のアデラインとジャックだけでなく、戦っていたカルトやマフィアたちまでもが視線を惹かれたようだった。
近くの二人は、フィリップの囁いた業火の如き憎悪に気を引かれたのかもしれないけれど。
「惨く死ね劣等存在。僕を楽しませて死んで逝け」
言って、フィリップは地を這う蛇のような超前傾姿勢で駆け出した。
「っ!」
「そいつは味方だ! クソカルト共に集中しろ!」
新手かと警戒するマフィアたちに、フィリップの後方から怒声が飛ぶ。ジャックだ。
「っ……! すまん、助かった……、っ!?」
足を失って倒れるカルトに、フィリップは追加の斬撃を加える。
両手と口元、そして肋骨の守りの際にある腎臓へ。
顎の筋肉を切り裂かれ、口を閉じることも言葉を話すことも出来なくなったカルトが絶叫と共に倒れる。
両足の膝から下に、両腕の肘から先、そして血液循環における重要臓器である腎臓。これだけ失えば確実に死ぬ。
だが即死ではない。脳にも心臓にも、致命的なダメージは一切与えていない。欠損部位からだくだくと血が流れて、体温が流れ出て、酸素が流れ出て、生命を流出させて死に至る。
「え? あ、止めを──、?」
困惑しつつ、最後の一撃を加えようとしたマフィアの前に、たった今何の抵抗も無く人間の骨を断ち切った青白い刃が差し出される。
慌てて動きを止めた彼が視線を上げると、フィリップの胡乱な視線とかち合った。
「あの、邪魔しないで貰っていいですか?」
「え……?」
フィリップは死に体のカルトと、困惑顔のマフィアと、今なお戦闘の続くフロアに視線を巡らせる。
「……ちょっと抽象的でしたね。つまり、こいつが自然に死ぬまで……うわ、しまった、自分の血で溺れてる」
魔術を詠唱されても困るからと顎を切ったが、その傷から溢れた血が喉に流れ込み、ゴボゴボと聞き汚い音を立てていた。
フィリップは少し慌てて顔を踏み付け、横に向けて血液を排出させる。溺水の苦しみは不本意ながら知っているし、それでもいいのだが、折角ならもう少し長生きしてほしい。今は質より量──苦痛の強さではなく、時間で痛めつけたい気分だ。
「こういう延命処置をしろとまでは言わないけど、トドメを刺すとかは止めてくださいね。興ざめなので」
一方的に言って、フィリップはフロアに向き直る。
しかし残る九人の獲物に向かって駆け出す直前、ふと思いついて振り返った。
「あぁいや、貴方たちにはこういう言い方の方が効くのかな。……“邪魔したら殺す。死にたくないなら手を出すな”」
恐喝を生業の一つにする本職相手には、なんとも拙い脅迫だ。
しかし目の前で人間一人をバラバラに切り分けて見せた後なら、十数分くらいは効果が続くだろう。続かなければ、今の言葉は脅迫ではなく警告だったことになる。
「さて……」
今度こそ駆け出したフィリップは、時にカルトを斬り付け、時に溺水させ、一人も殺すことなく無力化していく。
黄色いローブの暴漢たち。自ら襲撃しに来たはずの彼らが、一人、また一人と悲鳴と共に倒れていく。
それも倒れて、そこで終わりではない。苦悶の呻き声や、ゴボゴボという悍ましい音を上げ続ける。
普通なら戦意を喪失して逃げ出しているだろう仲間の惨状を目の当たりにして、
逃げないでいてくれるのは、大変ありがたい……いや、実に好都合だ。
だが不審だ。
何か起死回生の一手でもあるのか、時間を稼いででもいるのか。
まあ存外、「戦死すると天国に行ける。敵前逃亡すると地獄に落ちる」なんて教義があるだけかもしれないけれど。
不審だろうが何だろうが、見逃すという選択肢は無い。気になるなら半殺しにして、死に様を鑑賞しているときにでも聞けばいい。
「そうなると、一人くらいは喉を──、?」
喉を残して召喚魔術でも使われると面倒だなあ、なんて考えていたフィリップは、思考を中断して眉を顰めた。
血で彩られたホールに、新たな人影が現れる。
悠々とした緩慢な足取りで、仲間のほとんどが殺された後で漸く到着したらしい重役出勤のカルト。
琥珀色のローブを身に付けた矮躯、フィリップどころかリリウムよりももっと小さい少女の身体から、目が離せない。
……何かを感じる。
カルトに対する不快感や憎悪とは違う、肉食獣に相対した時の本能的恐怖とも違う。
矮躯のカルトがすっと、左手を伸ばす。
