第472話

 手を伸ばしても互いの得物が触れ合わない程度の距離を開け、ミナは腕を持ち上げ、泥人形を視界に収めたまま確認する。

 幾つもの裂傷があった白い肌に、傷も跡もありはしない。骨まで見えていた傷でさえ、何事もなかったかのように癒えている。


 だがミナにとって、自らが意図していない負傷は久方ぶりだ。

 殊に、純粋な剣術のみの立ち合いに於いて。


 先の攻撃──想極の太刀による単独同時攻撃は、予想の範疇ではあった。

 相手の剣速がミナのそれを上回っていたが故に防御箇所を絞って対応しなければならなかったが、防御自体は間に合った。そして剣で防げるのなら、魔力障壁や魔術による防御であれば間に合った可能性が高い。


 それを選ばなかったのは判断ミスではない。端から、その選択肢を捨てているのだ。


 なのだから。


 「──」


 泥人形が構えを変える。

 剣を立てた八相から、切っ先で相手の爪先を指すような正中下段へ。

 

 どちらにしても防御寄りの構えスタンスだが、ミナは果敢に攻めかかる。

 人間ならそうはいかない。人間の剣士は腕や脚に深く一太刀入るだけで戦闘不能になるし、放置すれば失血死する。


 だが、彼女は切っ先三寸の接触が死を意味する脆弱な人間ではない。腕を落とされようと瞬きの後には再生している、不死身の怪物だ。


 故に彼女の攻勢は勇猛や果敢ではなく、冷静で真っ当な行動でしかない。


 「……曲芸だ、あんなの」


 ミナの連撃を棒切れ一本で捌く泥人形へ、フィリップは思わず感動のこえを漏らした。同じものが、戦いを見守る騎士たちからも。

 清流と山谷風の涼やかな音に満ちていた平野に、ほんの僅かな金属音が連続する。音を置き去りにするようなミナの斬撃を、泥人形は木の棒一本で受け止めている。


 有り得ない。


 ミナが持つ二振りの魔剣は、その両方が斬鉄の鋭さだ。

 あんな棒切れも、鋼鉄の剣も、区別することなく斬り飛ばす。


 そのはずなのに、そこで拾っただけの木の棒が魔剣の斬撃を受け止めた数は、もう何十、或いは百にも届く。


 時折、泥人形の動きが見えることがある。

 常にトップスピードを出し続けるのではなく緩急をつける中で、偶々人間の動体視力が追い付く程度にまで下がってきたのだろう。


 そのほんの数合、きっと攻防の5パーセント程度でしかないだろう要素が、フィリップや見入っている騎士たちの感動を強くする。


 

 魔術や超常的な技を使っているのではなく、純粋な剣技で。


 力と速さと動きの精密性とで、あの子供でも折れそうな枝を魔剣と同等の業物に見せかけている。


 「百人斬りだ……」


 護衛騎士の誰かが畏れを露に呟いた。


 百人斬り──フィリップもミナから概念だけは聞いている、剣技の秘奥の一種。

 特定の動きや型のある技ではない。技というよりは、偉業や難業の類だ。


 一振りの鉄剣で百人を斬るという、言葉の上では簡単なもの。


 ただしそれには単純な強さもさることながら、何より剣を生かし続けることが求められる。

 剣の切れ味は形状や素材以上に刃の冴えに左右される。刃部が薄く鋭く研ぎ澄まされていなければ、たとえ龍の素材を用いた刀剣でも万全の斬撃にはならない。


 達人であれば、生身の人間を斬った程度で刃を毀れさせることはない。

 しかし相手が鎧を着ていたり、剣で防いだり、或いは同等の使い手で打ち合いになった場合、刃はあっけないほど簡単に欠ける。


 勿論、概ね一メートルくらいある刃渡りの一か所が欠けたくらい、殺傷力に差異は無い。

 しかしそれが二人、三人と重なれば、次第に刃の冴えは失われていく。百人どころか、半分の五十人を斬る頃に剣が原型を留めているかさえ怪しい。剣戟とは命だけでなく、刃をも削る戦いだ。