吊られた人形のような動きに、フィリップは反射的に剣を構えた。
「っ!?」
足が止まる。──失策だ。
警戒できるのなら、フィリップは絶対に立ち止まってはいけない。鎧も楯も再生能力も持たないフィリップの最大の防御である拍奪の歩法、相対位置認識欺瞞を全開に、走り続けるべきなのに。
それほどフィリップを焦らせたのは、智慧でも本能でもなく、経験だった。珍しいことに。
フィリップは彼女の気配を知っていた。
シュブ=ニグラスに与えられた智慧ではなく、過去に直接遭遇し、接触した経験がある。
袖口から飛び出したのは魔術でも短剣でも銃弾でもなく、黄土色をした波濤だった。
蠢き伸びる触手の大波。
フィリップの胴より倍は太い
有機生体的な動きで迫りくるそれは、足を止めたフィリップを確実に貫く速さと鋭さを併せ持っていた。
「しまっ──、ッ!」
後悔している暇はない。
迂闊にも足を止めてしまった以上、ここから慌てて回避しても間に合わない。
潰されるように貫かれ、貫かれるように破砕される。自分が死んだことにも気付けない、バラバラの破片になって死ぬ。
それが嫌なら防ぐしかない。
受け止めるのは不可能だ。
切り落とすのも、同じく。あれは古龍の骸なんかより、人間の付与魔術なんかより、ずっと上等な
それを避ける術は知っている。だが実現できる確証がない。
ミナにやり方は教わった。
人間の筋肉を引き千切り、骨をも砕く吸血鬼の速度と腕力をいなす方法を。
その技の究極形を見た。
鉄をも切り裂く魔剣を、そこいらで拾った木の棒で百度もいなした曲芸を。
教示は受けた。手本も見た。
そもそも──フィリップの訓練相手は、いつだってそんなやつだった。パンチで生木を抉るやつ。剣で剣を斬り飛ばすやつ。
ならできる。やるしかない。
そう自分に言い聞かせて、フィリップは咄嗟に意識を
自分を捨てる。
生まれてからの十年間で培った、人間的常識を一旦忘れる。
「いくら教わったとはいえ」「目の前で百度も見たとはいえ」「物理的に可能とはいえ」と、怯え、焦り、冷静に考えてしまう人間の精神に蓋をする。
簡単だ。
いつも努力してやっていることの、真逆のことをすればいいだけ。その努力を放棄すれば、思考は簡単に
「──、は」
冷静さが極大化する。
迫り来る触手の一撃を、無感動に、無関心に、無価値なものとして再確認する。
訓練を重ねてねじ伏せていた外神の視座に意識を委ね、出来るはずがないという
そして──触手の津波はフィリップの掲げた剣に触れた直後、自分自身の推進力によってあらぬ方向へと伸びて行った。
反動は皆無。
剣へのダメージ、手の指先から肩にかけて僅かな振動こそ感じたものの、肩甲骨から腰にかけての柔軟性で難なく受け流し、一歩も動かずにいられる程度。
実は触手の威力が大したものではなかった、というオチでないことは、逸れた先で轟音と共に壁に突き刺さり、抉り飛ばしながら五メートルも進んだ触手を見れば明らかだ。
フィリップは触手が動きを止め二発目が来ないことを確認すると、散らばっているカルトの残骸に無感動な一瞥を呉れ──。
「──っと」
ぺちぺちと頬を叩き、人間性を励起する。
奇跡的な技に興奮する。それを為した自分に酔いしれる。ルキアが好き、ステラが好き、カルトは嫌い。剥がれ落ちそうになった
そして一呼吸置いて、フィリップは自分が何をしたのかを遅ればせながら理解した。
「す、すっごぉい……なに今の……奇跡だ……」
一か所の欠けも無い青白い刃を見ながら、フィリップは震え声で呟いた。
急加速した心拍と大量放出された
実現可能な下地は、確かにあった。
だが実現率は1パーセント程度。咄嗟に思いついた『なんちゃって夢想の剣』……動揺や迷いといった雑念の消去も含めると、2パーセント。
ということは、もう一撃来たら今度こそ死ぬ。
あまり興奮してもいられない。
少し勿体ないが、こいつは遊べるカルトではない。……いや、カルトで遊ぶ邪魔になる。
触手を召喚する魔術のことは気になるし、それを教えた人物のことはもっと気になるが、ここは欲張っていい場面ではない。
こいつは速やかに殺すべきだ。
尤も、言葉ほど簡単なことではないけれど。
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