 つまり百人斬りとは、打ち合うことすら避ける一撃必殺の連続。

 百人と対峙し、その誰をも寄せ付けないほど圧倒的な強さを持ち合わせることの証明。防御すら許さない、鎧袖一触に屠るほどの強さを。


 ……現実的ではない。


 相手だって剣士だ。

 弱者を斬ったって意味がないし、それなりに強い相手と立ち会うのが常。防御も反撃も先制も、絶対にされる。


 その上で誰とも打ち合わず百人を斃し切るなんて、いくら何でも非現実的な想定だ。


 しかし──抜け道はある。

 相手の攻撃をいなし、防御を抜いて斬り伏せ、その上で刃を活かし続けるための抜け道が。

 

 打ち合って刃が削れるのは、要はこちらの剣の刃部──薄く繊細な部分が相手の剣に触れるからだ。

 では剣の腹で受ければいいかというと、そうではない。相手の斬撃は刃の薄い一点に力を集中して繰り出される以上、中途半端に広く脆い面で受けると、剣が折れたり斬られたり、そこまでは行かずとも力で押されて体勢を崩す可能性が高くなる。


 ではどうするか。

 剣の腹から刃先までの傾斜部分、鎬同士を触れ合わせて受け流すしかない。


 相手の剣を受け止めてはいけないし、逆にこちらから叩いてもいけない。打ち合うよりマシだが、それでも剣には負荷がかかる。


 力加減はあくまで剣同士が触れる程度。

 刃部の傾斜と構えた剣自体の角度を使って、相手の剣をこちらの死線上からずらし、こちらの刃先を相手の死線上へ差し込む。


 「……はは」


 思わず笑ってしまう。


 その技術の方は、フィリップも知っている。

 フィリップがまだ『龍貶し』を持っていなかった頃、ミナとの訓練で模擬剣を斬られまくっていたときに教わった。


 いくら魔剣とはいえ剣は剣。刃以外の部分に割断力はないのだから、腹か鎬に触れればいいのだと。


 そうすれば斬撃のベクトルがずれるから、相手の力を受け止めなくていい。腕力も得物の強度も必要なくなる。と、先生らしく実演付きで。


 まあ、フィリップは何度か試して普通に無理だったので、大人しく二人ともがミナの作った血の長剣を使うことになったけれど……理論上、それは鉄の模擬剣で斬鉄の魔剣を受け流せるということだ。


 いや、得物が剣である必要などない。

 最低限の剛性さえあればなんでもいい。自分の腕でだって構わない。刃に触れない限りは斬れないのだから。


 あの泥人形は、それをしている。

 そこで拾ったいい感じの棒一本で、二振りの魔剣を捌き続けている。


 百を超えた攻撃が一度たりとも剣戟らしい金属音を立てていないのは、その数の攻防をただの棒きれが生き延びているのは、ただの一度もまともに打ち合っていないからだ。

 大樹でさえ一撃で両断せしめるミナの力と速さ、魔剣に付加された運動の全てを、あの小枝は一度たりとも受け止めていない。


 フィリップが打ち込んでミナがいなす、くらいの実力と肉体性能に差がある条件だったら、まあ、百回連続で出来るかもしれない。反応速度や動体視力も勿論だが、戦闘経験の差がありすぎる。


 つまり──今戦っている二者間の隔絶は、そのレベル。


 「ルキア、援護を──、っ?」


 言いかけて、止まる。


 判断は間違っていないはずだ。

 フィリップがしゃしゃり出てあの斬り合いに混ざったところで、きっと一秒も保たない。それはフィリップに限った話ではなく、肉体性能が人間の範疇にある全ての存在がそうだ。

 

 だからミナを援護するなら、ルキアたち魔術師に頼むのが最適解だろう。


 だが、直感ほんのうが叫ぶ。

 それは駄目だ。そんなことをしている場合ではない。それよりも、何よりもまずと。


 腰のあたりが茨で締め付けられたように鋭く痛む。

 斬られた? 飛ぶ斬撃が知らないうちに襲い掛かり、気付く間もなく喰らっていた? ……いや、それならとうに死んでいる。上半身と下半身が泣き別れ、臓物を零しながら倒れている。


 泥人形は遠く、ミナと、多くの鎧騎士を挟んだ場所にいる。

 下段の構えを解き、枝を腰の横で納刀したように寝かせている。所謂、居合の構え。まだ攻撃した様子は無い。


 ミナは──死に体だ。


 瀕死という意味ではない。

 攻撃を受け流されて剣を弾かれ、防御がズレている。


 あるべき位置からほんの数ミリ、ほんの数度。

 だが、万全ではない。


 そして泥人形は、そのほんの数ミリ、ほんの数度の精密性を要求される曲芸を百以上も重ね続けた化け物だ。


 その攻撃を前に、欠けがあってどうして防げようか。


 ちり、と、疼痛を訴えていた腰回りの皮膚に焦げたような熱を感じる。

 馬車の外では何人もの騎士たちが胸元を押さえて呻いている。フィリップを庇い、魔力障壁や空間隔離魔術の用意をして守りを固めている聖痕者たちもまた、フィリップと同じ辺りを無意識に押さえている。


 どうやらそれは、一つの直線状に生じた「何か」らしい。


 「……?」


 フィリップも騎士たちも聖痕者たちも、誰もその正体を知らない。

 これまでに似たものを経験したことがあっても、これほどのものは初めてだ。経験との差があり過ぎて、同じものだと結びつかない。


 それは、本能の暴走であり細胞の錯覚。


 背後から刃物を向けられたり、死角から物が飛んできたときなんかに、「嫌な感じ」がすることがある。

 視覚以外の知覚器官や、第六感と呼ばれる感覚センサーが、空気や意識の流れを把握しているのだ。それは訓練によって研ぎ澄ますこともできるが、ある程度の能力は元から備わっているし、鍛え上げるだけのポテンシャルもある。


 フィリップたちが感じたのはその延長。

 「ここに居るべきではない」と、自我ではなく遺伝子に備わった危機察知の本能が絶叫している。


 脳ではなく体細胞が。

 身体を構成する全ての細胞、遺伝子によって形成された全ての要素が悲鳴を上げている。特に危険な部分は、もはや痛みさえ錯覚している。


 一瞬の後に襲い来るであろう斬撃が齎す切断を、平時の数百倍の鋭敏さを発揮した生存本能が予期したのだ。


 対峙しているわけでもない傍観者の、きっと意識を向けてさえいないだろう相手の生存本能を暴走させるほどの威圧感、存在感。──剣気。


 「……っ?」


 ステラが自身の身体に起きている異常の正体を測りかね、熱を感じる辺りに視線を落とす。

 泥人形に近い位置の騎士数人が、完全に無意識で半身を切り顔を逸らす。それは訓練を積んだ戦士としてはあまりに拙い、本能的に顔と心臓を守る怯懦の反射だった。


 だが無意識下の反射でも、反応しただけ優れている。

 精神と本能が切り離されているフィリップでさえ──いや、だからこそか──本能の警告に従わなかった。謎の疼痛が、一瞬後の斬撃線を予測した体細胞の、主人への全霊の警告であるとは思いもしなかった。


 ──つまり。


 フィリップも騎士たちも聖痕者たちも、同じ一閃で死んでいた。

 ルキアとヘレナが展開する空間隔離の絶対防御は、一瞬遅い。反射的に詠唱したとしても、展開速度が反射速度と等しくはならない。詠唱と魔術式の演算が終わるまでのラグがある。


 故に、死ぬ。


 ステラが展開した魔力障壁は破城槌を正面から受け止め、龍骸の蛇腹剣の連撃を弾く強度だ。

 だが限界はある。ただ硬いだけの壁では、その斬撃を阻むことは出来ない。


 故に、死ぬ。


 だから、彼らを救ったのはフィリップの存在だった。

 フィリップがどうこうしたわけではない。ミナのトンデモ剣術を多少見慣れているとはいえ、そこがフィリップの知る上限であり、フィリップの能力では指先さえ届かない高み。それ以上の泥人形の攻撃から、ルキアとステラを守る術など持っていない。


 ただ、泥人形が狙う先──ミナが、自分とペットの位置関係を思い出しただけ。


 「──、っ」


 ミナが身体を霧に変え、泥人形の背後に回る。

 居合構えからの攻撃は正面方向に限定される。一振りの裡に数十の攻撃を放つ馬鹿げた技でも、背後へ剣が振られるという存在しない可能性は再現できない。


 「おい、反則だぞ」


 泥人形が身体を返し、振り向きざまに枝を振り抜く。

 咎めるような声と共に放たれた居合の一閃は、身体を霧に変えたミナを捉えることはない。──そのはずだった。


 飛ぶ斬撃、振っていないのに実現する斬撃、と有り得ないものを知っているフィリップでさえ、その一撃を見たときには「有り得ない」と口走った。


 物理的な干渉の殆どを無効化する状態となったはずのミナが、腹から血を噴きながら現れる。

 両手で魔剣を構えているのは、心臓を裂く一撃を腹部までどうにか逸らしたのだろう。


 余波かのような一陣の風が吹き──ミナの遠い背後、谷底平野と山の境界を示すような森の木々が、梢を騒めかせたかと思うと、連鎖するようにして次々と倒れた。


 「えぇ……?」


 困惑に、思わず笑いが混ざる。


 飛ぶ斬撃も大概おかしいが、今の一撃は異常の数も度合いも上回る。


 霧化したミナは質量の殆どを失い、風のように移動する。物理的な攻撃を全て無効化する、半ば無敵の能力だ。

 彼女の魔術耐性を貫くほど強力な魔術なら、その状態でも徹るが──あの泥人形が現れたとき、ルキアたちは殆ど無警戒だった。それはアレが、魔術的には大した脅威ではないことを意味する。


 ミナを切り裂いたのは純粋な剣技だ。

 だが、ミナの背後、幹の中ほどを横一線に伐り倒された木々まで100メートル以上はある。それに、あれらは風が吹いて梢が揺れるまで倒れなかった。倒れた木に押されるように、全ての木々が連鎖的に倒れた。


 つまり──上半分と下半分、斬線の上下が殆どズレることなく、切り離された幹が切り株の上に直立していたということになる。


 飛ばした斬撃には剣の摩擦が無い分──無いと思われる分、鎧を着せた巻き藁で行う試斬とは条件が違う。

 だが100メートル先でも一寸の狂いも無い精密無比な水平切りは、それだけで身に付けた技の冴えが分かる。


 瞠目するフィリップたちの見つめる先で、泥人形は今なお完全に原型を留めている棒の先を、適当な仕草でミナに向けた。


 「今の動きはまあまあ良かったが、普通に反則だぞ。ルール忘れたのか?」


 ミナはその不遜な所作にではなく、それ以前のことに眉根を寄せる。

 彼女も化け物ぶりでは大概で、腹部を完全に両断されていたというのに、着地する時には傷一つなく元通りだった。


 「あのままだったら後ろの馬車まで斬るところだったでしょう。私のペットが乗っているから避けたのよ」

 「そうなのか? それは悪かった」


 殆ど無音の、しかし恐ろしいほどに苛烈な戦闘を繰り広げた二人は、揃って得物を下げている。

 交わされた言葉には戦意や悪意ではなく、むしろ親しみが籠っていて、会話が聞こえた騎士たちが顔を見合わせて困惑していた。





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